竹柏記 山本周五郎 ②
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問題文
(かめいをよごすやつだ。りょうへいはひじょうにおこった。)
家名を汚すやつだ。良平はひじょうに怒った。
(そうとうにせっかんもしたようであるが、いもうとはびくともしなかった。)
相当に折檻もしたようであるが、妹はびくともしなかった。
(しまいにはひらきなおって、わたくしはただのからだではありません。)
しまいにはひらきなおって、わたくしはただの躯ではありません。
(おなかのわこさまにまんいちのことがあってもよければ、)
おなかの和子さまに万一のことがあってもよければ、
(どうぞおすきなようになすってください、)
どうぞお好きなようになすって下さい、
(とのさまのおそばにあがれないくらいなら、しぬほうがいいのですから。)
殿さまのお側にあがれないくらいなら、死ぬほうがいいのですから。
(こういったそうである。ちちもこれにはこまった。)
こう云ったそうである。父もこれには困った。
(けっきょくはぎぜつをし、あいかわというしんぞくのようじょにして、)
結局は義絶をし、相川という親族の養女にして、
(おそばへあげたのであった。)
お側へあげたのであった。
(せいしきにそくしつとなれば、とうじのきていでえどへゆかなけらばならない。)
正式に側室となれば、当時の規定で江戸へゆかなければならない。
(そこで、めいもくは「ろうじょ」ということで、きたはたのやしきをもらったのである。)
そこで、名目は「老女」ということで、北畠の屋敷を貰ったのである。
(りょうへいがおこっているもうひとつのりゆうは、)
良平が怒っているもう一つの理由は、
(そのときかのじょがみごもっていたといったのはぜんぜんうそで、)
そのとき彼女がみごもっていたと云ったのはぜんぜん嘘で、
(まだとのさまとのかんけいはまったくきよかったというてんであった。)
まだ殿さまとの関係はまったく清かったという点であった。
(だって、そうでもいわなければ、)
だって、そうでも云わなければ、
(あにはせっかんをやめるきっかけがなかったんですよ。)
兄は折檻をやめるきっかけがなかったんですよ。
(ずっとのちに、おばはそすいって、わらったそうである。)
ずっとのちに、叔母はそう云って、笑ったそうである。
(いかにもおばらしい、ひとをくったいいかたであるが、)
いかにも叔母らしい、ひとをくった云いかたであるが、
(ちちはそれからきょうまで、かのじょとはぜったいにあわずにとおしてきた。)
父はそれから今日まで、彼女とは絶対に会わずにとおして来た。
(きたはたはだいちになっている。じょうかまちのきたからひがしをかこむきゅうりょうのいちぶで、)
北畠は台地になっている。城下町の北から東をかこむ丘陵の一部で、
(おもてもんから、うきょくしたさかみちを、やくいっちょうものぼらなければならない。)
表門から、迂曲した坂道を、約一町も登らなければならない。
(まわりはまつやすぎのふかいもりがつづき、ごせんつぼほどあるていないも、)
まわりは松や杉の深い森がつづき、五千坪ほどある邸内も、
(まえにわのわずかにたいらなしばふをのこしてすっかりもりにつつまれていた。)
まえ庭の僅かに平らな芝生を残してすっかり森に包まれていた。
(はんこうのつかうごてんとはべつに、さんむねのたてものがあり、)
藩侯の使う御殿とはべつに、三棟の建物があり、
(そのなかの、いんきょじょふうにつくったひとむねが、おばのじゅうきょだった。)
そのなかの、隠居所ふうに造った一棟が、叔母の住居だった。
(おばはひとりですんでいた。もっともとなりのむねにじょちゅうたちがいるし、)
叔母は独りで住んでいた。もっとも隣りの棟に女中たちがいるし、
(ごてんのむねには、ふるくからこのさんそうをあずかっているなかむらただくらろうじんと、)
御殿の棟には、古くからこの山荘を預かっている中村忠蔵老人と、
(ふたりのはんしがいた。うらのほうにはうえきばんのあしがるや)
二人の番士がいた。裏のほうには植木番の足軽や
(おにわしょくにんなどのこやもあるが、おばのじゅうきょへは、ひつようのないかぎり、)
お庭職人などの小屋もあるが、叔母の住居へは、必要のない限り、
(だれもちかづくことがゆるされなかった。)
誰も近づくことが許されなかった。
(きどまであんないされたこうのすけが、そこからうちにわへはいってゆくと、)
木戸まで案内された孝之助が、そこから内庭へ入ってゆくと、
(しょうじをあけたへやの、えんがわちかくぜんをすえて、)
障子をあけた部屋の、縁側ちかく膳を据えて、
(おばがひとりでさけをのんでいた。)
叔母が独りで酒を飲んでいた。
(かみをあらったものか、まだつやつやとくろいゆたかなけを)
髪を洗ったものか、まだつやつやと黒い豊かな毛を
(ひとたばねにしてせへたれ、かたほうのひざをたてて、)
ひと束ねにして背へ垂れ、片方の膝を立てて、
(さかずきをもったてをゆったりとそのひざがしらにのせている。)
盃を持った手をゆったりとその膝がしらに載せている。
(こがらなひきしまったからだに、あいぞめのひとえをき、そのうえにはでな、)
小柄なひき緊った躯に、藍染の単衣を着、そのうえに派手な、
(たづなぞめのはおりをかさねていたが、きぬばりのあんどんのひかりに)
たづな染の羽折を重ねていたが、絹張りの行燈の光りに
(てらしだされたそのすがたは、したまちふうのいきにくだけたかんじで、)
照らしだされたその姿は、下町ふうの粋にくだけた感じで、
(こうのすけはちょっととまどいをした。まだくがつちゅうじゅんだというのに、)
孝之助はちょっと戸惑いをした。まだ九月中旬だというのに、
(とちがたかいのと、まわりにきがおおいためだろう、くうきはしんと)
土地が高いのと、まわりに樹が多いためだろう、空気はしんと
(はだざむいほどひえて、かぜもないのに、しきりとおちばがまっていた。)
肌寒いほど冷えて、風もないのに、しきりと落葉が舞っていた。
(「しばらくでございました、おつかいをくださいましたそうで」)
「しばらくでございました、お使いを下さいましたそうで」
(「おどろいたでしょう」おばはもっているさかずきをみせて、)
「おどろいたでしょう」叔母は持っている盃を見せて、
(わらいながらすわりなおした、)
笑いながら坐りなおした、
(「このごろひとりでこんなことをするくせがついてしまってね。)
「このごろ独りでこんなことをする癖がついてしまってね。
(としのせいだろうけれど、まあこっちへおあがりなさいな」)
年のせいだろうけれど、まあこっちへお上りなさいな」
(こうのすけはすなおにえんがわへあがった。)
孝之助はすなおに縁側へあがった。