菊屋敷 山本周五郎 6

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学者の父を亡くした志保は、子供たちに手習いを教えている。
ある日署名のない恋文を受けとる。
そして妹の小松からある相談を持ちかけられる。

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問題文

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(そうだんはそれできまった、しほがなにをかんがえるひつようもなく、)

相談はそれできまった、志保がなにを考える必要もなく、

(こまつはじぶんのおもうままにことをはこんでゆき、てきぱきとしめくくりをつけた、)

小松は自分の思うままに事を運んでゆき、てきぱきと締め括りをつけた、

(「きょうからはこのおばさまのおこになるのですよ」こどもにもそういいきかせた、)

「今日からはこの伯母さまのお子になるのですよ」子供にもそう云いきかせた、

(「いつもはなすとおりおじいさまはたこくにまでおなをしられたりっぱなかたでした。)

「いつも話すとおりお祖父さまは他国にまでお名を知られたりっぱな方でした。

(あなたもおばさまのおおしえをよくまもって、おじいさまにまけない)

あなたも伯母さまのお訓をよく守って、お祖父さまに負けない

(すぐれたひとにならなければいけません。あなたのせいじんぶりによっては、)

すぐれた人にならなければいけません。あなたの成人ぶりに依っては、

(くろかわのかめいをさいこうしていただけるかもしれないのですから、わかりましたね」)

黒川の家名を再興して頂けるかも知れないのですから、わかりましたね」

(まるよんさいのこにはむりなことをきびきびといいきかせ、)

まる四歳の子には無理なことをきびきびと云い聞かせ、

(なおせきたてるようにしほとのははこのかためのさかずきをうながした。)

なおせきたてるように志保との母子のかための盃を促がした。

(しほはいわれるままになっていた。いまごろはちょうどしょうねんじのちちのぼぜんで、)

志保は云われるままになっていた。今頃はちょうど正念寺の父の墓前で、

(てがみのぬしがむなしくじぶんをまっているにちがいない、どうぞおゆるしあそばして。)

手紙のぬしが空しく自分を待っているに違いない、どうぞお赦しあそばして。

(しほはむなぐるしいほどのおもいでそうねんじた、こうなることがなきちちの)

志保は胸苦しいほどの思いでそう念じた、こうなることが亡き父の

(いしだとぞんじます。あなたもそうおぼしめして、わたくしのことは)

意志だと存じます。あなたもそう思召して、わたくしのことは

(どうぞこれぎりおわすれくださいまし。そしてなおしほはじぶんにちかうのだった。)

どうぞこれぎりお忘れ下さいまし。そしてなお志保は自分に誓うのだった。

(これでしょうがいのみちがきまった。じぶんはしんたろうのよういくになにもかもうちこもう、)

これで生涯の道がきまった。自分は晋太郎の養育になにもかもうち込もう、

(あらゆるものをなげうってこのこをいかすのだ。)

あらゆるものをなげうってこの子を生かすのだ。

(そのべふさいがたっていったひからみっかめに、すぎたしょうざぶろうが)

園部夫妻が立っていった日から三日めに、杉田庄三郎が

(さんめいのせいねんたちとたずねてきた。ようけんはむろんせいけんいげんのこうぎのことだった。)

三名の青年たちと訪ねて来た。用件はむろん靖献遺言の講義のことだった。

(しほははっきりとことわった。)

志保ははっきりと断わった。

(「よくかんがえてみましたが、あのしょはほうれきねんちゅう、たけのうちしきぶどのがきょうで)

「よく考えてみましたが、あの書は宝暦年中、竹内式部どのが京で

など

(くぎょうがたにこうぎをあそばして、ばくふからきびしいおとがめをうけたものだと)

公卿がたに講義をあそばして、幕府から厳しいお咎めを受けたものだと

(うかがいました。ちちがみなさまにじゅこうしなかったのも、そこをはばかったのでは)

伺いました。父がみなさまに授講しなかったのも、そこを憚かったのでは

(ございますまいか、わたくしそうぞんじますけれど」)

ございますまいか、わたくしそう存じますけれど」

(「おっしゃるとおりだとおもいます。しかしわれわれがいげんをこうじて)

「仰しゃるとおりだと思います。しかしわれわれが遺言を講じて

(いただきたいりゆうのひとつもそこにあるんです」しょうざぶろうはこえをひくくした、)

頂きたい理由の一もそこにあるんです」庄三郎は声を低くした、

(「わたくしどもはばくしんですけれども、ただばくふにつかえているだけで)

「わたくし共は幕臣ですけれども、ただ幕府に仕えているだけで

(ほんぶんをつくしたとはいえません。なきせんせいのおしえはつねにそれをしめしてくだすった。)

本分を尽したとはいえません。亡き先生の教はつねにそれを示して下すった、

(ぎりぎりにつきつめればわれわれはみなちょうていのつわものである、)

ぎりぎりにつき詰めればわれわれはみな朝廷の兵である、

(たいぎとはそのいってんをさし、しんめいをささぐるところもそのほかにはない、)

大義とはその一点をさし、身命を捧ぐるところもそのほかにはない、

(ちょくせつのしゅくんたるばくふへちゅうせつをつくすのはいうまでもないが、)

直接のしゅくんたる幕府へ忠節を尽すのは云うまでもないが、

(ならなければならぬ、ちゅうとはそのことのいだとおおせられました、)

ならなければならぬ、忠とはそのことの謂だと仰せられました、

(まんいちにもばくふにひいがあれば、かんぜんとたってちょうのみたてと)

万一にも幕府に非違があれば、敢然とたって朝の御盾と

(せいけんいげんがまことにぎれつのせいしんをやしなうしょであるなら、)

靖献遺言がまことに義烈の精神をやしなう書であるなら、

(ばくふのきいをおそれるようはない、せんせいのじだいにもしはばからねばならなかった)

幕府の忌諱を怖れる要はない、先生の時代にもし憚らねばならなかった

(ものなら、われらのじだいにおいてそのもうをひらくべきだとおもうのです、)

ものなら、われらの時代においてその蒙を啓くべきだと思うのです、

(おそらくせんせいもこれにごいぞんはないとしんじます」)

おそらく先生もこれに御異存はないと信じます」

(「それこそちちののぞむところだとぞんじます、わたくしにはどうしても)

「それこそ父の望むところだと存じます、わたくしにはどうしても

(ごこうぎなどはできませんけれど、みなさまでごいっしょにごこうどくあそばしては)

御講義などはできませんけれど、皆さまでご一緒にご講読あそばしては

(いかがでございますか。まいつきのきにちにはここへいらっしゃるのですし、)

いかがでございますか。毎月の忌日には此処へいらっしゃるのですし、

(そのひならじゅくもあいておりますから」)

その日なら塾もあいておりますから」

(しょうざぶろうはそれでもなおしほのこうぎをのぞんだ、それはしほをつうじてなきかずたみの)

庄三郎はそれでもなお志保の講義を望んだ、それは志保を通じて亡き一民の

(せいしんにふれたいからである。しかしどうしてもしほがしょうちしないので、)

精神に触れたいからである。しかしどうしても志保が承知しないので、

(ついにはしかたなく、きにちにじゅくへあつまってじぶんたちでこうどくすることにきめ、)

ついには仕方なく、忌日に塾へ集って自分たちで講読することにきめ、

(はなしがおわるとすぐにざをたった、このあいだしほは、ちゅういをこらせて)

話が終るとすぐに座を立った、このあいだ志保は、注意を凝らせて

(すぎたしょうざぶろうのきょそをみた。りゆうはなにもないが、あいたいしているうちにふいと、)

杉田庄三郎の挙措を視た。理由はなにもないが、相対しているうちにふいと、

(このかたではないかしら、そういうきもちがしはじめたのである。)

この方ではないかしら、そういう気持がしはじめたのである。

(なぜそうおもいついたのかまったくわからないし、あいてのそぶりに)

なぜそう思いついたのかまったくわからないし、相手のそぶりに

(かわったところがあるわけでもなかった。ただふいとそういうきもちにおそわれ、)

変ったところがあるわけでもなかった。ただふいとそういう気持に襲われ、

(どうじになぜいままでこのかたにきづかなかったのかと)

同時になぜ今までこの方に気づかなかったのかと

(じぶんがいぶかしくさえかんじられた。)

自分が訝かしくさえ感じられた。

(すぎたははんのしょいんばんをつとめている、にひゃくななじゅっこくあまりのすじめただしいいえがらで、)

杉田は藩の書院番を勤めている、二百七十石余の筋目正しい家柄で、

(ちちはすでにぼっし、かぞくはははおやとかれのふたりきりである。)

父はすでに歿し、家族は母親とかれの二人きりである。

(としはさんじゅういちになるがまだめとらず、「よめのかわりです」などといいながら、)

年は三十一になるがまだ娶らず、「嫁の代りです」などと云いながら、

(ずいぶんまめまめしくははにつかえているという。)

ずいぶんまめまめしく母に仕えているという。

(かずたみのきゅうもんかじゅうしちにんのなかではこさんだし、じょうけんをかんがえると)

一民の旧門下十七人のなかでは古参だし、条件を考えると

(しほがそうおもいついたのはむしろおそすぎたくらいかもしれない。)

志保がそう思いついたのは寧ろ遅すぎたくらいかも知れない。

(けれどそうおもってよくよくちゅういしてみたが、しょうざぶろうのようすには)

けれどそう思ってよくよく注意してみたが、庄三郎のようすには

(いささかもかわったところはなかった。)

些かも変ったところはなかった。

(「ではかんがえちがいかしら」しほはかれらをおくりだしてから、)

「では考え違いかしら」志保はかれらを送りだしてから、

(おもいまどったようにつぶやいた、「もしあのかたなら、あれほどへいきな)

思い惑ったように呟やいた、「もしあの方なら、あれほど平気な

(れいたんなおうたいはなされないはずだ、ではいったいだれだったのだろう」)

冷淡な応対はなされない筈だ、ではいったい誰だったのだろう」

(すべてをあきらめたとおもいきってから、かえってしほのこころはてがみのぬしに)

すべてを諦めたと思い切ってから、却って志保の心は手紙の主に

(ひきつけられるようだった。むろんそのぬしがわかったとしても、)

惹きつけられるようだった。むろんその主がわかったとしても、

(いまはもうどうするすべもない。しんたろうをそだてあげることにいっしょうをささげるほか、)

今はもうどうするすべもない。晋太郎を育てあげることに一生を捧げるほか、

(じぶんのいきるみちはない。かたくそうけっしんしているにもかかわらず、)

自分の生きる道はない。かたくそう決心しているにも拘わらず、

(かえってこころひかれるのはなぜだろうか、こういうきもちを)

却ってこころ惹かれるのはなぜだろうか、こういう気持を

(みれんというのであろう、はずかしいことだ。しほはじぶんをせめ、)

みれんというのであろう、恥ずかしいことだ。志保は自分を責め、

(できるだけそういうかんじょうからぬけでようとつとめるのだった。)

できるだけそういう感情からぬけ出ようと努めるのだった。

(しんたろうはおんじゅんなこだった。ふぼとわかれてからしごにちは、ひともしごろになると)

晋太郎は温順な子だった。父母と別れてから四五日は、燈頃になると

(かなしそうで、ひとりにわへでていっては、なみだのたまっためで)

悲しそうで、独り庭へ出ていっては、涙の溜った眼で

(じっととおいやまなみをみていたりした。ねどこのなかでかすかに)

じっと遠い山なみを見ていたりした。寝床のなかで微かに

(むせびないているこえもにさんどきいた。しほのむねはさされるようにいたんだ。)

むせび泣いている声も二三ど聞いた。志保の胸は刺されるように痛んだ。

(かきだいていっしょになきたいというはげしいしょうどうがつきあげてきた。)

かき抱いていっしょに泣きたいという烈しい衝動がつきあげてきた。

(けれどしほはじっとそれをがまんした、つまらぬなぐさめなどで)

けれど志保はじっとそれをがまんした、つまらぬ慰めなどで

(まぎれるかなしみではない、すきなだけそっとなかせておくべきだ、)

まぎれる悲しみではない、好きなだけそっと泣かせて置くべきだ、

(かなしさつらさにたえるところから、にんげんのつよくいきるちからがうまれるのだから。)

悲しさ辛さに堪えるところから、人間の強く生きるちからが生れるのだから。

(はをくいしばるおもいでけんめいにじぶんをおさえつけ、できるだけみてみぬふりを)

歯をくいしばる思いでけんめいに自分を抑えつけ、できるだけ見て見ぬふりを

(しとおしたのであった。だがそういうかなしみもやがてうすれてゆき、)

しとおしたのであった。だがそういう悲しみもやがて薄れてゆき、

(すこしずつしほやおかやにもなれはじめた。)

少しずつ志保やお萱にも馴れはじめた。

(「しんたろうさまはきっとたいそうなごりっしんをあそばしますよ」おかやはじしんありげに)

「晋太郎さまはきっとたいそうなご立身をあそばしますよ」お萱は自信ありげに

(たびたびそんなことをいった、「まゆつきとおくちもとがじんじょうでいらっしゃらない、)

たびたびそんなことを云った、「眉つきとお口許が尋常でいらっしゃらない、

(これはひとのあたまにたつかたのみそうです。まあみておいであそばせ、)

これは人の頭に立つ方の御相です。まあみておいであそばせ、

(いまにおかやのもうすとおりにおなりですから」)

いまにお萱の申すとおりにお成りですから」

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