ちゃん 山本周五郎 ⑨

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プレイ回数806難易度(4.5) 4334打 長文
重吉は腕の良い火鉢職人。時世の流れで仕事が減ってきている。
今夜も酒を飲んで帰宅する重吉を妻と子が迎える。
すでに独立した仲間の職人が相談に乗ろうとするが・・・

後架/こうか:禅寺で、僧堂の後ろに架け渡して設けた洗面所。便所。
左前/ひだりまえ:運が悪くなること。経済的に苦しくなること。

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問題文

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(「そうか」としげきちはきがついていった、「おめえてならいだったな」)

「そうか」と重吉は気がついて云った、「おめえ手習いだったな」

(それででばなをくじかれ、しげきちはまるでなんをのがれでもしたような、)

それででばなをくじかれ、重吉はまるで難をのがれでもしたような、

(ほっとしたかおになり、かしこまっていたひざをくずして、あぐらをかいた。)

ほっとした顔になり、かしこまっていた膝を崩して、あぐらをかいた。

(よしきちはでてゆき、さけのしたくができた。おなおとおつぎはないしょくをひろげ、)

良吉は出てゆき、酒の支度ができた。お直とおつぎは内職をひろげ、

(しげきちはおよしとかめきちをからかいながら、てじゃくでのみだした。)

重吉はお芳と亀吉をからかいながら、手酌で飲みだした。

(こんどはさけがうまくはいり、きもちよくよいがはっしてきた。)

こんどは酒がうまくはいり、気持よく酔いが発してきた。

(「とおかえびすのうりものは」しげきちははなごえでひくくうたいだした、)

「十日戎の売り物は」重吉は鼻声で低くうたいだした、

(「はぜぶくろに、とりばち」「わあ、またおんなじうただ」とおよしがはやしたてた、)

「はぜ袋に、とり鉢」「わあ、またおんなじ唄だ」とお芳がはやしたてた、

(「おんなじうたでちょうしっぱじゅえだ」「よしぼう」とおつぎがたしなめた。)

「おんなじ唄で調子っぱじゅえだ」「芳坊」とおつぎがたしなめた。

(「いいよ、よしぼうのいうとおりだ」しげきちはきげんよくわらった、)

「いいよ、芳坊の云うとおりだ」重吉はきげんよく笑った、

(「ちゃんのしってるのはむかしからこれだけだ、おまけにふしちがいときてる、)

「ちゃんの知ってるのは昔からこれだけだ、おまけに節ちがいときてる、

(こんなにとりえのねえにんげんもねえもんだ、なあ」)

こんなに取柄のねえ人間もねえもんだ、なあ」

(よしきちがかえってきたときにはすっかりよって、かんじょうはゆうべみんな)

良吉が帰って来たときにはすっかり酔って、勘定はゆうべみんな

(のんじまったぞ、などといばっていた。それからまもなくよこになり、)

飲んじまったぞ、などといばっていた。それからまもなく横になり、

(なにかくだをまいているうちにねむりこんだ。じぶんではまだ)

なにかくだを巻いているうちに眠りこんだ。自分ではまだ

(しゃべっているつもりで、ひょっとめをさますと、あんどんがくらくしてあり、)

しゃべっているつもりで、ひょっと眼をさますと、行燈が暗くしてあり、

(みんなのねいきがきこえていた。かれはきたままで、それでもちゃんと)

みんなの寝息が聞えていた。彼は着たままで、それでもちゃんと

(やぐのなかだったし、かれによりそってかめきちがねむっていた。)

夜具の中だったし、彼により添って亀吉が眠っていた。

(となりのいえでだれかのねごとをいうこえがし、おもてどおりのほうでいぬがほえた。)

隣りの家で誰かの寝言を云う声がし、表通りのほうで犬がほえた。

(しげきちはじっとしたまま、かなりながいこと、みんなのねいきをうかがっていて、)

重吉はじっとしたまま、かなり長いこと、みんなの寝息をうかがっていて、

など

(それからしずかにやぐをぬけだした。かめきちはびくっとしたが、やぐをなおし、)

それから静かに夜具をぬけだした。亀吉はびくっとしたが、夜具を直し、

(そっとおさえてやるとうごかなくなった。しげきちはあたりをながめまわし、)

そっと押えてやると動かなくなった。重吉はあたりを眺めまわし、

(くちのなかで「てぬぐいひとつでいいな」とつぶやいた。そのときとおくから)

口の中で「手拭ひとつでいいな」とつぶやいた。そのとき遠くから

(かねのねがきこえてきた。しろかねちょうのときのかねだろう、かぞえると)

鐘の音が聞えて来た。白かね町の時の鐘だろう、数えると

(やっつ(ごぜんにじ)であった。ききおわってからたってかってへいった。)

八つ(午前二時)であった。聞き終ってから立って勝手へいった。

(かってはにじょうのおくになっている。おとをしのばせてしょうじをあけ、)

勝手は二帖の奥になっている。音を忍ばせて障子をあけ、

(てぬぐいかけからかわいているてぬぐいをとり、それでほおかむりをした。)

手拭掛けから乾いている手拭を取り、それで頬冠をした。

(そうして、かってぐちのあまどを、そろそろと、きわめてようじんぶかくあけかかったとき、)

そうして、勝手口の雨戸を、そろそろと、極めて用心ぶかくあけかかったとき、

(うしろでおなおのこえがし、かれはびっくりしてふりかえった。)

うしろでお直の声がし、彼はびっくりして振返った。

(「どうするの」おなおはねまきのままで、くらいからかおはわからないが、)

「どうするの」お直は寝衣のままで、暗いから顔はわからないが、

(こえはひどくふるえていた、「どうするつもりなの、おまえさん、)

声はひどくふるえていた、「どうするつもりなの、おまえさん、

(どうしようっていうの」「おれはその、ちょっと、こうかまで」)

どうしようっていうの」「おれはその、ちょっと、後架まで」

(おなおはすばやくきてかれをおしのけ、さんすんばかりあいたとをしずかにしめた。)

お直はすばやく来て彼を押しのけ、三寸ばかりあいた戸を静かに閉めた。

(「こうかへゆくのにほおかむりをするの」とおなおがいった、)

「後架へゆくのに頬冠りをするの」とお直が云った、

(「さあ、あっちへいってわけをききましょう、どうするつもりなのか)

「さあ、あっちへいってわけを聞きましょう、どうするつもりなのか

(はなしてちょうだい」)

話してちょうだい」

(ふたりはにじょうでむきあってすわった。あんどんはろくじょうにあり、くらくしてあるから、)

二人は二帖で向きあって坐った。行燈は六帖にあり、暗くしてあるから、

(おたがいのかおもぼんやりとしかみえない。それがしげきちにはせめてものすくいで、)

お互いの顔もぼんやりとしか見えない。それが重吉にはせめてもの救いで、

(かたくすわったまま、こえをひそめてわけをはなした。くちがへただから)

固く坐ったまま、声をひそめてわけを話した。口がへただから

(おもうとおりにはいえないが、とにかくはなせるだけのことははなし、)

思うとおりには云えないが、とにかく話せるだけのことは話し、

(どうかこのままゆかせてくれ、とあたまをさげた。おなおはわなわなと)

どうかこのままゆかせてくれ、と頭をさげた。お直はわなわなと

(ふるえていて、すぐにはことばがでなかった。)

ふるえていて、すぐには言葉が出なかった。

(「そう、」とやがておなおがうなずいた、「そうなの」とおなおは)

「そう、」とやがてお直がうなずいた、「そうなの」とお直は

(はのあいだからいった、「そうして、おちょうさんといっしょになるつもりね」)

歯のあいだから云った、「そうして、お蝶さんといっしょになるつもりね」

(しげきちはいきをとめておなおをみた。「おめえ」といって、)

重吉は息を止めてお直を見た。「おめえ」と云って、

(かれはいきをふかくすい、しずかにながく、はきだした、)

彼は息を深く吸い、静かに長く、吐きだした、

(「そんなことじゃねえ、おちょうなんてなんのかんけいもありゃあしねえ、)

「そんなことじゃねえ、お蝶なんてなんの関係もありゃあしねえ、

(おれがいちゃあみんなのためにならねえっていうんだ」)

おれがいちゃあみんなのためにならねえっていうんだ」

(「なにがみんなのためにならないの」)

「なにがみんなのためにならないの」

(「いまいったじゃあねえか」しげきちはじれたようにちからをいれていった、)

「いま云ったじゃあねえか」重吉はじれたように力をいれて云った、

(「おらあ、だめなにんげんなんだ、しょくにんのいじだなんて、)

「おらあ、だめな人間なんだ、職人の意地だなんて、

(くちでははばなことをいってる、むろんいじもなかあねえが、)

口では幅なことを云ってる、むろん意地もなかあねえが、

(おれだってにんげんのじょうくらいもってる、てめえのにょうぼこに)

おれだって人間の情くらいもってる、てめえの女房子に

(くろうさせてえわけじゃねえ、できるんならとうせいむきのしごとをして、)

苦労させてえわけじゃねえ、できるんなら当世向きの仕事をして、

(おめえやこどもたちにらくをさせてやりてえんだ、そうおもって)

おめえや子供たちに楽をさせてやりてえんだ、そう思って

(やってみたけれども、いくたびやってみてもできねえ、)

やってみたけれども、幾たびやってみてもできねえ、

(いざやってみるとどうしてもいけねえ、どうじぶんをだましても、)

いざやってみるとどうしてもいけねえ、どう自分をだましても、

(どうにもそういうしごとができねえんだ」)

どうにもそういう仕事ができねえんだ」

(「できないものをしようがないじゃないの」「それですむか」)

「できないものをしようがないじゃないの」「それで済むか」

(としげきちがさえぎった、「このあいだきんろくちょうにもいわれた、)

と重吉が遮った、「このあいだ金六町にも云われた、

(じせいをかんがえろ、いまのままじゃあ、かみさんやこどもたちがかわいそうだって、)

時勢を考えろ、いまのままじゃあ、かみさんや子供たちが可哀そうだって、

(いわれるまでもねえ、てめえでよくしってた、けれどもそういわれてみて、)

云われるまでもねえ、てめえでよく知ってた、けれどもそう云われてみて、

(はじめて、ほんとうにおめえたちがかわいそうだということにきがついた、)

初めて、本当におめえたちが可哀そうだということに気がついた、

(ひものちょうやきんろくちょうはあのとおりりっぱにやっているし、ふたりはおれのそうだんに)

檜物町や金六町はあのとおり立派にやっているし、二人はおれの相談に

(のろうといってくれる、だがおらあだめだ、おれにはどうしたって、)

乗ろうと云ってくれる、だがおらあだめだ、おれにはどうしたって、

(あのふたりのようなまねはできやしねえんだ」)

あの二人のようなまねはできやしねえんだ」

(「できないものをしようがないじゃないか」と、こんどはおなおがさえぎった、)

「できないものをしようがないじゃないか」と、こんどはお直が遮った、

(「にんげんはみんながみんななりあがるわけにはいきゃあしない、)

「人間はみんながみんな成りあがるわけにはいきゃあしない、

(それぞれうまれついたしょうぶんがあるし、うんふうんということだってある。)

それぞれ生れついた性分があるし、運不運ということだってある。

(ひものちょうやきんろくちょうはそうなれるしょうぶんとさいかくがあったからなりあがったんでしょ、)

檜物町や金六町はそうなれる性分と才覚があったから成りあがったんでしょ、

(おまえさんにはそれがないんだからしようがないじゃないか」)

おまえさんにはそれがないんだからしようがないじゃないか」

(「だからよ、だからおれは」「なにがだからよ」とおなおはいった、)

「だからよ、だからおれは」「なにがだからよ」とお直は云った、

(「おまえさんのしごとがひだりまえになって、そのしごとのほかにてがでないとすれば、)

「お前さんの仕事が左前になって、その仕事のほかに手が出ないとすれば、

(あたしやこどもたちがなんとかするのはとうぜんじゃないの、らくさせてやるからいる、)

あたしや子供たちがなんとかするのは当然じゃないの、楽させてやるからいる、

(くろうさせるからでてゆく、そんなじぶんかってなことがありますか」)

苦労させるから出てゆく、そんな自分勝手なことがありますか」

(「おれはじぶんのかってでこんなことをいってるんじゃねえんだ」)

「おれは自分の勝手でこんなことを云ってるんじゃねえんだ」

(「じゃあ、だれのことをいってるの、あたしたちがおまえさんの)

「じゃあ、誰のことを云ってるの、あたしたちがおまえさんの

(でてゆくのをよろこぶとでもいうのかい、おまえさん、そうおもうのかい」)

出てゆくのを喜ぶとでもいうのかい、おまえさん、そう思うのかい」

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