菊屋敷 山本周五郎 2
そして妹の小松からある相談を持ちかけられる。
おこの沙汰(さた)/烏滸の沙汰:おろかな事、バカげている様子
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問題文
(ではごめんをこうむりますといって、じゅうしちにんはにわからじゅくのたてものへ)
ではご免をこうむりますといって、十七人は庭から塾の建物へ
(はいっていった。おかやとふたりして、そうじゅくのみごとなあまがきとちゃをはこんだしほは、)
はいっていった。お萱と二人して、早熟のみごとな甘柿と茶を運んだ志保は、
(やがてむりやりにせいねんたちのかみざへすわらせられた。)
やがてむりやりに青年たちの上座へ坐らせられた。
(ちちのもんじんとなってひのあさいものでもごねん、すぎたしょうざぶろうなどは)
父の門人となって日の浅い者でも五年、杉田庄三郎などは
(もうじゅうねんをこすくらいであるが、かずたみがなくなってからは)
もう十年を越すくらいであるが、一民が亡くなってからは
(しほをかたみのようにおもい、みんなひつようよりもていちょうなれいをもってたいした。)
志保をかたみのように思い、みんな必要よりも鄭重な礼をもって対した。
(しかしそのようにせきのかみざへすえるなどということは、)
しかしそのように席の上座へ据えるなどということは、
(そのときがはじめてのことだった。)
そのときが初めてのことだった。
(「どうしてこのようなむりをなさいますの、ちちがぞんめいでしたら)
「どうしてこのような無理をなさいますの、父が存命でしたら
(なんともうすでしょう、わたくしいやでございますよ」)
なんと申すでしょう、わたくしいやでございますよ」
(「いやこれがおねがいのだいいちなんです」あおえいちのじょうというせいねんがいった、)
「いやこれがお願いの第一なんです」青江市之丞という青年が云った、
(「われわれはこれからあなたにしじするのですから」)
「われわれはこれからあなたに師事するのですから」
(「まあなにをおっしゃいます」「あおえのもうすことはじじつです」)
「まあなにを仰しゃいます」「青江の申すことは事実です」
(すぎたしょうざぶろうがくちをさしはさんだ、「おじょうさまはせんせいからせいけんいげんのごこうぎを)
杉田庄三郎が口をさしはさんだ、「お嬢さまは先生から靖献遺言の御講義を
(おききになったとおもいますが」)
お聴きになったと思いますが」
(「さあ、そのようなことがございましたかしら」)
「さあ、そのようなことがございましたかしら」
(「おかくしなさることはありません、せんせいがごじぶんのべんきょうのために)
「お隠しなさることはありません、先生がご自分の勉強のために
(おじょうさまへこうぎをしていらっしゃる、そううかがったことをおぼえています、)
お嬢さまへ講義をしていらっしゃる、そう伺がったことを覚えています、
(そのこうぎを、こんどはあなたからわれわれがおききもうしたいのです」)
その講義を、こんどはあなたからわれわれがお聴き申したいのです」
(「なんのことかとぞんじましたら」としほはめをみはった、)
「なんのことかと存じましたら」と志保は眼をみはった、
(「そのようなおはなしでしたらわたくしなどのちからでおよぶことでは)
「そのようなおはなしでしたらわたくしなどのちからで及ぶことでは
(ございません、どうしてまたそんなことをおおもいつきあそばしました」)
ございません、どうしてまたそんなことをお思いつきあそばしました」
(「まあおききください」しょうざぶろうはみんなのいけんをだいひょうするようにひざをすすめた、)
「まあお聞き下さい」庄三郎はみんなの意見を代表するように膝を進めた、
(「なきせんせいのおしえは、しゅしとはいいながらこうがくがじくとなっていました、)
「亡き先生のお教えは、朱子とはいいながら皇学が軸となっていました、
(いかなるがくもんもこくたいをめいちょうせずしてあることはゆるされない、)
いかなる学問も国体を明徴せずしてあることは許されない、
(すべてはくににほうずるこころ、ぎにじゅんずるれつれつたるそうしをどだいとして)
すべては国に奉ずる心、義に殉ずる烈々たる壮志を土台として
(はじまらなければならぬ。あさみしのせいけんいげんはそのいみにおいて)
始まらなければならぬ。浅見氏の靖献遺言はその意味において
(こうしりょうといえよう。せんせいはたびたびそうおおせられました。)
好資料といえよう。先生はたびたびそう仰せられました。
(われわれはそのせんせいのおこころをけいしょうしたいとおもうのです。)
われわれはその先生のお心を継承したいと思うのです。
(いげんのしょさつはこちらのぶんこにあるのでございましょう」)
遺言の書冊はこちらの文庫にあるのでございましょう」
(「しょもつはございます。みなさまのおきもちもよくわかりました」)
「書物はございます。みなさまのお気持もよくわかりました」
(そういってしほはふとめをふせた、「それではにさんにちかんがえさせてくださいまし。)
そう云って志保はふと眼を伏せた、「それでは二三日考えさせて下さいまし。
(そのうえでおへんじをもうしあげましょう」)
そのうえでお返辞を申上げましょう」
(「けっこうです。しかしどうかせんせいのごいしをつぐというてんもおわすれなく、)
「結構です。しかしどうか先生の御遺志を継ぐという点もお忘れなく、
(なるべくわれわれののぞみをおかなえください」)
なるべくわれわれの望みをおかなえ下さい」
(それではなしはおわり、しほはちゃをかえにたった。さかがすむと、)
それで話は終り、志保は茶を替えに立った。茶菓が済むと、
(みんなでちかくのしょうねんじへはかまいりにゆき、いちどやしきへもどって、)
みんなで近くの正念寺へ墓参にゆき、いちど屋敷へ戻って、
(そこからもんじんたちはかえっていった。しほはにわはずれまでおくり、)
そこから門人たちは帰っていった。志保は庭はずれまで送り、
(きくばたけのところにたってしばらくみおくった。きくばたけといってもたかだかしごじゅっかぶの、)
菊畑のところに立って暫らく見送った。菊畑といってもたかだか四五十株の、
(それもこばなのきぎくだけであるが、ちちは「かわち」となづけて)
それも小花の黄菊だけであるが、父は「河内」となづけて
(ひじょうにあいしていた。かわちとはくすのきこうをしのぶこころをたくしたものであろうか、)
ひじょうに愛していた。河内とは楠公を偲ぶこころを託したものであろうか、
(たずねたことはないがしほはひそかにそうさっし、いまでもちちのこころが)
訊ねたことはないが志保はひそかにそう察し、今でも父の心が
(そのきくにやどっているようにおもえる。またむらのひとたちは)
その菊に宿っているように思える。また村の人たちは
(このいえをきくやしきとよんでいるが、それもきくのみごとさをいうのではなく、)
この家を菊屋敷と呼んでいるが、それも菊のみごとさを云うのではなく、
(なきあるじのたいせつにするきもちからでたものであった、)
亡きあるじの大切にする気持から出たものであった、
(どのかぶもいまがさきざかりで、あたりのくうきはむせるほども)
どの株も今が咲きざかりで、あたりの空気はむせるほども
(こうがなかおりにみちていた。)
高雅な香りに満ちていた。
(「きょうはなにかよいことがあるようにおもった」しほはくちのうちでふと)
「今日はなにかよいことがあるように思った」志保は口の内でふと
(そうつぶやいた、「わかいひののぞみがかえってきたのであろうか」)
そう呟やいた、「若い日の望みが還ってきたのであろうか」
(よにしられるがくしゃになろう、そうおもったあのころのひたむきなじょうねつが、)
世に知られる学者に成ろう、そう思ったあの頃のひたむきな情熱が、
(いままたしほのむねをあやしくそそった。おんなのみでしょをこうずる)
今また志保の胸をあやしく唆った。女の身で書を講ずる
(などということはおこのさたともいえよう、けれどもちちのいしをつぎ、)
などということはおこの沙汰ともいえよう、けれども父の遺志を継ぎ、
(みについたがくもんをいかすことができれば、かならずしもむえきとはいえないはずだ。)
身についた学問を生かすことができれば、必ずしも無益とはいえない筈だ。
(じぶんはようしょうからちちのそばにいてしたしくおしえをうけ、そのがくとうの)
自分は幼少から父のそばにいて親しく教えを受け、その学統の
(ほうこうもわかっている。あのころのじょうねつがのこっているなら、)
方向もわかっている。あの頃の情熱が残っているなら、
(これからでもじゅうぶんにそれをいかしてゆけるにちがいない。)
これからでも充分にそれを生かしてゆけるに違いない。
(「それに」としほはじぶんにたしかめるようなちょうしでつぶやいた、)
「それに」と志保は自分にたしかめるような調子で呟やいた、
(「あのじぶんのようなうわついたこうまんはもうなくなっているから」)
「あのじぶんのような浮ついた高慢はもう無くなっているから」
(うわついたこうまんということばにはひとつのかいそうがあった。)
浮ついた高慢という言葉には一つの回想があった。
(こまつのけっこんするすこしまえのことだったが、あるひ、しほのいまへふみを)
小松の結婚する少しまえのことだったが、或日、志保の居間へ文を
(いれたものがあった。ひらいてみるといっしゅのれんかがしたためてある。)
入れた者があった。ひらいてみると一首の恋歌がしたためてある。
(じぶんがうつくしからぬむすめで、ひとにあいされるようなことはないと)
自分が美しからぬ娘で、人に愛されるようなことはないと
(かたくしんじていたしほは、それをもんじんたちのちょうろうであるとおもい、)
固く信じていた志保は、それを門人たちの嘲弄であると思い、
(くつじょくかんのためにはげしくみがふるえた。そしてそのれんかが、)
屈辱感のためにはげしく身が震えた。そしてその恋歌が、
(どこかでたしかによんだきおくがあるようにおもえたので、)
どこかでたしかに読んだ記憶があるように思えたので、
(かしゅうをとりだしてきてたんねんにしらべた、するとそれがさねとものきんかいしゅうのなかに)
歌集をとりだしてきて丹念にしらべた、するとそれが実朝の金槐集のなかに
(あるものだということがわかった。そこでしほはちちのいないおりをみて、)
あるものだということがわかった。そこで志保は父のいない折をみて、
(もんじんたちのあつまっているところへゆき、そのうたをよみあげて、)
門人たちの集っているところへゆき、その歌をよみあげて、
(どなたかこのうたをごぞんじでございますか、とたずねた。)
どなたかこの歌をご存じでございますか、と訊ねた。
(もんじんたちはなにごとかというかおつきでしほをみまもったが、)
門人たちはなにごとかという顔つきで志保を見まもったが、
(しっているというものはなかった。このなかにおひとり、たしかにこのうたを)
知っていると云う者はなかった。このなかにお一人、たしかにこの歌を
(ごぞんじのかたがあるはずです、しほはめずらしくはりをふくんだこわねでそういった。)
ご存じの方がある筈です、志保は珍らしく針を含んだこわねでそう云った。
(そのおひとりにもうしあげますが、いまのいっしゅはきんかいしゅうにあるなだかいうたです。)
そのお一人に申上げますが、いまの一首は金槐集にある名だかい歌です。
(いたずらにしても、きんかいしゅうなどにあるれんかをひくとは、)
いたずらにしても、金槐集などにある恋歌をひくとは、
(おちえのないなされかただとおもいます。こんどはもっときおうのしょから)
お智慧のないなされ方だと思います。こんどはもっと稀覯の書から
(おひろいあそばせ。だれかそぶりでそれとしれるものはいないか、)
おひろいあそばせ。誰かそぶりでそれと知れる者はいないか、
(そうおもってちゅういしていたがまるでわからなかった。)
そう思って注意していたがまるでわからなかった。