菊屋敷 山本周五郎 3
そして妹の小松からある相談を持ちかけられる。
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問題文
(しかしはずかしめられたいかりもそれでややとけ、これはこかだと)
しかし辱しめられた怒りもそれでやや解け、これは古歌だと
(すぐにひきだせるじぶんのきおくりょくをもたしかめて、そのときはかなり)
すぐにひきだせる自分の記憶力をもたしかめて、そのときはかなり
(とくいだったのである。もちろにまではそんなきおいだったきもちはない。)
得意だったのである。もちろん今ではそんなきおい立った気持はない。
(ひかえめにつつましくといういましめも、じぶんでのぞんだほどは)
控えめにつつましくという戒しめも、自分で望んだほどは
(みについたとおもえる。このけんきょさにあやまりがなければ、)
身についたと思える。この謙虚さに誤まりがなければ、
(おんなとしてがくもんのみちにわけいっても、おやくにたつことができるのではないか。)
女として学問の道にわけ入っても、お役にたつことができるのではないか。
(わかきひにゆめみえがいたようなかがやかしさはないが、)
若き日に夢み描いたような輝やかしさはないが、
(がくもんへかえれるとおもうことは、さすがにこころおどるゆうわくだった、)
学問へ還れると思うことは、さすがに心おどる誘惑だった、
(しほはからだのうちにあたらしいちからがうごきだすようにかんじ、)
志保はからだの内に新しいちからが動きだすように感じ、
(じょうきしためをあげてあきぞらをみた。そこへおかやのよぶこえがきこえた。)
上気した眼をあげて秋空を見た。そこへお萱の呼ぶこえが聞えた。
(じゅくのたてものからでてきたところで、てにいっつうのふうしょをもっていた。)
塾の建物から出て来たところで、手に一通の封書を持っていた。
(「いまあとかたづけにまいりましたら、このようなおふみがおいてございました」)
「いまあと片付けにまいりましたら、このようなお文が置いてございました」
(「どなたかおわすれだったのでしょう」)
「どなたかお忘れだったのでしょう」
(「いいえおじょうさまへあてたおふみでございますよ」)
「いいえお嬢さまへ宛てたお文でございますよ」
(そういってわたされたふうしょをてにして、しほはひらめくように)
そう云って渡された封書を手にして、志保はひらめくように
(いつぞやのさねとものうたをおもいだした。それはついいまそのときのことを)
いつぞやの実朝の歌を思いだした。それはつい今そのときのことを
(かいそうしていたからかもしれない、あのときのかただ、ということばが)
回想していたからかも知れない、あのときの方だ、という言葉が
(はんしゃするようにあたまへのぼった。おもてにはじぶんのながかいてあるけれど、)
反射するように頭へのぼった。表には自分の名が書いてあるけれど、
(しょめいはどこにもみつからない、「まあ、どなたからでしょう」)
署名はどこにもみつからない、「まあ、どなたからでしょう」
(しほはさりげなくつぶやきながら、おかやにかおをみられないようにして)
志保はさりげなく呟やきながら、お萱に顔を見られないようにして
(いえへあがった。そのふみをひらいたのはよるになってからだった。)
家へあがった。その文をひらいたのは夜になってからだった。
(そのままひらいてしまおうかとずいぶんまよったあげく、)
そのままひらいてしまおうかとずいぶん迷ったあげく、
(やはりひらくきもちになったのである、あのときのてと)
やはりひらく気持になったのである、あのときの手と
(おなじものかどうかはわからないが、しっかりとしたみごとなひっせきで、)
同じものかどうかはわからないが、しっかりとしたみごとな筆跡で、
(すみいろもきわめてうつくしい、しほはあてなのもじをしばらくみつめていたが、)
墨色もきわめて美しい、志保は宛名の文字を暫らくみつめていたが、
(やがてふうをきってしずかによみはじめた。はたしてさっしのとおりだった。)
やがて封を切ってしずかに読みはじめた。果して察しのとおりだった。
(それはさねとものうたをかいてよこしたおなじひとで、てがみはまずかつてのぶれいを)
それは実朝の歌を書いてよこした同じ人で、手紙はまずかつての無礼を
(くりかえしわびるもじからはじまっていた。)
繰り返し詫びる文字から始まっていた。
(じぶんもまだとしがわかく、いちずのきもちにかられてあんなことをしたが、)
自分もまだ年が若く、いちずの気持に駆られてあんなことをしたが、
(しかしけっしていたずらとかちょうろうなどといういみはなかった、)
しかし決していたずらとか嘲弄などという意味はなかった、
(きんかいしゅうのうたをかきぬいたのは、あれがひごろじぶんのあいしょうするものであり、)
金槐集の歌を書きぬいたのは、あれが日ごろ自分の愛誦するものであり、
(あのときのこころをいかにもよくつたえられるようにおもえたからである。)
あのときの心をいかにもよく伝えられるように思えたからである。
(そこまでのぶんしょうのすなおさ、かざりのないしょうじきなかきぶりがしほのむねをうった。)
そこまでの文章のすなおさ、飾りのない正直な書きぶりが志保の胸をうった。
(そしていちがいにちょうろうされたとおもったじぶんの、かたくななこころざまをかえりみて)
そしていちがいに嘲弄されたと思った自分の、頑なな心ざまをかえりみて
(わきのあたりにじっとりとあせをかんじた。だがふみはそこからしだいに)
脇のあたりにじっとりと汗を感じた。だが文はそこからしだいに
(つよいごちょうにかわっていた。あのときのきもちは、げんざいなおおなじつよさで)
強い語調に変っていた。あのときの気持は、現在なお同じ強さで
(じぶんのこころをしめている、こういうとあなたはまたおいかりなさるだろうか、)
自分の心を占めている、こう云うとあなたはまたお怒りなさるだろうか、
(もしおいかりになるようだったらあなたのまちがいである、)
もしお怒りになるようだったらあなたの間違いである、
(あなたはつめたいくらいれいりなあたまをもっていらっしゃるのに、)
あなたは冷たいくらい怜悧な頭をもっていらっしゃるのに、
(ただひとつのことだけにはぐまいのようにめがおみえにならない、)
唯ひとつの事だけには愚昧のように眼がおみえにならない、
(それはあなたがごじぶんをうつくしくないとおしんじになっていることだ。)
それはあなたがご自分を美しくないとお信じになっていることだ。
(なるほど、あなたはよにいうえんれいのおひとがらではない、)
なるほど、あなたは世にいう艶麗のおひとがらではない、
(とてがみはかきつづけてあった、だからひとにはたやすくはわからないかもしれない、)
と手紙は書き続けてあった、だから人にはたやすくはわからないかも知れない、
(けれどもあなたにちかづき、あなたとことばをかわしていると、)
けれどもあなたに近づき、あなたと言葉を交わしていると、
(いいようのないうつくしさ、こころのおくまであたためられるようなうつくしさにうたれる、)
云いようのない美しさ、心の奥まで温められるような美しさにうたれる、
(そういうときのあなたは、おかおつきまでがつねにはみられない)
そういうときのあなたは、お顔つきまでが常には見られない
(さえざえとしたうつくしさをたたえるが、おそらくあなたごじしんは)
冴え冴えとした美しさを湛えるが、おそらくあなたご自身は
(おきづきなさらぬだろう、そしてそれにきづかぬところが)
お気づきなさらぬだろう、そしてそれに気づかぬところが
(あなたのよいところでありけってんともなっている。)
あなたのよいところであり欠点ともなっている。
(じぶんはいまでもあなたをいえのつまにむかえたいとねがっている、)
自分は今でもあなたを家の妻に迎えたいと願っている、
(このきもちはろくねんまえとすこしもかわってはいない、むしろながく)
この気持は六年まえと少しも変ってはいない、寧ろながく
(おちかづきもうしていればいるほど、あなたならではというかくしんが)
お近づき申していればいるほど、あなたならではという確信が
(つよまるばかりである、どうかへいせいのあなたのあたたかなこころで、)
強まるばかりである、どうか平生のあなたの温かな心で、
(すなおにじぶんのもうしでをきいていただきたい、すこしかんがえることもあるので)
すなおに自分の申出を聞いて頂きたい、少し考えることもあるので
(このてがみにもわざとしょめいはしないが、もしこのねがいがかなえられる)
この手紙にもわざと署名はしないが、もしこの願いがかなえられる
(ものであるなら、あけなのかのあさじゅうじ、しょうねんじのせんせいのごぼぜんまでおはこびをまつ、)
ものであるなら、明七日の朝十時、正念寺の先生の御墓前までおはこびを待つ、
(ごぼぜんでならなきせんせいもそうつよくはおしかりなさるまいとおもう、)
御墓前でなら亡き先生もそう強くはお叱りなさるまいと思う、
(じゅうじまでにおいでがなければ、もしおいでがないとすれば、)
十時までにおいでがなければ、もしおいでがないとすれば、
(まだじきでないものとおもって、なおじぶんはそのときのくるのを)
まだ時期でないものと思って、なお自分はそのときの来るのを
(まつけっしんである。)
待つ決心である。
(てがみのもじはそこでおわっていた。しょめいはもちろん、そのぬしをあんじする)
手紙の文字はそこで終っていた。署名はもちろん、その主を暗示する
(なんのしるしもついていない、しほはこころをかきみだされた、うまれてはじめて)
なんの印も付いていない、志保は心をかき乱された、生れて初めて
(ぜんしんのちがかっともえるようにかんじ、ふみをもつてが)
全身の血がかっと燃えるように感じ、文を持つ手が
(はずかしいほどふるえた。ろくねんというせいそうをへだてて、すこしもかわらず)
恥ずかしいほどふるえた。六年という星霜を隔てて、少しも変らず
(じぶんをあいしつづけてくれたものがある、いちどはあいしょうのこかにたくして、)
自分を愛しつづけて呉れた者がある、いちどは愛誦の古歌に託して、
(こんどはうちつけに、けれどすがすがしいほどそっちょくにこころをうちあけている、)
こんどはうちつけに、けれどすがすがしいほど率直に心をうちあけている、
(しほはいきぐるしいようなせつなさにむねをしめつけられた、)
志保は息苦しいような切なさに胸を緊めつけられた、
(どなたかしら、それをしりたかった。これだけじぶんにこころをよせてくれるかたなら、)
どなたかしら、それを知りたかった。これだけ自分に心をよせて呉れる方なら、
(いままでどこかにそういうそぶりのみえなかったはずがない、)
今までどこかにそういうそぶりの見えなかった筈がない、
(そうかんがえてよくよくおもいかえしてみるが、あいてがふかくつつしんでいたためか、)
そう考えてよくよく思い返してみるが、相手が深く慎んでいたためか、
(じぶんにそういういしきがなかったからか、おぼろげにもそれと)
自分にそういう意識が無かったからか、おぼろげにもそれと
(すいさつのつくきおくはなかった。)
推察のつく記憶はなかった。