ちいさこべ 山本周五郎 ①
リメイクで漫画化もされている。
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問題文
(しげじはかわごえへでしごとにいっていたので、)
茂次は川越へ出仕事にいっていたので、
(そのかじのことをしったのはよくじつのゆうがたであった。)
その火事のことを知ったのは翌日の夕方であった。
(とうじつのばんにもちょっとみみにした。)
当日の晩にもちょっと耳にした。
(かわごえこう(まつだいらなおあつ)がざいじょうなので、えどていからきゅうほうがあったのだろう、)
川越侯(松平直温)が在城なので、江戸邸から急報があったのだろう、
(かなりおおきくやけているというはなしだった。)
かなり大きく焼けているというはなしだった。
(えどでそだったにんげんはかじにはなれているし、)
江戸で育った人間は火事には馴れているし、
(まだくがつになったばかりなので、かくべつきにもとめなかった。)
まだ九月になったばかりなので、かくべつ気にもとめなかった。
(「くがつのかじじゃあたいしたこたあねえ」としょうきちがいった、)
「九月の火事じゃあたいしたこたあねえ」と正吉が云った、
(「もっともおれのるすにおおきなかじがあるはずはねえんだ」)
「もっともおれの留守に大きな火事がある筈はねえんだ」
(いっしょにつれてきたさんにんのなかで、)
いっしょに伴れて来た三人の中で、
(はたちになるしょうきちはかじきちがいといわれていた。)
二十歳になる正吉は火事きちがいといわれていた。
(かれも「だいとめ」のこがいのでしであるが、)
彼も「大留」の子飼いの弟子であるが、
(じゅうさんしのじぶんからかじがすきで、はんしょうのねをきくとすぐにとびだしてゆく。)
十三四のじぶんから火事が好きで、半鐘の音を聞くとすぐにとびだしてゆく。
(だいとめのみせはかんだのいわいちょうにあるが、おちこちにおかまいなしで、)
大留の店は神田の岩井町にあるが、遠近にお構いなしで、
(いちどはせんじゅおおはしのむこうまでとんでゆき、)
いちどは千住大橋の向うまでとんでゆき、
(あくるひのくじごろにかえったことがあった。)
明くる日の九時ごろに帰ったことがあった。
(かじがあればだいくはもうかる、かじはだいくのまもりがみだ。)
火事があれば大工は儲かる、火事は大工の守り神だ。
(などといって、おやかたのとめぞうになぐられたこともあった。)
などと云って、親方の留造に殴られたこともあった。
(そのよくじつのひるすぎ、ちょうどべんとうをたべおわったところへ、)
その翌日のひる過ぎ、ちょうど弁当をたべ終ったところへ、
(じゅうはちになるくろがとびこんできた。)
十八になるくろがとびこんで来た。
(ほんみょうはくろうすけであるし、べつにいろがくろいわけではないが、)
本名は九郎助であるし、べつに色が黒いわけではないが、
(はじめからくろとよばれている。)
初めからくろと呼ばれている。
(かれはのりつぎのはやかごできたのだそうで、)
彼は乗り継ぎの早駕籠で来たのだそうで、
(「わかとうりょうにすぐかえってもらいたい」と、すけじろうのでんごんをつげた。)
「若棟梁にすぐ帰ってもらいたい」と、助二郎の伝言を告げた。
(「しごとなかばにかえれるか」としげじはいった、「いったいなんのようだ」)
「仕事なかばに帰れるか」と茂次は云った、「いったいなんの用だ」
(くろはことばをにごした。)
くろは言葉をにごした。
(しげじはちちのとめぞうのみょうだいできている。)
茂次は父の留造の名代で来ている。
(このとちの「はつね」というりょうりぢゃやのふしんで、)
この土地の「波津音」という料理茶屋の普請で、
(だいとめがいっさいをうけおった。)
大留がいっさいを請負った。
(さかん、やねや、たてぐやなどもえどからよんだし、)
左官、屋根屋、建具屋なども江戸から呼んだし、
(ほかにとちのしょくにんやおいまわしをじゅうしごにんつかっている。)
ほかに土地の職人や追廻しを十四五人使っている。
(しげじのつれてきたさんにんのうち、だいろくはさんじゅういっさいになり、)
茂次の伴れて来た三人のうち、大六は三十一歳になり、
(しげじのこうけんのようなたちばにいるが、)
茂次の後見のような立場にいるが、
(これだけのしごとをだいろくにおしつけてかえるわけにはいかない。)
これだけの仕事を大六に押しつけて帰るわけにはいかない。
(いったいなんのようだとききなおそうとして、)
いったいなんの用だと訊き直そうとして、
(しげじはふと、きのうのかじのことをおもいだした。)
茂次はふと、昨日の火事のことを思いだした。
(「おい」としげじがいった、「うちがやけでもしたのか」)
「おい」と茂次が云った、「うちが焼けでもしたのか」
(くろはあいまいにうなずいた。)
くろはあいまいに頷いた。
(「うちがやけたのか」としげじはこえをたかくした、「おやじやおふくろはぶじか」)
「うちが焼けたのか」と茂次は声を高くした、「おやじやおふくろは無事か」
(くろはだまってこうべをたれた。)
くろは黙って頭を垂れた。
(しげじはあおくなってだいろくをみた。だいろくがたってきた。)
茂次は蒼くなって大六を見た。大六が立って来た。
(「くろ」とだいろくがいった、)
「くろ」と大六が云った、
(「どうしたんだ、とうりょうやおかみさんはぶじなんだろう」)
「どうしたんだ、棟梁やおかみさんは無事なんだろう」
(するとくろがなきだした。)
するとくろが泣きだした。
(しげじがとびかかろうとし、だいろくがあぶなくだきとめた。)
茂次がとびかかろうとし、大六が危なく抱きとめた。
(くろはうででかおをおおい、こどものようにこえをあげてなきだした。)
くろは腕で顔を掩い、子供のように声をあげて泣きだした。
(あきのまひるの、しずかなふしんばにひびくくろのなきごえは、)
秋のまひるの、静かな普請場にひびくくろの泣き声は、
(そのままことのじゅうだいさをしめすようで、みんなはげしくあっとうされ、)
そのままことの重大さを示すようで、みんな激しく圧倒され、
(すぐにはみうごきをするものもなかった。)
すぐには身動きをする者もなかった。
(「しょうきち、わかとうりょうをたのむぞ」とだいろくがおだやかにいった。)
「正吉、若棟梁を頼むぞ」と大六が穏やかに云った。
(「くろ、こっちへこい」だいろくはくろをわきのほうへつれていった。)
「くろ、こっちへ来い」大六はくろを脇のほうへ伴れていった。
(しげじはきごやのまえのざいもくにこしをかけた。)
茂次は木小屋の前の材木に腰をかけた。
(かれのかくばったたくましいかおは、ほうしんしたようにちからをうしない、)
彼の角張った逞しい顔は、放心したように力を失い、
(めはぼんやりとして、しろくかわいたじめんをながめるともなくながめていた。)
眼はぼんやりとして、白く乾いた地面を眺めるともなく眺めていた。
(おやじはしんだな、としげじはこころのなかでおもった。)
おやじは死んだな、と茂次は心の中で思った。
(ちちのとめぞうはそのとしのしがつにたおれ、ねたりおきたりというじょうたいがつづいていた。)
父の留造はその年の四月に倒れ、寝たり起きたりという状態が続いていた。
(びょうきはごくかるいそっちゅうで、ふゆまでにはかならずぜんかいすると、さんにんのいしゃがいった。)
病気はごく軽い卒中で、冬までには必ず全快すると、三人の医者が云った。
(ひをみてにどめがきたんだろう。)
火を見て二度めが来たんだろう。
(はげしいどうさやしんろうが、にどめのほっさをおこしやすいことはわかっていた。)
激しい動作や心労が、二度めの発作を起こしやすいことはわかっていた。
(おそらくにどめがきたのであろう。)
おそらく二度めが来たのであろう。
(おふくろはさぞびっくりしたろうな、とかれはおもった。)
おふくろはさぞ吃驚したろうな、と彼は思った。
(じょうにはもろいが、きのまさっていたははは、)
情には脆いが、気の勝っていた母は、
(しがつにおっとがたおれたときすっかりどうてんしてしまい、)
四月に良人が倒れたときすっかり動顛してしまい、
(それいらいひとがかわったように、ひっこみじあんな、おどろきやすいしょうぶんになった。)
それ以来ひとが変ったように、引込み思案な、おどろきやすい性分になった。
(しげじがかわごえへでしごとにくるときも、るすになにかあったらどうしようかと、)
茂次が川越へ出仕事に来るときも、留守になにかあったらどうしようかと、
(いかにもこころぼそそうにしていたすがたがめにのこっている。)
いかにも心ぼそそうにしていた姿が眼に残っている。
(かえらなくちゃあならない。)
帰らなくちゃあならない。
(ははのためにもすぐかえることにしよう、)
母のためにもすぐ帰ることにしよう、
(しげじがそうおもっていると、だいろくがもどってきた。)
茂次がそう思っていると、大六が戻って来た。
(「わかとうりょう、あっしはえどへいってきます」とだいろくがいった、)
「若棟梁、あっしは江戸へいって来ます」と大六が云った、
(「いや、あっしのほうがいい、わかとうりょうはのこっておくんなさい」)
「いや、あっしのほうがいい、若棟梁は残っておくんなさい」
(「どういうことなんだ」)
「どういうことなんだ」
(「くわしいじじょうはわからねえが、おまえさんのことだからはっきりいっちまう」)
「詳しい事情はわからねえが、おまえさんのことだからはっきり云っちまう」
(とだいろくはまともにしげじをみつめながらいった、)
と大六はまともに茂次をみつめながら云った、
(「とうりょうもおかみさんも、いけなかったらしい」)
「棟梁もおかみさんも、いけなかったらしい」
(しげじはぼんやりとだいろくをみ、)
茂次はぼんやりと大六を見、
(それから、したがきかなくなりでもしたようなくちぶりで、)
それから、舌がきかなくなりでもしたような口ぶりで、
(「おふくろも」とききかえした。)
「おふくろも」と訊き返した。
(「なんといいようもねえが」とだいろくはめをふせた、)
「なんと云いようもねえが」と大六は眼を伏せた、
(「そういうわけだから、ここはあっしがいくほうがいいとおもう。)
「そういうわけだから、ここはあっしがいくほうがいいと思う。
(わかとうりょうはそれからにしたほうがいいとおもうんだが」)
若棟梁はそれからにしたほうがいいと思うんだが」
(しげじはだまっていた。だいろくはしばらくまっていたが、しげじはみうごきもしなかった。)
茂次は黙っていた。大六は暫く待っていたが、茂次は身動きもしなかった。
(「わかとうりょう」とだいろくがよびかけた。)
「若棟梁」と大六が呼びかけた。
(しげじはだまっていた。)
茂次は黙っていた。
(「わかとうりょう」とだいろくはいった、)
「若棟梁」と大六は云った、
(「おまえさんしっかりしてくれなくちゃあこまりますぜ」)
「おまえさんしっかりしてくれなくちゃあ困りますぜ」
(するとしげじは、とつぜんかおをあげて、どなった、)
すると茂次は、とつぜん顔をあげて、どなった、
(「うるせえ、てめえこそしっかりしろ、おやじもおふくろもしんだとすれば、)
「うるせえ、てめえこそしっかりしろ、おやじもおふくろも死んだとすれば、
(あとしまつにてぬかりがあるとだいとめのなにかかわるぞ、)
あと始末に手ぬかりがあると大留の名にかかわるぞ、
(そいつをわすれずにしっかりやってこい」)
そいつを忘れずにしっかりやって来い」
(「へえ」とだいろくはこうべをたれた。)
「へえ」と大六は頭を垂れた。