CS検定2級 入力ドリル【10】
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
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1 | なり | 4111 | C | 4.4 | 92.3% | 259.3 | 1163 | 97 | 15 | 2024/10/24 |
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問題文
(およそ1800ねんまえ、よしのがり(よしのがり)には、ぎしわじんでんにしるされた)
およそ1800年前、吉野ケ里(よしのがり)には、魏志倭人伝に記された
(やまたいこくをほうふつとさせるきょだいなとしがそんざいした。1986ねんからのはっくつちょうさに)
邪馬台国を髣髴とさせる巨大な都市が存在した。1986年からの発掘調査に
(よって、さがけんないにあるめんせきやく58へくたーるにもおよぶよしのがりきゅうりょうにはっけん)
よって、佐賀県内にある面積約58ヘクタールにもおよぶ吉野ケ里丘陵に発見
(されたこのいせきは、ものみやぐらやにじゅうのかんごうなどぼうぎょてきなせいかくがつよく、にほんのじょうかくの)
されたこの遺跡は、物見櫓や二重の環濠など防御的な性格が強く、日本の城郭の
(はじまりともいえるものであり、やよいじだいにおけるにほんさいだいきゅうのかんごうしゅうらくである。)
始まりとも言えるものであり、弥生時代における日本最大級の環濠集落である。
(よしのがりいせきのきたがわには、つちをもりかためたきたふんきゅうぼとよばれるとくべつなはかが)
吉野ケ里遺跡の北側には、土を盛り固めた北墳丘墓と呼ばれる特別な墓が
(あるが、だいかめをふたつあわせたかんにししゃをまいそうするというほくぶきゅうしゅうとくゆうのほうほうが)
あるが、大カメを二つ合わせた棺に死者を埋葬するという北部九州特有の方法が
(もちいられており、このかめかんからきょうみぶかいものがしゅつどした。みつかった14の)
用いられており、このカメ棺から興味深いものが出土した。見つかった14の
(かめかんからは、ゆうへいどうけんとがらすせいのくだたまがあることなどから、まいそうされたのは)
カメ棺からは、有柄銅剣とガラス製の菅玉があることなどから、埋葬されたのは
(かなりのけんりょくしゃ、つまりよしのがりをおさめていたおうではないかとかんがえられている。)
かなりの権力者、つまり吉野ケ里を治めていた王ではないかと考えられている。
(やよいじだいこうきになると、きたふんきゅうぼはおはかとしてはつかわれなくなり、せんぞがねむる)
弥生時代後期になると、北墳丘墓はお墓としては使われなくなり、先祖が眠る
(しんせいなばしょとしてたいせつにされていたようだ。そのきたふんきゅうぼのさらにきたには、)
神聖な場所として大切にされていたようだ。その北墳丘墓のさらに北には、
(2れつにならぶかめかんぼれつとよばれるはかがあり、まいそうひんがないことからいっぱんじんの)
2列に並ぶカメ棺墓列と呼ばれる墓があり、埋葬品がないことから一般人の
(はかだとされている。げんざい、このいせきはこくえいよしのがりれきしこうえんとして)
墓だとされている。現在、この遺跡は国営吉野ケ里歴史公園として
(いちぶをくにがかんりしている。)
一部を国が管理している。