菊屋敷 山本周五郎 4

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プレイ回数2499難易度(4.5) 4171打 長文
学者の父を亡くした志保は、子供たちに手習いを教えている。
ある日署名のない恋文を受けとる。
そして妹の小松からある相談を持ちかけられる。

来し方/こしかた・きしかた:過ぎ去った時。過去。
衾/ふすま:寝るときにからだの上から掛ける物

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問題文

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(ふしどにはいってからも、そのよるはなかなかねむることができなかった。)

臥所にはいってからも、その夜はなかなか眠ることができなかった。

(にじゅうろくねんのこしかたがよあけまえのあさぎりにつつまれていたとすれば、)

二十六年の来し方が夜明け前の朝靄に包まれていたとすれば、

(いまくもをひきさいてひがのぼり、あさのひかりがかくようとみなぎりだすようなかんじだ。)

いま雲をひき裂いて日が昇り、朝の光が赫燿と漲りだすような感じだ。

(のぞんでもえられないととうにあきらめていたものが、おなじひにふたつとも)

望んでも得られないととうに諦めていたものが、同じ日に二つとも

(じぶんのほうへてをさしのべてきた。ただ「はい」とさえいえば)

自分のほうへ手をさしのべてきた。ただ「はい」とさえ云えば

(ふたつともじぶんのものになる、それはかんがえるだけでも)

二つとも自分のものになる、それは考えるだけでも

(じっしたおおきなこうふくかんであった、しあわせとはこういうものか、)

実した大きな幸福感であった、仕合せとはこういうものか、

(しほにははじめてそれがわかるようにおもえた。)

志保には初めてそれがわかるように思えた。

(「にじゅうろくにもなって」ふとそうつぶやき、またすぐうちけすように、)

「二十六にもなって」ふとそう呟やき、またすぐうち消すように、

(「いやたとえさんじゅう、しじゅうになっていたとしても、こういうしあわせに)

「いやたとえ三十、四十になっていたとしても、こういう仕合せに

(めぐりあえるとわかっていたら、にんげんはどんなこんなんにも)

めぐり逢えるとわかっていたら、人間はどんな困難にも

(かってゆくことができるだろう」)

克ってゆくことができるだろう」

(よいのうちからふきだしたかぜが、やはんにはしゅうらんとなり、)

宵のうちから吹きだした風が、夜半には秋嵐となり、

(うらにあるまつばやしがしきりにしょうしょうとなりわたっていた。)

裏にある松林がしきりに蕭々と鳴りわたっていた。

(いつもならふすまのえりをかきよせ、いきをひそめてききいるのだが、)

いつもなら衾の襟をかき寄せ、息をひそめて聴きいるのだが、

(こよいはそのさむざむとしたしょうらいのおとまでが、)

今宵はその寒ざむとした松籟の音までが、

(じぶんのこうふくをうたってくれるようにおもいなされる、)

自分の幸福を謳って呉れるように思いなされる、

(そのときのこころのありかたによって、にんげんはかぜをきくにさえ)

そのときの心のあり方によって、人間は風を聴くにさえ

(これだけのちがいがある。いくたびもねがえりをしながら、しほはふと)

これだけの違いがある。幾たびも寝返りをしながら、志保はふと

(じぶんのきもちをそうおもいかえして、はてのないくうそうをうちきろうとした。)

自分の気持をそう思い返して、はてのない空想をうち切ろうとした。

など

(よくねむれなかったにもかかわらず、あくるあさははやくめがさめた。)

よく眠れなかったにも拘わらず、明くる朝は早く眼が覚めた。

(きょうからあたらしいじぶんのじんせいがはじまるのだ、そういううちから)

今日から新しい自分の人生が始まるのだ、そういううちから

(つよいかんじょうがむねいっぱいにあふれて、いえのなかにじっとしていられないきもちだった。)

強い感情が胸いっぱいに溢れて、家のなかにじっとしていられない気持だった。

(まだきりのこいにわへおり、こおりのようにつめたいおがわのみずでせんめんした。)

まだ霧の濃い庭へおり、氷のように冷たい小川の水で洗面した。

(やくそくのじこくにしょうねんじへゆくことはもうきまっている、)

約束の時刻に正念寺へゆくことはもうきまっている、

(すべてをあるがままにうけよう。ちちのきにちにあったことだから、)

すべてをあるがままに受けよう。父の忌日にあったことだから、

(もしやするとちちうえのおみちびきかもしれない、あいてがたとえだれであろうと、)

もしやすると父上のお導きかも知れない、相手がたとえ誰であろうと、

(ろくねんもこころかわらず、こんどのきかいがいけなければさらにつぎのおりまで)

六年もこころ変らず、こんどの機会がいけなければさらに次の折まで

(まつという、そのしんじつさにはこたえなければならない、ただおそれるのは、)

待つという、その真実さにはこたえなければならない、ただおそれるのは、

(じぶんのものでないこうふくをだれかからぬすむようなふあんなかんじのすることだ。)

自分のものでない幸福を誰かからぬすむような不安な感じのすることだ。

(それはうちけしてもうちけしてもむねにつかえてくる。)

それはうち消してもうち消しても胸につかえてくる。

(「こんなふうにうらをのぞくきもちはもうやめなければならない」)

「こんな風に裏を覗く気持はもうやめなければならない」

(しほはそっとあたまかぶりをふりながらつぶやいた、)

志保はそっと頭かぶりを振りながら呟やいた、

(「これからはなにもかもあるがままに、すべてをすなおに)

「これからはなにもかもあるがままに、すべてをすなおに

(うけいれていきるのだ、それがしほのあたらしいせいかつだ」)

受け容れて生きるのだ、それが志保の新しい生活だ」

(しょくじがすむと、おかやにかみをあげてもらい、きものをきがえた。)

食事が済むと、お萱に髪をあげて貰い、着物を着替えた。

(おかやはいぶかしがりもせず、しほがそんなきもちになったことをよろこんで、)

お萱は訝しがりもせず、志保がそんな気持になったことをよろこんで、

(いそいそときつけをてつだった。)

いそいそと着附けを手伝った。

(「ごらんあそばせ、ちょっとおきがえあそばすだけでこのように)

「ごらんあそばせ、ちょっとお着替えあそばすだけでこのように

(おうつくしくおなりなさるではございませんか、すこしはかみけしょうをあそばすのも)

お美しくおなりなさるではございませんか、少しは髪化粧をあそばすのも

(ふじんのたしなみでございますよ」)

婦人のたしなみでございますよ」

(「かざりがいがあればねえ、おかや」)

「飾り甲斐があればねえ、お萱」

(「それがおじょうさまのたったひとつのわるいおくせです」おかやはしんがいそうにいった、)

「それがお嬢さまのたった一つの悪いお癖です」お萱は心外そうに云った、

(「あなたはごじぶんでおうつくしくないときめていらっしゃる、)

「あなたはご自分でお美しくないときめていらっしゃる、

(それはごけんそんというよりもかたいじともうすものでございます、)

それはご謙遜というよりも片意地と申すものでございます、

(こまつさまはおうつくしいおうまれつきです。だれだってそうおもわないものはございません。)

小松さまはお美しいお生れつきです、誰だってそう思わない者はございません。

(それにくらべますとおじょうさまのおうつくしさは、ほんとうにうつくしさをみるめの)

それに比べますとお嬢さまのお美しさは、本当に美しさを見る眼の

(あるものにしかわからないおうつくしさです。おしんじになれなかったらこれから)

ある者にしかわからないお美しさです。お信じになれなかったらこれから

(よくかがみをごらんあそばせ、おじょうさまはかがみさえおてになさらないのですもの」)

よく鏡をごらんあそばせ、お嬢さまは鏡さえお手になさらないのですもの」

(「それがほんとうであってくれたらとおもいます」しほはいつになく)

「それが本当であってくれたらと思います」志保はいつになく

(おだやかにそううなずいた、「そしてこれからはうつくしくなるようにつとめましょう、)

穏やかにそう頷いた、「そしてこれからは美しくなるように努めましょう、

(いまのかたいじということばは」そこまでいいかけてしほはくちをつぐんだ。)

いまの片意地という言葉は」そこまで云いかけて志保は口をつぐんだ。

(もんにだれかのおとずれるこえがきこえたのである。おかやもききつけたとみえ、)

門に誰かのおとずれる声が聞えたのである。お萱も聞きつけたとみえ、

(あしばやにたってげんかんへでていったが、「まあこれは」とおどろきのこえをあげ、)

足早に立って玄関へ出ていったが、「まあこれは」とおどろきのこえをあげ、

(すぐにひきかえしてきた。「こまつさまがおこしあそばしました」)

すぐにひき返して来た。「小松さまがお越しあそばしました」

(「ええこまつが」しほもめをみはった、「こまつがたかだから・・・」)

「ええ小松が」志保も眼をみはった、「小松が高田から・・・」

(いいかけてげんかんへでると、そこにこまつがあかごをおってたっていた。)

云いかけて玄関へ出ると、そこに小松が赤子を負って立っていた。

(そしておっとのそのべしんごと、ふたりのあいだにしんたろうであろう、)

そして良人の園部晋吾と、二人の間に晋太郎であろう、

(ごさいくらいにみえるおとこのこもいた。みんなたびじたくで、)

五歳くらいにみえる男の子もいた。みんな旅支度で、

(あたまからほこりにまみれているかんじだった、まあ、といったまま)

頭から埃にまみれている感じだった、まあ、と云ったまま

(すぐにはことばもでず、しまいはしばらくなみだをたたえためでおたがいを)

すぐには言葉も出ず、姉妹は暫らく涙を湛えた眼でお互いを

(みいるばかりだったが、「まことにごぶさたをつかまつりました」)

見いるばかりだったが、「まことに御無沙汰を仕りました」

(というしんごのあいさつでわれにかえり、ともかくもおかやとろうぼくに)

という晋吾の挨拶でわれに返り、ともかくもお萱と老僕に

(すすぎをとらせ、おやこのものをざしきへあげた。)

洗足をとらせ、親子の者を座敷へあげた。

(さくやはまつもとじょうかにとまり、あさげはすませてきたという。)

昨夜は松本城下に泊り、朝餉は済ませて来たという。

(ちゃをいれ、かしをだしなどするあいだも、こまつはほとんどやすみなしに)

茶を淹れ、菓子を出しなどするあいだも、小松は殆んどやすみなしに

(ひとりではなした。しんごはなにかくったくありげにもくしているし、)

独りで話した。晋吾はなにか屈託ありげに黙しているし、

(しほはしょうねんじへゆくじこくがきになっておちつけなかった。)

志保は正念寺へゆく時刻が気になっておちつけなかった。

(しかしそんなことにはえんりょもなく、まるでとりとめのないことを)

しかしそんなことには遠慮もなく、まるでとりとめのないことを

(つぎからつぎへとはなしかける。くちかずのおおいのはこまつのうまれつきであるが、)

次から次へと話しかける。口数の多いのは小松の生れつきであるが、

(そのときはどこやらおわれるもののようなせかせかしたちょうしで、)

そのときはどこやら追われる者のようなせかせかした調子で、

(たいどにもおちつきがなかった。)

態度にもおちつきがなかった。

(「こんどはなんでいらしったの」しほはいもうとのじょうぜつをおさえるように)

「こんどはなんでいらしったの」志保は妹の饒舌を抑えるように

(くちをさしはさんだ、「なにかこちらにごようでもあってなのですか」)

口をさしはさんだ、「なにかこちらに御用でもあってなのですか」

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