雨あがる 山本周五郎 ⑫(終)
腕は立つが人が良すぎるゆえ仕官の口がない伊兵衛と妻の話。
人を押しのけて出世することが出来ない伊兵衛と、妻おたよが長雨のため街道筋の宿屋に逗留している。
寺尾聰、宮崎美子、主演で映画化。
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問題文
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(やどのひとたちにおいわけのやどはずれまでおくられ、そこからみぎへまがってとうげへむかった。)
宿の人たちに追分の宿はずれまで送られ、そこから右へ曲って峠へ向った。
(いへえはなかなからくたんからぬけられないらしい、)
伊兵衛はなかなか落胆からぬけられないらしい、
(おたよはしいてなぐさめようとはおもわなかった。)
おたよはしいて慰めようとは思わなかった。
(これだけりっぱなうでをもちながらそのちからでしゅっせすることができない、)
これだけ立派な腕をもちながらその力で出世することができない、
(なんというみょうなまわりあわせでしょう、)
なんという妙なまわりあわせでしょう、
(なんというおかしなせけんなのでしょう。)
なんというおかしな世間なのでしょう。
(かのじょはそうおもういっぽう、ふとびしょうをさそわれるのであった。)
彼女はそう思う一方、ふと微笑をさそわれるのであった。
(でもわたくし、このままでもようございますわ、)
でもわたくし、このままでもようございますわ、
(たにんをおしのけずたにんのせきをうばわず、まずしいけれどしんじつなかたたちにまじって、)
他人を押除けず他人の席を奪わず、貧しいけれど真実な方たちに混って、
(きかいさえあればみんなによろこびやのぞみをおあたえなさる、)
機会さえあればみんなに喜びや望みをお与えなさる、
(このままのあなたもごりっぱですわ。)
このままの貴方も御立派ですわ。
(こういいたいきもちで、しかしくちにはださず、)
こう云いたい気持で、しかし口には出さず、
(ときどきそっとおっとのかおをぬすみみながら、)
ときどきそっと良人の顔をぬすみ見ながら、
(おたよはかるいあしどりであるいていった。)
おたよは軽い足どりで歩いていった。
(いへえもしだいにきをとりなおしてゆくようだった、)
伊兵衛もしだいに気をとり直してゆくようだった、
(しつぼうすることにはなれているし、)
失望することには馴れているし、
(かんじょうのむきをかえることも(しゅうかんで)うまくなっている。)
感情の向きを変えることも(習慣で)うまくなっている。
(ただつまのおもわくをかんがえて、そうきゅうにきげんをなおすわけにはいかない、)
ただ妻のおもわくを考えて、そう急に機嫌を直すわけにはいかない、
(といったふうであった。)
といったふうであった。
(だがそのえんりょさえついわすれるときがきた。)
だがその遠慮さえつい忘れるときが来た。
など
(とうげのうえへでて、まくでもきっておとしたように、)
峠の上へ出て、幕でも切って落したように、
(めのしたにとつぜんりんごくのさんやがうちひらけ、さわやかなかぜがふきあげてくると、)
眼の下にとつぜん隣国の山野がうちひらけ、爽やかな風が吹きあげて来ると、
(かれはぱっとかおをかがやかして、「やあやあ」とさけびだした。)
彼はぱっと顔を輝かして、「やあやあ」と叫びだした。
(「やあこれは、これはすばらしい、ごらんよあれを、なんてうつくしいながめだろう」)
「やあこれは、これはすばらしい、ごらんよあれを、なんて美しい眺めだろう」
(「まあほんとうに、ほんとうにきれいですこと」)
「まあ本当に、本当にきれいですこと」
(「どうです、からだじゅうがいさみたちますね、ええ」)
「どうです、躯じゅうが勇みたちますね、ええ」
(かれはまるいかおをにこにことくずし、)
彼はまるい顔をにこにこと崩し、
(しょうねんのようにいきいきとしたひかりでそのめをいっぱいにした。)
少年のように活き活きとした光りでその眼をいっぱいにした。
(はやくもそのちょうぼうのなかに、あたらしいせいかつとあたらしいきぼうをくうそうしはじめたとみえる。)
早くもその眺望のなかに、新しい生活と新しい希望を空想し始めたとみえる。
(「ねえげんきをだしてください、げんきになりましょう」)
「ねえ元気をだして下さい、元気になりましょう」
(つまにむかってねっしんにそういった。)
妻に向って熱心にそう云った。
(「あそこにみえるのはじゅうまんごせんごくのじょうかですよ、とちははんじょうでゆうめいだし、)
「あそこに見えるのは十万五千石の城下ですよ、土地は繁昌で有名だし、
(なにしろじゅうまんごせんごくですからね、ひとつこんどこそ、)
なにしろ十万五千石ですからね、ひとつこんどこそ、
(といってもいいとおもうんだが、げんきをだしてゆきましょう」)
と云ってもいいと思うんだが、元気をだしてゆきましょう」
(「わたくしげんきですわ」おたよはあかるくわらって、)
「わたくし元気ですわ」 おたよは明るく笑って、
(いたわるようにおっとをみあげながら、たくみにかれのくちまねをした。)
いたわるように良人を見上げながら、巧みに彼の口まねをした。
(「といってもいいとおもいますわ」)
「と云ってもいいと思いますわ」