半七捕物帳 三河万歳10(終)
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問題文
(「じゅうじゅうおそれいりましてございます。むじひはまんまんしょうちしておりましたが、)
「重々恐れ入りましてございます。無慈悲は万々承知して居りましたが、
(なにぶんにもせにはらはかえられないとぞんじまして・・・・・・。おきたのほうへは)
なにぶんにも背に腹は換えられないと存じまして……。お北の方へは
(よいようにはなしをしまして、ともかくもそのおにっこをうけとってまいりますと、)
よいように話をしまして、ともかくもその鬼っ児を受け取ってまいりますと、
(ちょうどとちゅうでさいぞうにあいました。まつわかはわたくしのやどへたずねてくるところで)
ちょうど途中で才蔵に逢いました。松若はわたくしの宿へ訪ねて来る処で
(ございましたから、これはさいわいだとぞんじまして、あらましのわけをはなして)
ございましたから、これは幸いだと存じまして、あらましのわけを話して
(そのこをおつがのいえへとどけてくれるようにまつわかにたのみました。)
其の児をお津賀の家へとどけてくれるように松若に頼みました。
(まつわかもわたくしといっしょにいったことがあるので、おつがのいえは)
松若もわたくしと一緒に行ったことがあるので、お津賀の家は
(よくしっているはずでございます。それはにじゅうろくにちのよいのいつつ(ごごはちじ))
よく知っている筈でございます。それは二十六日の宵の五ツ(午後八時)
(すこしまえでございましたが、まつわかはそれぎりかえってまいりません。)
少し前でございましたが、松若はそれぎり帰ってまいりません。
(どうしたのかとあんじておりますと、そのあくるひのひるすぎにおつががまた)
どうしたのかと案じて居りますと、そのあくる日の午(ひる)過ぎにお津賀が又
(おしかけてまいりまして、あのいんがものはどうしたとさいそくいたします。)
押し掛けてまいりまして、あの因果者はどうしたと催促いたします。
(ゆうべまつわかにとどけさしたといいましてもなかなかしょうちしませんで、)
ゆうべ松若にとどけさしたと云いましてもなかなか承知しませんで、
(いろいろめんどうなことをもうしますので、わたくしもいよいよこまりはてました。)
いろいろ面倒なことを申しますので、わたくしもいよいよ困り果てました。
(そればかりでなく、だんだんそのようすをみていますと、おつがはどうも)
そればかりでなく、だんだんその様子を見ていますと、お津賀はどうも
(とみぞうとわけがあるのではないかとおもわれるようなところもございますので、)
富蔵と情交(わけ)があるのではないかと思われるような所もございますので、
(わたくしもなんだかいまいましくなりまして、いまおもえばじつにおそろしいことで)
わたくしもなんだか忌々しくなりまして、今思えば実に恐ろしいことで
(ございます。いっそとみぞうとおつがをころしてしまえば、だれにもいじめられる)
ございます。いっそ富蔵とお津賀を殺してしまえば、誰にも窘(いじ)められる
(ことはないとぞんじまして、よみせでかいましたこがたなをふところにいれて、)
ことは無いと存じまして、夜店で買いました小刀をふところに入れて、
(さくばんのよふけにいなりちょうへそっとしのんでまいりますと、あんのとおりおつがは)
昨晩の夜ふけに稲荷町へそっと忍んでまいりますと、案の通りお津賀は
(となりのいえへはいりこんで、とみぞうとさしむかいでむつまじそうにさけをのんでいました。)
隣の家へはいり込んで、富蔵と差し向かいで睦まじそうに酒を吞んでいました。
(わたくしはかっとなってすぐにとびこもうかとぞんじましたが、)
わたくしは赫(かっ)となってすぐに飛び込もうかと存じましたが、
(なにぶんにもあいてはふたりでございますから、なんだかきおくれがして、)
なにぶんにも相手は二人でございますから、何だか気怯(きおく)れがして、
(しばらくようすをうかがっておりますと、ふたりはだんだんによいがまわってきまして、)
しばらく様子を窺って居りますと、ふたりはだんだんに酔いが廻って来まして、
(つまらないことからけんかをはじめましたが、おつがもきかないきのおんなですから、)
つまらないことから喧嘩をはじめましたが、お津賀もきかない気の女ですから、
(とうとうたちあがってつかみあいになろうとするはずみに、そばにある)
とうとう立ち上がって摑み合いになろうとするはずみに、そばにある
(あんどうをたおしました。とみぞうはもうよっているのでじゆうにみうごきも)
行燈(あんどう)を倒しました。富蔵はもう酔っているので自由に身動きも
(できません。おつがはあわててそのひをもみけそうとしましたが、これも)
出来ません。お津賀はあわててその火を揉み消そうとしましたが、これも
(よっているのでおもうようにははたらけません。ただうろたえてまごまごしている)
酔っているので思うようには働けません。唯うろたえてまごまごしている
(うちに、ひはだんだんにひろがっておつがのすそやたもとにもえつきました。)
うちに、火はだんだんに拡がってお津賀の裾や袂に燃え付きました。
(わたくしはあっけにとられてながめていますと、おつがはもうからだじゅうが)
わたくしは呆気(あっけ)にとられて眺めていますと、お津賀はもうからだ中が
(いちめんのひになってしまいまして・・・・・・」)
一面の火になってしまいまして……」
(そのとうじのせいさんなこうけいをおもいだすさえおそろしいように、いちまるだゆうは)
その当時の凄惨な光景を思い出すさえ恐ろしいように、市丸太夫は
(みぶるいした。)
身ぶるいした。
(「ゆいたてのてんじんまげをふりこわして、しろいかおをゆがめて、はをくいしばって、)
「結い立ての天神髷を振りこわして、白い顔をゆがめて、歯を食いしばって、
(ひあぶりになってうちじゅうをころげまわって、くるしみ)
火焙(ひあぶ)りになって家中(うちじゅう)を転げ廻って、苦しみ
(もがいているおんなのすがたは・・・・・・。わたくしのようなおくびょうものにはとてもふためとは)
もがいている女の姿は……。わたくしのような臆病者にはとてもふた目とは
(みていられませんでしたので、おもわずめをふさいでしまいますと、)
見ていられませんでしたので、思わず眼をふさいでしまいますと、
(おつがももうたまらなくなったのでございましょう。かまちからどまへ)
お津賀ももう堪まらなくなったのでございましょう。框から土間へ
(ころげおちたようなものおとがきこえました。わたくしははっとおもってふたたびめを)
転げ落ちたような物音がきこえました。わたくしははっと思って再び眼を
(あきますと、おつがのもえているすがたはいどのほうへ・・・・・・。からだのひを)
あきますと、お津賀の燃えている姿は井戸の方へ……。からだの火を
(けすつもりか、それともいっそひとおもいにしんでしまうつもりか、それは)
消す積りか、それともいっそ一と思いに死んでしまう積りか、それは
(わたくしにもよくわかりませんでしたが、ともかくもいどがわのうえで)
わたくしにも能(よ)く判りませんでしたが、ともかくも井戸側の上で
(ひのこがぱっとちったかとおもうと、おつがのすがたはもうみえなくなったようで)
火の粉がぱっと散ったかと思うと、お津賀の姿はもう見えなくなったようで
(ございました。とみぞうは・・・・・・どうしたのかぞんじません。もうそのころには)
ございました。富蔵は……どうしたのか存じません。もうその頃には
(うちじゅういっぱいのひになっていました。そのさわぎをききつけてきんじょのひとたちが)
家中いっぱいの火になっていました。その騒ぎを聞きつけて近所の人達が
(ばたばたかけつけてきましたので、わたくしもどをうしないまして、)
ばたばた駈け付けて来ましたので、わたくしも度を失いまして、
(ここらにうっかりしていて、とんだまきぞえをうけてはならないと、)
ここらにうっかりしていて、とんだ連坐(まきぞえ)を受けてはならないと、
(ぜんごのかんがえもなしにあのいなりのほこらのなかにかくれましたが、もしそのひが)
前後のかんがえも無しにあの稲荷の祠のなかに隠れましたが、もしその火が
(おおきくなってこっちへやけてきたらどうしようかと、じつにいきているそらも)
大きくなってこっちへ焼けて来たらどうしようかと、実に生きている空も
(ございませんでした。さいわいにひはいっけんやけでしずまりましたが、おおぜいのひとが)
ございませんでした。幸いに火は一軒焼けで鎮まりましたが、大勢の人が
(ひもとをとりまいてわやわやさわいでいるので、いつまでもでるにでられず。)
火元を取りまいてわやわや騒いでいるので、いつまでも出るに出られず。
(わたくしもとほうにくれているところを、とうとうおまえさんにさがしあてられて)
わたくしも途方に暮れているところを、とうとうお前さんに探し当てられて
(しまいました。あんどうをたおしたときに、わたくしもはやくかけこんで、いっしょに)
しまいました。行燈を倒したときに、わたくしも早く駈け込んで、一緒に
(てつだってけしてやればよかったのでございましょうが、)
手伝って消してやればよかったのでございましょうが、
(わたくしはただびっくりしておりまして・・・・・・」)
わたくしは唯びっくりして居りまして……」
(びっくりしていたばかりではない。そこにざんこくなふくしゅうのいみがふくまれて)
びっくりしていたばかりではない。そこに残酷な復讐の意味が含まれて
(いるらしいのをはんしちはそうぞうしないわけにはいかなかった。)
いるらしいのを半七は想像しないわけには行かなかった。
(「おめえがじかにてをおろさないで、おつがもとみぞうもいちどに)
「おめえが直接(じか)に手をおろさないで、お津賀も富蔵も一度に
(かたづけてしまえば、こんなせわのねえことはねえ」と、はんしちはひにくらしくいった。)
片付けてしまえば、こんな世話のねえ事はねえ」と、半七は皮肉らしく云った。
(「だが、おめえもつみなにんげんだ。さいぞうのまつわかはおめえのつかいにいくとちゅうで)
「だが、おめえも罪な人間だ。才蔵の松若はおめえの使に行く途中で
(こごえしんでしまったぜ」)
凍(こご)え死んでしまったぜ」
(「まつわかがしにましたか」と、いちまるだゆうはさらにそのかおをあおくした。)
「松若が死にましたか」と、市丸太夫は更にその顔を蒼くした。
(「そのおにっこをかかえていくとちゅうで、あんまりさけをのみすぎたせいだろう。)
「その鬼っ児をかかえて行く途中で、あんまり酒を飲み過ぎたせいだろう。
(くらいよったままでかまくらがしにぶったおれて、かわいそうにこごえしんで)
食らい酔ったままで鎌倉河岸にぶっ倒れて、可哀そうに凍え死んで
(しまったんだ。おにっこにべつじょうはねえ。おやもとがわかったらこっちからわたしてやる。)
しまったんだ。鬼っ児に別条はねえ。親元が判ったらこっちから渡してやる。
(おめえにうっかりわたして、またなにかのたねにつかわれちゃあたまらねえから」)
おめえにうっかり渡して、又なにかの種に使われちゃあ堪まらねえから」
(いちまるだゆうはもうひとこともなかった。かれはゆがんだしわづらを)
市丸太夫はもう一言もなかった。彼はゆがんだ皺面(しわづら)を
(はいいろにして、しんだもののようにうずくまっていた。)
灰いろにして、死んだ者のようにうずくまっていた。
(ながいきばをもったいんがもののあかごは、うみのははのおきたにひきわたされた。)
… 長い牙を持った因果者の赤児は、生みの母のお北に引き渡された。
(いちまるだゆうはおもてむきにかれをつみにすべきかどもないので、ただしかりおくという)
市丸太夫は表向きに彼を罪にすべき廉(かど)もないので、ただ叱り置くという
(だけでゆるされたが、すぐにやどをひきはらってこきょうへかえった。)
だけで免(ゆる)されたが、すぐに宿を引き払って故郷へ帰った。
(それからのちのえどのはるにいちまるだゆうのまんざいすがたはもうみえなくなった。)
それから後の江戸の春に市丸太夫の万歳すがたはもう見えなくなった。