菊千代抄 山本周五郎 ⑩

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プレイ回数1384難易度(4.0) 3639打 長文
武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

※「りょうじよく」がNGワードのため「りようじょく」とした

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問題文

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(もしかれがしっていなかったとすればいかしておいてもよい。)

もし彼が知っていなかったとすれば生かしておいてもよい。

(いきていてほしいというきもちはじゅうぶんにある、)

生きていて欲しいという気持は充分にある、

(そのばあいはこちらからじぶんがおんなだったということをうちあけて、)

そのばあいはこちらから自分が女だったということをうちあけて、

(おそらくはないてかれにとりすがったであろう。)

おそらくは泣いて彼にとりすがったであろう。

(しかしかれはしっていた、それはきくちよにとってはりようじょくにひとしい。)

しかし彼は知っていた、それは菊千代にとっては凌辱に等しい。

(かれはじぶんにとってただひとりのものだ。)

彼は自分にとって唯一人の者だ。

(だがかれをいかしておいてはならない。)

だが彼を生かしておいてはならない。

(ごくみじかいせつなのしびれるようなかんかくのなかで、)

ごく短い刹那の痺れるような感覚のなかで、

(きくちよはこうおもいきめ、「はんざぶろう、ちこうよれ」といった。)

菊千代はこう思いきめ、「半三郎、近う寄れ」と云った。

(さんどそれをくりかえした。)

三度それを繰り返した。

(はんざぶろうはさゆうのひざでわずかにまえへでた。)

半三郎は左右の膝で僅かに前へ出た。

(きくちよはみぎてでたんとうをぬき、すりよって、)

菊千代は右手で短刀を抜き、すり寄って、

(ひだりのてではんざぶろうのえりをつかむと、ちからをこめてかれのむねをさした。)

左の手で半三郎の衿を掴むと、力をこめて彼の胸を刺した。

(はんざぶろうはむていこうであった。)

半三郎は無抵抗であった。

(うっというこえがのどをふさぎ、ぜんしんのきんにくがけいれんして、)

うっという声が喉を塞ぎ、全身の筋肉が痙攣して、

(さしとおしたたんとうをはげしくくいしめるようにおもえた。)

刺しとおした短刀を烈しくくい緊めるように思えた。

(「ああ、わか、わかさま」)

「ああ、若、若さま」

(はんざぶろうがさけんだかとおもった。しかしそうではなかった。)

半三郎が叫んだかと思った。しかしそうではなかった。

(うしろからだれかはしってきてきくちよをだきとめたのである。)

うしろから誰か走って来て菊千代を抱きとめたのである。

(それはまつおであった。)

それは松尾であった。

など

(「ごたんりょな、なにをあそばします」)

「御短慮な、なにをあそばします」

(「はなせ、はなせ」)

「放せ、放せ」

(きくちよはまつおをはねのけ、たんとうをぬいてもうひとさしさしとおした。)

菊千代は松尾をはねのけ、短刀を抜いてもうひと刺し刺しとおした。

(それからあとのことはよくきおくがない。)

それからあとのことはよく記憶がない。

(ひぐちじろうべえがかけつけてき、まつおがきくちよをはがいじめにした。)

樋口次郎兵衛が駆けつけて来、松尾が菊千代をはがいじめにした。

(はんざぶろうはまえのめりに、ひだりてをたたみにつき)

半三郎は前のめりに、左手を畳につき

(みぎてでむねをおさえて、がくりとくびをたれていた、)

右手で胸を押えて、がくりと首を垂れていた、

(ぬけてとれそうなえりあしとそのしせいがくずれるしゅんかんとをみたようにおもう。)

抜けて取れそうな衿足とその姿勢が崩れる瞬間とを見たように思う。

(きがつくとつねいのまにすわっていた。)

気がつくと常居の間に坐っていた。

(まつおがたらいへゆをとって、じぶんのりょうてをきよめてくれていたが、)

松尾がたらいへ湯を取って、自分の両手を清めて呉れていたが、

(そうしながらまつおがひどくふるえているので、)

そうしながら松尾がひどく震えているので、

(きくちよはかえっておちつきをとりもどした。)

菊千代は却っておちつきをとり戻した。

(「たんとうをとってきてくれ、それから・・・しそんじたかどうかも」)

「短刀を取って来て呉れ、それから・・・仕損じたかどうかも」

(まつおがたってゆくと、きくちよはなにげなく、)

松尾が立ってゆくと、菊千代はなにげなく、

(いまきよめられたてをみようとして、とつぜんぞっとし、)

いま清められた手を見ようとして、とつぜんぞっとし、

(みぶるいをしながらめをそむけた。)

身ぶるいをしながら眼をそむけた。

(そのてがひじょうにいやらしく、けがれたもののようにおもえたのである。)

その手が非常にいやらしく、けがれたもののように思えたのである。

(まつおはもどってきて、ささやくようにいった。)

松尾は戻って来て、囁くように云った。

(「おみごとに、あそばしました」)

「おみごとに、あそばしました」

(きくちよはわきへむいてうなずいた。そのよくじつのごごにちちがきた。)

菊千代は脇へ向いて頷いた。その翌日の午後に父が来た。

(きくちよははじめてちちのおこったかおをみた。)

菊千代は初めて父の怒った顔を見た。

(おさないじぶんから、おこったらさぞおそろしいだろうとよくそうぞうしたものであるが、)

幼いじぶんから、怒ったらさぞ恐ろしいだろうとよく想像したものであるが、

(げんにあいたいしてみるとけっしておそろしくはなかった。)

現に相対してみると決して恐ろしくはなかった。

(こいいかりまゆとおおきなめとくちひげのあるきっとしたくちもとと)

濃いいかり眉と大きな眼と口髭のある屹っとした口許と

(そのままであっとうてきないげんにみちているのが)

そのままで圧倒的な威厳に満ちているのが

(いかりのためにいっそうきわだって、)

怒りのためにいっそう際立って、

(ふつうならとうていめをあげることはできなかったであろう。)

ふつうならとうてい眼をあげることはできなかったであろう。

(けれどもきくちよはきわめてへいせいにちちのめをみあげた。)

けれども菊千代はきわめて平静に父の眼を見あげた。

(ちちのいかりをしのぐものがじぶんにはある。)

父の怒りを凌ぐものが自分にはある。

(そういうきもちであった。)

そういう気持であった。

(「なぜはんざぶろうをせいばいした」)

「なぜ半三郎をせいばいした」

(「かれはわたくしをはずかしめました」)

「彼はわたくしを辱しめました」

(「どのようにだ、どうはずかしめたのだ」)

「どのようにだ、どう辱しめたのだ」

(「もうしあげられません」)

「申上げられません」

(「たとえかしんなりとも、にんげんひとりてにかけて)

「たとえ家臣なりとも、人間一人手にかけて

(りゆうがいえぬではすまぬぞ、どのようにはずかしめたかきこう」)

理由が云えぬでは済まぬぞ、どのように辱しめたか聞こう」

(「もうしあげることはできません」)

「申上げることはできません」

(きくちよはれいたんにこたえた。)

菊千代は冷淡に答えた。

(「もしそれですまないのでしたら、きくちよのいのちをおめしください」)

「もしそれで済まないのでしたら、菊千代の命をお召し下さい」

(さだながはしろいはをみせた。さけぼうとしたらしい。)

貞良は白い歯をみせた。叫ぼうとしたらしい。

(だがきゅうにひょうじょうをかえ、むしろこうきてきなめで、)

だが急に表情を変え、むしろ好奇的な眼で、

(まるではじめてみるかのようにじっと、)

まるで初めて見るかのようにじっと、

(かなりながくこちらのかおにみいった。)

かなりながくこちらの顔に見いった。

(「でははんざぶろうをてにかけて、すこしもくいることはないのだな」)

「では半三郎を手にかけて、少しも悔いることはないのだな」

(「はんざぶろうがそれをしっていたとおもいます」)

「半三郎がそれを知っていたと思います」

(「じぶんでしなければならなかったのか」)

「自分でしなければならなかったのか」

(「わたくしがいたさなければなりませんでした、)

「わたくしが致さなければなりませんでした、

(わたくしとかれと、ふたりだけのことでございますから」)

わたくしと彼と、二人だけの事でございますから」

(さだながはさだながとして、なにごとかなっとくしたようである。)

貞良は貞良として、なにごとか納得したようである。

(こんどのことはしかるべくしまつをする、)

こんどの事は然るべく始末をする、

(こんごはかたくつつしむようにといって、そのままざをたとうとした。)

今後は固く慎むようにといって、そのまま座を立とうとした。

(きくちよはことばをあらためて、おとうとがうまれたのだから、)

菊千代は言葉を改めて、弟が生れたのだから、

(じぶんはせいしのいちをぬけたものとおもっていいかときいた。)

自分は世子の位地をぬけたものと思っていいかときいた。

(「さんがつにはしょうぐんけのにっこうごさんぱいがある、)

「三月には将軍家の日光御参拝がある、

(それがすめばせいしきにとどけでるはずだ」)

それが済めば正式に届け出る筈だ」

(「ではそれがすめば、きくちよのからだは)

「ではそれが済めば、菊千代のからだは

(すきにいたしてよいのでございますか」)

好きに致してよいのでございますか」

(「すきにするとは」)

「好きにするとは」

(「きくちよは、しょうがい、おとこのままでいきたいとおもいます、)

「菊千代は、生涯、男のままで生きたいと思います、

(いつぞやおやくそくのぶんぽうのことも、)

いつぞやお約束の分封のことも、

(いただけるものとおもっていてようございましょうか」)

頂けるものと思っていてようございましょうか」

(さだながはまゆをひそめた。どこかいたみでもするように、)

貞良は眉をひそめた。どこか痛みでもするように、

(それから、ぶんぽうのことはいぎはないけれども、)

それから、分封のことは異議はないけれども、

(おとこでいるかどうかはさっきゅうにきめるひつようはあるまい、)

男でいるかどうかは早急にきめる必要はあるまい、

(なおよくかんがえてみるようにといって、ちちはかえっていった。)

なおよく考えてみるようにと云って、父は帰っていった。

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