めおと蝶 山本周五郎 ⑯(終)
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問題文
(「ひとにはそれぞれのせいしつがあるわ、)
「人にはそれぞれの性質があるわ、
(うえむらにはしょうしんもののでだというひけめがあって、)
上村には小身者の出だというひけめがあって、
(うまれつきのせいしつがいっそうかたよっていて、つまをあいしていながら、)
生れつきの性質がいっそう片寄っていて、妻を愛していながら、
(ほかのかたのようにそれをあらわすことをしらない、)
ほかの方のようにそれをあらわすことを知らない、
(しっていてもできなかった、)
知っていてもできなかった、
(うえむらにはさいのうもありしゅっせもしたけれど、こころからのともだちもない)
上村には才能もあり出世もしたけれど、心からの友達もない
(だれにもすかれていない、いつもみんなからけいえんされていたわ、)
誰にも好かれていない、いつもみんなから敬遠されていたわ、
(なぐさめもなく、こどくで、ほかのかたのようにつまをあいすることもできない、)
慰めもなく、孤独で、ほかの方のように妻を愛することもできない、
(ほんとうにさびしいきのどくなひとだったのよ」)
本当にさびしい気の毒な人だったのよ」
(「よくわかるわ、おねえさま、うえむらさまのことはよくわかってよ」)
「よくわかるわ、お姉さま、上村さまのことはよくわかってよ」
(こういってふみよはあねのてをおさえた。)
こう云って文代は姉の手を押えた。
(「でもあのかたがおきのどくだからといって、)
「でもあの方がお気の毒だからといって、
(そのためにおねえさまのいっしょうをふこうにすることはないわ、)
そのためにお姉さまの一生を不幸にすることはないわ、
(ともやさまはおねえさまをあいしていらしった、)
知也さまはお姉さまを愛していらしった、
(これまでひとりみでいらしったのもそのためとはおおもいにならない、)
これまで独り身でいらしったのもそのためとはお思いにならない、
(おねえさまがうえむらとえんがきれて、こんどのさわぎがおちついて、)
お姉さまが上村と縁が切れて、こんどの騒ぎがおちついて、
(いちねんでもにねんでもたったら、おねえさまをよめにむかえたいって、)
一年でも二年でも経ったら、お姉さまを嫁に迎えたいって、
(このあいだからおにいさまやははさまとごそうだんなすっていますわ、)
このあいだからお兄さまや母さまと御相談なすっていますわ、
(ともやさまはいまでもおねえさまをあいしていらっしゃる、)
知也さまは今でもお姉さまを愛していらっしゃる、
(そしておねえさまもともやさまをおすきなはずよ、)
そしてお姉さまも知也さまをお好きな筈よ、
(ほんとうにおしあわせになるときがきているんじゃありませんか、)
本当におしあわせになる時が来ているんじゃありませんか、
(おねえさま、・・・おねがいよ、ふみよのおねがいよ、)
お姉さま、・・・お願いよ、文代のお願いよ、
(ごじぶんをどうぞふこうになさらないで」)
御自分をどうぞ不幸になさらないで」
(「ありがとう、うれしいわふみよさん」)
「ありがとう、うれしいわ文代さん」
(しのはかたてのゆびでめをおさえた。)
信乃は片手の指で眼を抑えた。
(しかしこえはしずかで、しめやかにおちついていた。)
しかし声は静かで、しめやかにおちついていた。
(「でもわたくしやっぱりうえむらといっしょにゆくわ、)
「でもわたくしやっぱり上村といっしょにゆくわ、
(あのりべつじょうをどんなきもちでかいたかわかるの、)
あの離別状をどんな気持で書いたかわかるの、
(うえむらはわたくしをあいしていてくれた、いまでもあいしていてくれるわ、)
上村はわたくしを愛していて呉れた、今でも愛していて呉れるわ、
(そうしてこのよのなかで、うえむらのきもちをわかってあげ、)
そうしてこの世の中で、上村の気持をわかってあげ、
(うえむらをあいすることのできるのはわたくしひとりよ、)
上村を愛することのできるのはわたくしひとりよ、
(こんどこそ、わたくしたちはこんどこそ、)
こんどこそ、わたくしたちはこんどこそ、
(ほんとうのふうふらしいふうふになることができるのよ」)
本当の夫婦らしい夫婦になることができるのよ」
(よくさんがつなのかのごぜんじゅうじ。)
翌三月七日の午前十時。
(しゅうごくがたのやくにんにかこまれて、)
囚獄方の役人に囲まれて、
(うえむらりょうへいがせきやぐちのなわてのまつばやしまでやってきた。)
上村良平が関屋口の畷の松林までやって来た。
(ついほうしゃのおおいばあいは、かくじんべつべつにはなすのがつうれいである。)
追放者の多いばあいは、各人べつべつに放すのが通例である。
(あみがさとぜにさんびゃくもん、りょうとうをわたすと、あらためてついほうのむねをいいわたし、)
編笠と銭三百文、両刀を渡すと、改めて追放の旨を云いわたし、
(りょうざかいをこすまでみおくってたしかめるのである。)
領境を越すまで見送ってたしかめるのである。
(しかしやくにんたちはいいわたしがおわると、)
しかし役人たちは云いわたしが終ると、
(りょうへいのあるきだすのをみて、すぐじょうかのほうへひきかえしていった。)
良平の歩きだすのを見て、すぐ城下のほうへひき返していった。
(りょうへいはぼうぜんと、ひきずるようなあしどりで、まつばやしのなかをあるいていた。)
良平は茫然と、ひきずるような足どりで、松林の中を歩いていた。
(やせて、めがおちくぼんで、くちびるのいろもしろく、)
痩せて、眼がおち窪んで、唇の色も白く、
(とがったかたをまえかがみにして、)
尖った肩を前かがみにして、
(いかにもうちくだかれたようなすがたである。)
いかにもうち砕かれたような姿である。
(あかるくはれたそらから、こもれびがかれのかおにまだらのこうもんをなげ、)
明るく晴れた空から、木洩れ日が彼の顔にまだらの光紋を投げ、
(またきえてはなげする。こうしてまつばやしをでようとしたとき、)
また消えては投げする。こうして松林を出ようとしたとき、
(みぎがわのまつのかげから、たびじたくのしのがしずかにでてきた。)
右側の松の蔭から、旅支度の信乃が静かに出て来た。
(りょうへいはあしをとめて、めをしかめながら、ふしんそうにこちらをみた。)
良平は足を止めて、眼をしかめながら、不審そうにこちらを見た。
(「おまちもうしておりました」しのはこういっておっとをみあげた。)
「お待ち申しておりました」信乃はこう云って良人を見あげた。
(りょうへいにはまだわからないらしい、うつむいてそっとあたまをふり、)
良平にはまだわからないらしい、うつむいてそっと頭を振り、
(それからあらためてしのをみて、そうしてとつぜん、はげしくかおをゆがめた。)
それから改めて信乃を見て、そうしてとつぜん、激しく顔を歪めた。
(「しの、どうするのだ」「ごいっしょにおともをいたします、)
「信乃、どうするのだ」 「ごいっしょにお供を致します、
(あなたのおしたくももってまいりました、どうぞおきがえあそばして」)
あなたのお支度も持ってまいりました、どうぞお着替えあそばして」
(「りべつじょうはとどかなかったのか」)
「離別状は届かなかったのか」
(「わたくしがいたらなかったのです、わたくしが、みがってな、)
「わたくしが至らなかったのです、わたくしが、身勝手な、
(いけないおんなでございました、でもこれからはなおしてまいります、)
いけない女でございました、でもこれからはなおしてまいります、
(きっとよいつまになれるとおもいます、おねがいでございます、)
きっと良い妻になれると思います、お願いでございます、
(あなた、どうぞしのをおつれくださいまし」)
あなた、どうぞ信乃をお伴れ下さいまし」
(こういってたもとでかおをおおい、しのはかたをふるわせておえつした。)
こう云って袂で顔を掩い、信乃は肩をふるわせて嗚咽した。
(りょうへいはだまっていた。)
良平は黙っていた。
(しかししののいうことはわかったのだろう、)
しかし信乃の云うことはわかったのだろう、
(しばらくして、そっとひとりごとのように、)
暫らくして、そっと独り言のように、
(「つれていっては、おまえをふこうにする、)
「伴れていっては、おまえを不幸にする、
(こばむのがほんとうだ、こばまなくてはいけない、)
拒むのが本当だ、拒まなくてはいけない、
(けれどもおれにはこばめない、おれはおまえにいてもらいたい、)
けれどもおれには拒めない、おれはおまえにいて貰いたい、
(このよのなかで、おれにはおまえがただひとりのみかたなんだ、)
この世の中で、おれにはおまえが唯ひとりの味方なんだ、
(しの、・・・いっしょにきてくれるか」)
信乃、・・・いっしょに来て呉れるか」
(「あなた、うれしゅうございます」)
「あなた、うれしゅうございます」
(しのはさけぶようにいって、おっとのむねへすがりついた。)
信乃は叫ぶように云って、良人の胸へすがりついた。
(りょうへいはもっていたあみがさをなげ、りょうてでつまのかたをだいた。)
良平は持っていた編笠を投げ、両手で妻の肩を抱いた。
(「おまえがいてくれればおれはいきることができる、もういちど、・・・」)
「おまえがいてくれればおれは生きることができる、もう一度、・・・」
(そしてかれははげしくつまをだきしめた。)
そして彼は激しく妻を抱き緊めた。
(それからまもなく、たびじたくにあらためたりょうへいとしのが、)
それからまもなく、旅支度に改めた良平と信乃が、
(はたけにはさまれたみちを、つれだって、ひがしにむかってあるいていた。)
畑に挾まれた道を、伴れだって、東に向って歩いていた。
(はるのひはきらきらとあついほどかがやき、)
春の日はきらきらと暑いほど輝き、
(はたけいちめんにさいたなのはなのきが、)
畑いちめんに咲いた菜の花の黄が、
(まるでもえるようにうちわたしてみえた。)
まるで燃えるようにうちわたして見えた。
(「こうのすけはだいじょうぶだな」)
「甲之助は大丈夫だな」
(「はい、すぎとははがみてくれます、)
「はい、すぎと母が見て呉れます、
(わたくしたちがおちつきましたら、むかえにまいりましょう」)
わたくしたちがおちつきましたら、迎えにまいりましょう」
(「あかるい、もったいないほど、あかるいけしきだ」)
「明るい、もったいないほど、明るい景色だ」
(「はじめてでございますわね」)
「初めてでございますわね」
(しのはこういって、こびのあるわらいかたでおっとをみあげた。)
信乃はこう云って、媚のある笑いかたで良人を見あげた。
(「あなたとわたくしと、ふたりで、こうしていっしょに、)
「あなたとわたくしと、二人で、こうしていっしょに、
(たびへでますのは、・・・うれしゅうございますわ」)
旅へ出ますのは、・・・うれしゅうございますわ」
(なばたけからそれてきたちょうがふたつ、りょうへいとしののあとをおうように、)
菜畑からそれて来た蝶が二つ、良平と信乃のあとを追うように、
(たのしげにひらひらとまっていった。)
楽しげにひらひらと舞っていった。