死体蝋燭 小酒井不木 ①
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問題文
(よいからいきおいをましたかぜは、かいじゅうのうえにほゆるようなおとをたてて、)
宵から勢いを増した風は、海獣の飢えに吠ゆるような音をたてて、
(くり、ほんどうのむねをかすめ、だいちをくずさんばかりのあめは、ときどきすなつぶてを)
庫裡、本堂の棟をかすめ、大地を崩さんばかりの雨は、時々砂つぶてを
(なげつけるようにとをたたいた。えんいたというえんいた、はしらというはしらが、)
投げつけるように戸を叩いた。縁板という縁板、柱という柱が、
(すすりなくようなこえをはっして、やたいはちゅうにうかんでいるかとおもわれるほどゆれた。)
啜り泣くような声を発して、家体は宙に浮かんでいるかと思われるほど揺れた。
(なつからあきへかけてのあらしのとくちょうとして、こないのくうきはいきづまるように)
夏から秋へかけてのあらしの特徴として、戸内の空気は息詰まるように
(むしあつかった。そのむしあつさはいっそうひとのしんけいをいらだたせて、)
蒸し暑かった。その蒸し暑さは一層人の神経をいらだたせて、
(あらしのものすごさをかくだいした。だから、ことしじゅうごになるこぼうずのほうしんが、)
あらしの物凄さを拡大した。だから、ことし十五になる小坊主の法信が、
(てんじょうからおちてくるすすにきもをひやして、へやのすみにちぢこまっているのも)
天井から落ちてくる煤に胆を冷やして、部屋の隅にちぢこまっているのも
(むりはなかった。「ほうしん!」となりのへやからよんだおしょうのこえに、)
無理はなかった。「法信!」隣りの部屋から呼んだ和尚の声に、
(ぴりっとからだをふるわせて、あたかも、おそろしいゆめからさめたかのように、)
ぴりッと身体をふるわせて、あたかも、恐ろしい夢から覚めたかのように、
(かれはそのめをすえた。そうしてしばらくのあいだ、へんとうすることはできなかった。)
彼はその眼をすえた。そうしてしばらくの間、返答することはできなかった。
(「ほうしん!」いっそうおおきなおしょうのこえがよんだ。「は、はい」)
「法信!」一層大きな和尚の声が呼んだ。「は、はい」
(「おまえ、ごくろうだが、いつものとおり、ほんどうのほうをみまわってきてくれないか」)
「お前、御苦労だが、いつものとおり、本堂の方を見まわって来てくれないか」
(いわれてかれはぎくりとしてみをすくめた。つねならばきらくなふたりずまいが、)
言われて彼はぎくりとして身をすくめた。常ならば気楽な二人住まいが、
(こうしたときにはうらめしかった。このおそろしいぼうふううのときに、)
こうした時にはうらめしかった。この恐ろしい暴風雨の時に、
(どうしてひとりきり、とじまりをみにでかけられよう。)
どうして一人きり、戸締まりを見に出かけられよう。
(「あの、おしょうさま」と、かれはやっとのことで、こえをしぼりだした。)
「あの、和尚様」と、彼はやっとのことで、声をしぼり出した。
(「なんだ」「こんやだけは・・・」)
「なんだ」「今夜だけは・・・」
(「ははは」と、おしょうのたかわらいするこえがきこえた。「おそろしいというのか。)
「ははは」と、和尚のたか笑いする声が聞こえた。「恐ろしいというのか。
(よし、それでは、わしもいっしょにいくから、ついてこい」)
よし、それでは、わしもいっしょに行くから、ついて来い」
(ほうしんはひきずられるようにしておしょうのへやにはいった。)
法信は引きずられるようにして和尚の部屋にはいった。
(いつのまによういしたのか、しょけんしていたおしょうは、てしょくのろうそくにひをてんじて、)
いつの間に用意したのか、書見していた和尚は、手燭の蝋燭に火を点じて、
(さきにたってほんどうのほうへあるいていった。ごじゅうをこしたであろうねんぱいの、)
先に立って本堂の方へ歩いて行った。五十を越したであろう年輩の、
(ろうそくのあわいあかりによってまえかほうからてらしだされたやせがおは、どくろを)
蝋燭の淡い灯によって前下方から照し出されたやせ顔は、髑髏を
(おもわせるようにきみがわるかった。ほんどうにはいると、あかりはなびくようにゆれて、)
思わせるように気味が悪かった。本堂にはいると、灯はなびくように揺れて、
(ふたりのかげは、てんじょうにまでおどりあがった。くうきはどんよりとにごって、)
二人の影は、天井にまで躍り上がった。空気はどんよりと濁って、
(あたかも、はてしのないほらあなのなかへでもふみこんだようにかんぜられ、)
あたかも、はてしのないほら穴の中へでも踏みこんだように感ぜられ、
(ほうしんはにどとふたたび、ぶじではかえれないのではないかというきぐのねんをさえ)
法信は二度と再び、無事では帰れないのではないかという危惧の念をさえ
(おこすのであった。しょうめんにあんざましますにんげんだいのくろいあみだにょらいのぞうは、)
起こすのであった。正面に安座まします人間大の黒い阿弥陀如来の像は、
(おしょうのさしだしたろうそくのあかりに、いっそういかめしくてらしだされた。)
和尚の差し出した蝋燭の灯に、一層いかめしく照し出された。
(おしょうがねんぶつをとなえて、しばらくそのまえにたちどまると、こんじきのぶつぐは、)
和尚が念仏を唱えて、しばらくその前に立ちどまると、金色の仏具は、
(おもいおもいにゆれるほかげをはんしゃした。こうろ、とうみょうざら、しょくだい、かびん、)
思い思いに揺れる灯影を反射した。香炉、燈明皿、燭台、花瓶、
(もっこくこんじきのれんげをはじめ、しゅみだん、きょうづくえ、さいせんばこなどのかなぐが、)
木刻金色の蓮華をはじめ、須弥壇、経机、賽銭箱などの金具が、
(なのしれぬこんちゅうのようにかがやいて、そのかずかずのぶつぐのあいだに、なにかしら)
名の知れぬ昆虫のように輝いて、その数々の仏具の間に、何かしら
(おそろしいかいぶつ、たとえばきょだいなこうもりが、べったりはねをひろげてかくれている)
恐ろしい怪物、たとえば巨大な蝙蝠が、べったり羽をひろげて隠れている
(かのようにおもわれ、ほうしんのもものきんにくは、ひとりでにふるえはじめた。)
かのように思われ、法信の股の筋肉は、ひとりでにふるえはじめた。
(おしょうはふたたびあるきだしたが、さすがのおしょうにも、そのぶきみさはつたわったらしく、)
和尚は再び歩き出したが、さすがの和尚にも、その不気味さは伝わったらしく、
(まえよりもはやめにすすんで、ひととおりとじまりをみまわると、)
前よりも速めに進んで、ひととおり戸締まりを見まわると、
(あおじろいかおをしてほっとしたかのようにためいきをついた。)
蒼白い顔をしてほッとしたかのように溜息をついた。
(しかし、おしょうはなにおもったかふたたびおそろしいほんどうにひきかえした。)
しかし、和尚は何思ったか再び恐ろしい本堂に引きかえした。
(そうして、あみだにょらいのまえにきたかとおもうと、ましたにあたるごんぎょうのざにつき、)
そうして、阿弥陀如来の前に来たかと思うと、真下にあたる勤行の座につき、
(てしょくをかたわらにおいていった。「ほうしん、れいはいだ」)
手燭をかたわらに置いて言った。「法信、礼拝だ」
(ほうしんはからくりにんぎょうのようにそのばにひれふした。しばらくおしょうとともに)
法信はからくり人形のようにその場にひれ伏した。しばらく和尚とともに
(ねんぶつをとなえて、やがてかおをあげると、にょらいのじひにんにくのこうがんは、)
念仏をとなえて、やがて顔をあげると、如来の慈悲忍辱の光顔は、
(いっそうにゅうわのいろをまし、ぼうふううにもどうじたまわぬすうこうさが、かえってほうしんを)
一層柔和の色を増し、暴風雨にも動じたまわぬ崇高さが、かえって法信を
(ゆめのようなきょうふのせかいにひきいれた。)
夢のような恐怖の世界に引き入れた。
(「おそろしいかぜだなあ」おしょうのことばにほうしんはどきりとした。)
「恐ろしい風だなあ」和尚の言葉に法信はどきりとした。
(「ときにほうしん!」しばらくののち、おしょうはとつぜんあらたまったくちょうで、)
「時に法信!」しばらくの後、和尚は突然あらたまった口調で、
(ほうしんのほうにむきなおっていった。「こんやわしは、あみださまのまえで、)
法信の方に向き直って言った。「今夜わしは、阿弥陀様の前で、
(おまえにざんげをしなければならぬことがある。わしはいま、よにもおそろしい)
お前に懺悔をしなければならぬことがある。わしは今、世にも恐ろしい
(わしのつみをおまえにはくじょうしようとおもう。さいわいこのぼうふううでは、)
わしの罪をお前に白状しようと思う。幸いこの暴風雨では、
(だれにきかれるうれいもない。みみをさらえてよくきいておくれよ」)
誰にきかれる憂いもない。耳をさらえてよく聞いておくれよ」
(おしょうはそのめをぎろりとかがやかしていちだんこえをたかめた。)
和尚はその眼をぎろりと輝かして一段声を高めた。
(「じつはなあ、おまえはわしをとくのたかいぼうずだとおもっているかもしれんが、)
「実はなあ、お前はわしを徳の高い坊主だと思っているかもしれんが、
(わしはあみださまのまえでは、じっとしてすわっておれぬくらいの、)
わしは阿弥陀様の前では、じっとして坐っておれぬくらいの、
(はかいむざんの、いぬちくしょうにもおとるあくにんだよ」)
破戒無慚の、犬畜生にも劣る悪人だよ」
(「えっ?」あまりにいがいなことばにほうしんはおもわずさけんで、かせきしたかのように)
「えッ?」あまりに意外な言葉に法信は思わず叫んで、化石したかのように
(ぜんしんのきんにくをこわばらせ、おしょうのかおをあなのあくほどながめた。)
全身の筋肉をこわばらせ、和尚の顔を穴のあくほどながめた。
(「わしはなあ、ひとをころしただいあくにんだ。さあ、おどろくのもむりはないが、おまえが)
「わしはなあ、人を殺した大悪人だ。さあ、驚くのも無理はないが、お前が
(このてらにくるまえにやとってあったりょうじゅんというこぼうずは、あれはわしがころしたのだ」)
この寺に来る前に雇ってあった良順という小坊主は、あれはわしが殺したのだ」
(「うそです、うそです、おしょうさま、それはうそです。どうぞ、そんなおそろしいことは)
「嘘です、嘘です、和尚さま、それは嘘です。どうぞ、そんな恐ろしいことは
(もういわないでください」「いや、ほんとうだよ。あみださまのまえでうそはいわぬ。)
もう言わないでください」「いや、本当だよ。阿弥陀様の前で嘘は言わぬ。
(りょうじゅんは、おもてむきはびょうきでしんだことになっているが、そのじつ、わしが)
良順は、表て向きは病気で死んだことになっているが、その実、わしが
(てをかけてしなせたのだ。それにはわけがあるのだよ。ふかいわけがあるのだよ。)
手をかけて死なせたのだ。それにはわけがあるのだよ。深いわけがあるのだよ。
(そのわけというのはまことにはずかしいことだけれども、)
そのわけというのはまことに恥ずかしいことだけれども、
(これだけはどうしてもおまえにきいてもらわねばならん。)
これだけはどうしてもお前に聞いてもらわねばならん。
(わしはぼうずとなってよんじゅうねん、そのあいだ、ずいぶんにんげんのやけるにおいをかいだ。)
わしは坊主となって四十年、その間、ずいぶん人間の焼けるにおいを嗅いだ。
(はじめはあまりここちのよいものではなかったが、だんだんとしを)
はじめはあまり心地のよいものではなかったが、だんだん年を
(とるにしたがって、あのにおいがたまらなくすきになったのだ。)
とるにしたがって、あのにおいがたまらなく好きになったのだ。
(そうしてしまいには、にんげんのしぼうのやけるにおいをいちにちでもかがぬひがあると、)
そうしてしまいには、人間の脂肪の焼ける匂いを一日でも嗅がぬ日があると、
(なんだかこうむねのなかがかきむしりたくなるような、いらいらしたきもちになって、)
なんだかこう胸の中が掻きむしりたくなるような、いらいらした気持になって、
(じっとしてすわっていることすらできなくなったのだ。)
じっとして坐っていることすらできなくなったのだ。
(あさましいことだとおもっても、どうにもいたしかたがない。)
あさましいことだと思っても、どうにも致し方がない。
(さかなをやいても、ぎゅうにくをやいても、そのにおいはけっしてわしを)
魚を焼いても、牛肉を焼いても、その匂いは決してわしを
(まんぞくさせてくれぬ。あの、したまがりのはなのどくどくしいいろをおもわせるような)
満足させてくれぬ。あの、したまがりの花の毒々しい色を思わせるような
(じんにくのやけるにおいは、とても、ほかのにおいではまねができぬ。)
人肉の焼けるにおいは、とても、ほかのにおいでは真似ができぬ。
(おまえは、わしがこのあいだかしてやったうげつものがたりのあおずきんのはなしを)
お前は、わしがこのあいだ貸してやった雨月物語の青頭巾の話を
(おぼえているだろう。どうじにこいをしたぼうずが、どうじにしなれてかなしさのあまり、)
覚えているだろう。童児に恋をした坊主が、童児に死なれて悲しさのあまり、
(そのにくをくいつくし、それからそれにあじをおぼえて、のちにはさとのひとびとを)
その肉を食い尽くし、それからそれに味を覚えて、後には里の人々を
(ころしにでたというあのはなしを。わしは、ちょうど、あのとおりに)
殺しに出たというあの話を。わしは、ちょうど、あのとおりに
(にんがいのおにとなったのだ。そうして、とうとう、そのために、)
人界の鬼となったのだ。そうして、とうとう、そのために、
(りょうじゅんをころすようなことになったのだ。)
良順を殺すようなことになったのだ。
(りょうじゅんがしばらくびょうきをしたのをさいわいに、わしはひそかにどくをあたえて、)
良順がしばらく病気をしたのを幸いに、わしはひそかに毒をあたえて、
(しゅびよくかれをころしてしまった。まさか、わしがころしたとはだれもおもわないから、)
首尾よく彼を殺してしまった。まさか、わしが殺したとは誰も思わないから、
(ちっともうたがわれずにそうしきをだした。しかし、かれがやかれるまえに、)
ちっとも疑われずに葬式を出した。しかし、彼が焼かれる前に、
(かれのにくは、ことごとく、わしのためにきりとられたのだ。)
彼の肉は、ことごとく、わしのために切りとられたのだ。
(そうしてそのことは、もとよりだれもしるはずがなかったのだ。)
そうしてそのことは、もとより誰も知るはずがなかったのだ。