江戸川乱歩 芋虫 -1-

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江戸川乱歩

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(ときこはおもやにいとまをつげて、もううすぐらくなった、ざっそうのしげるにまかせ、)

時子は母屋にいとまを告げて、もう薄暗くなった、雑草のしげるにまかせ、

(あれはてたひろいにわを、かのじょたちふうふのすまいであるはなれざしきのほうへあるきながら、)

荒れはてた広い庭を、彼女たち夫婦の住まいである離れ座敷の方へ歩きながら、

(いましがたも、おもやのしゅじんのよびしょうしょうからいわれた、いつものほめことばを、)

いましがたも、母屋の主人の予備少将から言われた、いつもの褒め言葉を、

(まことにへんてこなきもちで、かのじょのいちばんきらいななすのしぎやきを、)

まことに変てこな気持ちで、彼女のいちばん嫌いな茄子の鴫焼を、

(ぐにゃりとかんだあとのあじで、おもいだしていた。)

ぐにゃりと噛んだあとの味で、おもいだしていた。

(「すながちゅうい(よびしょうしょうは、いまでも、あのにんげんだかなんだかわからないような)

「須永中尉(予備少将は、今でも、あの人間だかなんだかわからないような

(はいへいを、こっけいにも、むかしのいかめしいかたがきでよぶのである)のちゅうれつは、)

廃兵を、滑稽にも、昔のいかめしい肩書で呼ぶのである)の忠烈は、

(いうまでもなくわがりくぐんのほこりじゃが、それはもう、よにしれわたって)

いうまでもなくわが陸軍の誇りじゃが、それはもう、世に知れ渡って

(おることだ。だが、おまえさんのていせつ、あのはいじんをさんねんのねんげつ、すこしだって)

おることだ。だが、お前さんの貞節、あの廃人を三年の年月、少しだって

(いやなかおをみせるではなく、じぶんのよくをすっかりすててしまって、しんせつに)

厭な顔を見せるではなく、自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に

(せわをしている。にょうぼうとしてあたりまえのことだといってしまえば、)

世話をしている。女房として当たり前のことだと言ってしまえば、

(それまでじゃが、できないことだ。わしは、まったくかんしんしていますよ。)

それまでじゃが、できないことだ。わしは、まったく感心していますよ。

(いまのよのびだんだとおもっていますよ。だが、まだまださきのながいはなしじゃ。)

今の世の美談だと思っていますよ。だが、まだまだ先の長い話じゃ。

(どうかきをかえないでめんどうをみてあげてくださいよ」)

どうか気を変えないで面倒を見て上げてくださいよ」

(わしおろうしょうしょうは、かおをあわせるたびごとに、それをちょっとでもいわないでは)

鷲尾老少将は、顔を合わせるたびごとに、それをちょっとでも言わないでは

(きがすまぬというように、きまりきって、かれのむかしのぶかであった、そしていまでは)

気がすまぬというように、きまりきって、彼の昔の部下であった、そして今では

(かれのやっかいものであるところの、すながはいちゅういとそのつまをほめちぎるのであった。)

彼の厄介者であるところの、須永廃中尉とその妻を褒めちぎるのであった。

(ときこは、それをきくのが、いまいったなすのしぎやきのあじだものだから、)

時子は、それを聞くのが、今言った茄子の鴫焼の味だものだから、

(なるべくしゅじんのろうしょうしょうにあわぬよう、るすをうかがっては、それでもしゅうじつ)

なるべく主人の老少将に会わぬよう、留守をうかがっては、それでも終日

(ものもいわぬふぐしゃとさしむかいでばかりいることもできぬので、おくさんや)

物も言わぬ不具者と差向かいでばかりいることもできぬので、奥さんや

など

(むすめさんのところへ、はなしこみにゆきゆきするのであった。)

娘さんの所へ、話し込みに行き行きするのであった。

(もっとも、このほめことばも、さいしょのあいだは、かのじょのぎせいてきせいしん、かのじょのまれなる)

もっとも、この褒め言葉も、最初のあいだは、彼女の犠牲的精神、彼女の稀なる

(ていせつにふさわしく、いうにいわれぬほこらしいかいかんをもって、ときこのしんぞうを)

貞節にふさわしく、いうにいわれぬ誇らしい快感をもって、時子の心臓を

(くすぐったのであるが、このごろでは、それをいぜんのようにすなおには)

くすぐったのであるが、このごろでは、それを以前のように素直には

(うけいれかねた。というよりは、このほめことばがおそろしくさえなっていた。)

受け容れかねた。というよりは、この褒め言葉が恐ろしくさえなっていた。

(それをいわれるたびに、かのじょは「おまえはていせつのびめいにかくれてよにもおそろしい)

それをいわれるたびに、彼女は「お前は貞節の美名に隠れて世にも恐ろしい

(ざいあくをおかしているのだ」と、まっこうからひとさしゆびをつきつけて、せめられてでも)

罪悪を犯しているのだ」と、真向から人差指を突きつけて、責められてでも

(いるように、ぞっとおそろしくなるのであった。)

いるように、ゾッと恐ろしくなるのであった。

(かんがえてみると、われながらこうもにんげんのきもちがかわるものかとおもうほど、)

考えてみると、われながらこうも人間の気持が変わるものかと思うほど、

(ひどいかわりかたであった。はじめのほどは、せけんしらずで、うちきしゃで、)

ひどい変わりかたであった。はじめのほどは、世間知らずで、内気者で、

(もじどおりていせつなつまでしかなかったかのじょが、いまでは、がいけんはともあれ、)

文字どおり貞節な妻でしかなかった彼女が、今では、外見はともあれ、

(こころのうちには、みのけもよだつじょうよくのおにがすをくって、あわれなかたわもの)

心のうちには、身の毛もよだつ情欲の鬼が巣を食って、哀れな片輪者

((かたわものということばではふじゅうぶんなほどのむざんなかたわものであった)のていしゅをーー)

(片輪者という言葉では不充分なほどの無残な片輪者であった)の亭主をーー

(かつてはちゅうゆうなるこっかのかんじょうであったじんぶつを、なにかかのじょのじょうよくをみたすだけの)

かつては忠勇なる国家の干城であった人物を、何か彼女の情欲を満たすだけの

(ために、かってあるけだものででもあるように、あるいはいっしゅのどうぐとしてででも)

ために、飼ってあるけだものででもあるように、或いは一種の道具としてででも

(あるように、おもいなすほどにかわりはてているのだ。)

あるように、思いなすほどに変わり果てているのだ。

(このみだらがましいおには、ぜんたいどこからきたものであろう。)

このみだらがましい鬼は、全体どこから来たものであろう。

(あのきいろいにくのかたまりの、ふかしぎなみりょくがさせるわざか(じじつかのじょのおっとの)

あの黄色い肉のかたまりの、不可思議な魅力がさせるわざか(事実彼女の夫の

(すながちゅういは、ひとかたまりのきいろいにくかいでしかなかった。そして、それは)

須永中尉は、ひとかたまりの黄色い肉塊でしかなかった。そして、それは

(きけいなこまのように、かのじょのじょうよくをそそるものでしかなかった)、)

畸形なコマのように、彼女の情欲をそそるものでしかなかった)、

(それとも、さんじゅっさいのかのじょのにくたいにみちあふれた、えたいのしれぬちからのさせる)

それとも、三十歳の彼女の肉体に満ちあふれた、えたいの知れぬ力のさせる

(わざであったか。おそらくそのりょうほうであったのかもしれないのだが。)

わざであったか。おそらくその両方であったのかもしれないのだが。

(わしおろうじんからなにかいわれるたびに、ときこはこのごろめっきりあぶらぎってきたかのじょの)

鷲尾老人から何かいわれるたびに、時子はこのごろめっきり脂ぎってきた彼女の

(にくたいなり、たにんにもおそらくかんじられるであろうかのじょのたいしゅうなりを、)

肉体なり、他人にもおそらく感じられるであろう彼女の体臭なりを、

(はなはだうしろめたくおもわないではいられなかった。)

はなはだうしろめたく思わないではいられなかった。

(「わたしはまあ、どうしてこうも、まるでばかかなんぞのようにでぶでぶ)

「私はまあ、どうしてこうも、まるでばかかなんぞのようにデブデブ

(こえふとるのだろう」)

肥え太るのだろう」

(そのくせ、かおいろなんかいやにあおざめているのだけれど。ろうしょうしょうは、れいの)

その癖、顔色なんかいやに青ざめているのだけれど。老少将は、例の

(ほめことばをならべながら、いつも、ややいぶかしげにかのじょのでぶでぶと)

褒め言葉を並べながら、いつも、ややいぶかしげに彼女のデブデブと

(あぶらぎったからだつきをながめるのをつねとしていたが、もしかすると、ときこが)

脂ぎったからだつきを眺めるのを常としていたが、もしかすると、時子が

(ろうしょうしょうをいとうさいだいのげんいんは、このてんにあったのかもしれないのである。)

老少将をいとう最大の原因は、この点にあったのかもしれないのである。

(かたいなかのことで、おもやとはなれざしきのあいだは、ほとんどはんちょうもへだたっていた。)

片田舎のことで、母屋と離れ座敷のあいだは、ほとんど半丁も隔たっていた。

(そのあいだは、みちもないひどいくさはらで、ともすればがさがさとおとをたてて)

そのあいだは、道もないひどい草原で、ともすればガサガサと音を立てて

(あおだいしょうがはいだしてきたり、すこしあしをふみちがえると、くさにおおわれた)

青大将が這い出してきたり、少し足を踏み違えると、草に覆われた

(ふるいどがあぶなかったりした。ひろいやしきのまわりには、かたちばかりの)

古井戸が危なかったりした。広い屋敷のまわりには、形ばかりの

(ふぞろいないけがきがめぐらしてあって、そのそとはたやはたけがうちつづき、)

不揃いな生垣がめぐらしてあって、そのそとは田や畑が打ちつづき、

(とおくのはちまんじんじゃのもりをはいけいにして、かのじょらのすまいであるにかいだてのはなれやが、)

遠くの八幡神社の森を背景にして、彼女らの住まいである二階建ての離れ家が、

(そこに、くろく、ぽつんとたっていた。)

そこに、黒く、ぽつんと立っていた。

(そらにはひとつふたつほしがまたたきはじめていた。もうへやのなかは、)

空には一つ二つ星がまたたきはじめていた。もう部屋の中は、

(まっくらになっていることであろう。かのじょがつけてやらねば、かのじょのおっとには)

まっ暗になっていることであろう。彼女がつけてやらねば、彼女の夫には

(らんぷをつけるちからもないのだから、かのにくかいは、やみのなかで、ざいすにもたれて、)

ランプをつける力もないのだから、かの肉塊は、闇の中で、坐椅子にもたれて、

(あるいはいすからずっこけて、たたみのうえにころがりながら、めばかりぱちぱち)

或いは椅子からずっこけて、畳の上にころがりながら、眼ばかりパチパチ

(またたいていることであろう。かわいそうに、それをかんがえると、いまわしさ、)

瞬いていることであろう。可哀そうに、それを考えると、いまわしさ、

(みじめさ、かなしさが、しかし、どこかにいくぶんせんしゅあるなかんじょうをまじえて、)

みじめさ、悲しさが、しかし、どこかに幾分センシュアルな感情をまじえて、

(ぞっとかのじょのせすじをおそうのであった。)

ゾッと彼女の背筋を襲うのであった。

(ちかづくにしたがって、にかいのまどのしょうじが、なにかをしょうちょうしているふうで、)

近づくにしたがって、二階の窓の障子が、何かを象徴しているふうで、

(ぽっかりとまっくろなくちをあいているのがみえ、そこから、とんとんとんと、)

ポッカリとまっ黒な口をあいているのが見え、そこから、トントントンと、

(れいのたたみをたたくにぶいおとがきこえてきた。「ああ、またやっている」とおもうと、)

例の畳を叩く鈍い音が聞こえてきた。「ああ、またやっている」と思うと、

(かのじょはまぶたがあつくなるほど、かわいそうなきがした。それはふじゆうなかのじょのおっとが、)

彼女は瞼が熱くなるほど、可哀そうな気がした。それは不自由な彼女の夫が、

(あおむきにねころがって、ふつうのにんげんがてをたたいてひとをよぶしぐさのかわりに、)

仰向きに寝ころがって、普通の人間が手を叩いて人を呼ぶ仕草の代りに、

(あたまでとんとんとんとたたみをたたいて、かれのゆいいつのはんりょであるときこを、)

頭でトントントンと畳を叩いて、彼の唯一の伴侶である時子を、

(せっかちによびたてていたのである。)

せっかちに呼び立てていたのである。

(「いまいきますよ。おなかがすいたのでしょう」)

「いま行きますよ。おなかがすいたのでしょう」

(ときこは、あいてにきこえぬことはわかっていても、いつものくせで、)

時子は、相手に聞こえぬことはわかっていても、いつもの癖で、

(そんなことをいいながら、あわててだいどころぐちにかけこみ、)

そんなことを言いながら、あわてて台所口に駈け込み、

(すぐそこのはしごだんをあがっていった。)

すぐそこの梯子段を上がっていった。

(ろくじょうひとまのにかいに、かたちばかりのとこのまがついていて、そこのすみにだいらんぷと)

六畳ひと間の二階に、形ばかりの床の間がついていて、そこの隅に台ランプと

(まっちがおいてある。かのじょはちょうどははおやがちのみごにいうちょうしで、たえず)

マッチが置いてある。彼女はちょうど母親が乳呑み児に言う調子で、絶えず

(「まちどおだったでしょうね。すまなかったわね」だとか「いまよ、いまよ、)

「待ち遠だったでしょうね。すまなかったわね」だとか「今よ、今よ、

(そんなにいっても、まっくらでどうすることもできやしないわ。)

そんなにいっても、まっ暗でどうすることもできやしないわ。

(いまらんぷをつけますからね。もうすこしよ。もうすこしよ」だとか、)

今ランプをつけますからね。もう少しよ。もう少しよ」だとか、

(いろんなひとりごとをいいながら(というのは、かのじょのおっとはすこしもみみが)

いろんな独り言を言いながら(というのは、彼女の夫は少しも耳が

(きこえなかったので)、らんぷをともして、それをへやのいっぽうのつくえの)

聞こえなかったので)、ランプをともして、それを部屋の一方の机の

(そばへはこぶのであった。)

そばへ運ぶのであった。

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