半七捕物帳 三河万歳8
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問題文
(みすみすねこをなくしたのをごうじょうにしらないといいはって、)
四 見す見す猫をなくしたのを強情に知らないと云い張って、
(たといいっときでもおやぶんのまえでじぶんにはじをかかしたとみぞうを、)
たとい一時でも親分の前で自分に恥をかかした富蔵を、
(かめきちはこころからにくんでいた。きのうはんしちにわかれてからかれはよしわらへあそびにいったが、)
亀吉は心から憎んでいた。きのう半七に別れてから彼は吉原へ遊びに行ったが、
(あまりよくもあつかわれなかったむしゃくしゃばらで、ひけまえにくるわをとびだして、)
あまり好くも扱われなかったむしゃくしゃ腹で、引け前に廓を飛び出して、
(あべかわちょうのともだちをたたきおこしてとめてもらった。)
阿部川町(あべかわちょう)の友達を叩き起して泊めて貰った。
(かれもこのつよいかぜにまくらをゆすられておちおちねむられずにいるみみもとに、)
彼もこの強い風に枕を揺(ゆす)られておちおち眠られずにいる耳もとに、
(ひとのたちさわぐようなこえがとおくひびいた。かじかしらとすぐにとびおきて)
人の立ち騒ぐような声が遠くひびいた。火事かしらとすぐに飛び起きて
(そのさわがしいほうがくへかけつけてみると、はたしてかじにはそういなかったが、)
その騒がしい方角へ駈け付けてみると、果たして火事には相違なかったが、
(それはいなりちょうのながやのいっけんやけでしずまった。)
それは稲荷町の長屋の一軒焼けで鎮まった。
(かじはまずそれですんだが、すまないのは、そのひもとにおとこがしんでいる)
火事は先ずそれで済んだが、済まないのは、その火元に男が死んでいる
(ことである。しんだおとこはかのとみぞうであった。ひとつながやのおつがのしがいも)
ことである。死んだ男はかの富蔵であった。一つ長屋のお津賀の死骸も
(いどからはっけんされた。)
井戸から発見された。
(「こういうわけだからわたしひとりじゃいけねえ。おまえさんもはやくきて)
「こういうわけだから私ひとりじゃいけねえ。お前さんも早く来て
(おくんなせえ」)
おくんなせえ」
(「よし、すぐにいく。なにしろとんだことになったものだ」)
「よし、すぐに行く。なにしろ飛んだことになったものだ」
(はんしちはみじたくをして、かめきちといっしょにでてゆくと、しわすにじゅうくにちの)
半七は身支度をして、亀吉と一緒に出てゆくと、師走二十九日の
(あかつきのかぜは、もろはのおおきいつるぎでなぎたおそうと)
あかつきの風は、諸刃(もろは)の大きい剣(つるぎ)で薙(な)ぎ倒そうと
(するようにふきはらってきた。ふたりはめくちをふさいでころげるように)
するように吹き払って来た。ふたりは眼口(めくち)をふさいで転げるように
(あるいた。いなりちょうへいきついてみると、とみぞうのいえははんやけのままで)
あるいた。稲荷町へ行き着いてみると、富蔵の家は半焼けのままで
(くずれおちて、むせるようなしろいけむりはせまいろじのおくにうずまいて)
頽(くず)れ落ちて、咽(む)せるような白い煙は狭い露地の奥にうずまいて
(みなぎっていた。ちょうないのものもながやのものも、そのけむりのなかにむらがって)
漲(みなぎ)っていた。町内の者も長屋の者も、その煙のなかに群がって
(がやがやとさわいでいた。)
がやがやと騒いでいた。
(「どうもそうぞうしいことでした」)
「どうも騒々しいことでした」
(きのうのにょうぼうをみかけてはんしちがこえをかけると、あわてまなこのかれも)
きのうの女房を見掛けて半七が声をかけると、あわて眼(まなこ)のかれも
(いっしゅくれたきのうのひとをみわすれなかった。)
一朱くれたきのうの人を見忘れなかった。
(「きのうはどうも・・・・・・。でも、まあ、このかぜでこのくらいですめばしょうなんでした」)
「きのうはどうも……。でも、まあ、この風でこのくらいで済めば小難でした」
(「しょうなんはおめでてえが、なにかへんしがあるというじゃありませんか。)
「小難はおめでてえが、なにか変死があるというじゃありませんか。
(やけしんだのですか」と、はんしちはなにげなくきいた。)
焼け死んだのですか」と、半七は何げなく訊いた。
(「それがわからないんです。あのとみさんがやけしんで・・・・・・。)
「それが判らないんです。あの富さんが焼け死んで……。
(おつがさんも・・・・・・」 「そうですか」)
お津賀さんも……」 「そうですか」
(はんしちはすぐにひもとへいった。もうこうなってはめんをかぶって)
半七はすぐに火元へ行った。もうこうなっては仮面(めん)をかぶって
(いられないので、かれはじぶんのみぶんをなのって、いえぬしたちあいで)
いられないので、かれは自分の身分を名乗って、家主(いえぬし)立ち会いで
(やけあとをあらためた。きんじょのひとたちがはやくかけつけて、すぐたたきこわして)
焼け跡をあらためた。近所の人達が早く駈け付けて、すぐ叩き毀(こわ)して
(しまったので、はんやけといってもしちぶどおりはこわれたままでやけのこっていた。)
しまったので、半焼けと云っても七分通りは毀れたままで焼け残っていた。
(はんしちはそのいえのまわりをみまわりながら、ふとそのとなりのいなりのほこらに)
半七はその家のまわりを見廻りながら、ふとその隣りの稲荷の祠(ほこら)に
(めをつけた。 「このいなりさまはぶじだったんですか」)
眼をつけた。 「この稲荷さまは無事だったんですか」
(「ひのおおきくならなかったのも、おいなりさまのおかげだといって、)
「火の大きくならなかったのも、お稲荷様のおかげだと云って、
(ながやじゅうのものもよろこんでいます」と、いえぬしはいった。)
長屋じゅうの者も喜んでいます」と、家主は云った。
(「よろこぶのはまちがっている」と、はんしちはあざわらった。「おいなりさまに)
「喜ぶのは間違っている」と、半七はあざ笑った。「お稲荷さまに
(ごりやくがあるなら、はじめからこんなさわぎをしでかさねえがいい。)
御利益があるなら、はじめからこんな騒ぎを仕出来(しでか)さねえがいい。
(いえをやいて、ひとをころして、ごりやくもねえもんだ。いっそはけついでに)
家を焼いて、人を殺して、御利益もねえもんだ。いっそ刷毛(はけ)ついでに
(このいなりももやしちまっちゃあどうです」)
この稲荷も燃やしちまっちゃあどうです」
(むほうなことをいうとはおもったらしいが、あいてがあいてなので、)
無法なことを云うとは思ったらしいが、相手が相手なので、
(いえぬしはにがりきってだまっていると、はんしちはあしもとにまだちろちろと)
家主は苦り切って黙っていると、半七は足下(あしもと)にまだちろちろと
(もえているきのきれをひろってたいまつのようにふりあげた。)
燃えている木のきれを拾って松明(たいまつ)のように振りあげた。
(「ようがすかえ。このいなりにひをつけますぜ」)
「ようがすかえ。この稲荷に火をつけますぜ」
(「おまえさん。とんでもないことを・・・・・・」)
「お前さん。とんでもないことを……」
(いえぬしはあわててそのうでをおさえると、はんしちはいさいかまわずまたどなった。)
家主はあわててその腕を押えると、半七は委細かまわず又呶鳴(どな)った。
(「ええ、かまうものか、こんないなり・・・・・・。さあ、やくぞ。)
「ええ、構うものか、こんな稲荷……。さあ、焼くぞ。
(こんなひうちばこのようなちっぽけなほこらは、またたくまに)
こんな燧石箱(ひうちばこ)のような小っぽけな祠は、またたく間に
(はいにしてしまうぞ。のらぎつねがかくれているならはやくでてこい」)
灰にしてしまうぞ。野良狐(のらぎつね)が隠れているなら早く出て来い」
(いなりさまもこれにはおどろいたのかもしれない。そのこえにおうじてしょうめんのとびらが)
稲荷様もこれには驚いたのかも知れない。その声に応じて正面の扉が
(さっとあいた。しかもはいだしてきたのはのらぎつねではなかった。)
さっとあいた。しかも這い出して来たのは野良狐ではなかった。
(それはあたまからすすをあびたごじゅうぜんごのおとこであった。)
それは頭から煤(すす)を浴びた五十前後の男であった。