山本周五郎 赤ひげ診療譚 鶯ばか 四-2

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1 りつ 3911 D++ 4.1 94.4% 739.7 3072 179 45 2024/10/14

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問題文

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(「どうしました」とうしろでこえがした。 のぼるはほとんどとびあがりそうになった。)

「どうしました」とうしろで声がした。 登は殆んどとびあがりそうになった。

(それがうへえだということはわかっていながら、とびあがりそうになり、ぜんしんが)

それが卯兵衛だということはわかっていながら、とびあがりそうになり、全身が

(あわだった。 「ああ、あれですか」うへえはむこうのこえにきがついて、わらいながら)

粟立った。 「ああ、あれですか」卯兵衛は向うの声に気がついて、笑いながら

(いった、「あなたがたはごぞんじないかもしれませんな、いってみましょう、ながやの)

云った、「貴方がたは御存じないかも知れませんな、いってみましょう、長屋の

(かみさんれんちゅうですよ」 うへえがあるきだし、のぼるもついていった。すると)

かみさん連中ですよ」 卯兵衛が歩きだし、登もついていった。すると

(いどばたに、ちょうちんをもったおんなたちがろく、しちにんいて、ふたりずつかわるがわる、いどのなかへ)

井戸端に、提灯を持った女たちが六、七人いて、二人ずつ代る代る、井戸の中へ

(むかってよびかけるのであった。 「ちょうぼうやーい、ちょうじさんやーい」)

向かって呼びかけるのであった。 「長坊やーい、長次さんやーい」

(ひとことひとことをながくひいて、ちょうぼうやあーい、というふうによぶので)

ひと言ひと言を長く引いて、ちょうぼうやあーい、というふうに呼ぶので

(あるが、へいじょうとはちがうものがなしげな、うったえるようなあいちょうをおびたこえで、それが)

あるが、平常とは違うもの悲しげな、訴えるような哀調を帯びた声で、それが

(いどのなかにこもったはんきょうをおこすため、めのまえにみえていてさえも、せすじがさむく)

井戸の中にこもった反響を起こすため、眼の前に見えていてさえも、背筋が寒く

(なるようなぶきみさをかんじた。 「ちょうじをよびかえしているんです」とうへえが)

なるようなぶきみさを感じた。 「長次を呼び返しているんです」と卯兵衛が

(ささやいた、「いどはじめんのそこへつづいてますからね、しにかかっているものを)

囁いた、「井戸は地面の底へ続いてますからね、死にかかっている者を

(ああやってよべば、こっちへかえってくるっていうんですよ」 そらにはほしひとつ)

ああやって呼べば、こっちへ帰って来るっていうんですよ」 空には星一つ

(みえず、くらいろじにかぜがふいている。かぜはつよくはないが、たしかにふゆの)

見えず、暗い路地に風が吹いている。風は強くはないが、たしかに冬の

(きたことをしめすように、しみるほどつめたかった。のぼるはいどのなかにひびくおんなたちの)

来たことを示すように、しみるほど冷たかった。登は井戸の中に響く女たちの

(なげきうったえるようなよびごえを、ややしばらくだまってきいていた。ーーつかいのでんごんで、)

嘆き訴えるような呼び声を、やや暫く黙って聞いていた。ーー使いの伝言で、

(くるかとおもったきょじょうはこず、のぼるはじゅういちじごろまでごろきちのいえにいたが、ひとねむり)

来るかと思った去定は来ず、登は十一時ごろまで五郎吉の家にいたが、ひと眠り

(するようにといわれ、さはいのいえへもどってねどこにはいった。まくらがかわるとねにくい)

するようにと云われ、差配の家へ戻って寝床にはいった。枕が変ると寝にくい

(たちで、どうせねむれはしないだろうとおもったが、まさをのすがたをおもいえがき、)

たちで、どうせ眠れはしないだろうと思ったが、まさをの姿を想い描き、

(どういうきかいにえんだんをしょうちしようか、などとかんがえていると、こうふくかんでからだ)

どういう機会に縁談を承知しようか、などと考えていると、幸福感で躰

など

(ぜんたいがあたたかくつつまれるようにおもわれ、いつかしらうとうととねむりこんで)

ぜんたいが温かく包まれるように思われ、いつかしらうとうとと眠りこんで

(しまった。 ごぜんさんじに、のぼるはよびおこされた。)

しまった。 午前三時に、登は呼び起こされた。

(「めんどうでしょうがちょっとおきてください」とうへえがいった、「ちょうじのやつが)

「面倒でしょうがちょっと起きてください」と卯兵衛が云った、「長次のやつが

(せんせいにあいたいといってきかないそうです」 のぼるはおきなおった、「ようだいでも)

先生に会いたいと云ってきかないそうです」 登は起き直った、「容態でも

(かわったのか」 「わかりません、そいつはききませんが、ただぜひともせんせいに)

変わったのか」 「わかりません、そいつは聞きませんが、ただぜひとも先生に

(あわせてくれといって、しょうちしないんだそうです」 「なんどきごろだ」)

会わせてくれと云って、承知しないんだそうです」 「なん刻ごろだ」

(「やつはんです」とうへえはねまきのえりをかきあわせた、「やへいのにょうぼうがおむかえに)

「八ツ半です」と卯兵衛は寝衣の衿を搔き合わせた、「弥平の女房がお迎えに

(きていますが、いってくださいますか」 「うん、きがえよう」のぼるは)

来ていますが、いって下さいますか」 「うん、着替えよう」登は

(たちあがった。 まっていたのは、やへいというえんにちあきんどのにょうぼうで、)

立ちあがった。 待っていたのは、弥平という縁日あきんどの女房で、

(なはおけい、としはしじゅうに、さんになっていた。かのじょはごろきちいっかととなりどうしで)

名はおけい、年は四十二、三になっていた。彼女は五郎吉一家と隣り同士で

(あり、かれらのしんじゅうをはっけんしたのもおけいで、それいらいずっとつきっきりで)

あり、かれらの心中を発見したのもおけいで、それ以来ずっと付きっきりで

(せわをしている。おとこまさりでむこうっきがつよく、いくにんかのにょうぼうたちをてきぱきとさしず)

世話をしている。男まさりで向っ気が強く、幾人かの女房たちをてきぱきと指図

(しながら、こどもたちのしたいのしまつから、のこっているごろきちふうふとちょうじの)

しながら、子供たちの死躰の始末から、残っている五郎吉夫婦と長次の

(めんどうをみ、さらにゆちゃのことまでぬかりなくやってのけていた。ただのぼるのへいこう)

面倒をみ、さらに湯茶のことまでぬかりなくやってのけていた。ただ登の閉口

(したのは、かのじょがおそろしくあけっぱなしで、これまでかつてきいたためしの)

したのは、彼女がおそろしくあけっ放しで、これまでかつて聞いたためしの

(ないほど、らんぼうなくちをきくことであった。 ーーなんだいそのこしっつきは。)

ないほど、乱暴な口をきくことであった。 ーーなんだいその腰っつきは。

(ごろきちのねどこをかたよせるとき、むこうのはしをもったにょうぼうのひとりに、おけいはおとこの)

五郎吉の寝床を片よせるとき、向うの端を持った女房の一人に、おけいは男の

(ようなこえでどなった。 ーーそんなこしっつきじゃあばつばつもまんぞくにできやしめえ、)

ような声でどなった。 ーーそんな腰っつきじゃあ××も満足にできやしめえ、

(もっとそのけつをあげな、けつを。 そのときのぼるはほほがあからむのをかんじたもので)

もっとそのけつをあげな、けつを。 そのとき登は頬が赤らむのを感じたもので

(ある。だが、いまちょうちんであしもとをてらしながら、のぼるをあんないしていくおけいは、)

ある。だが、いま提灯で足もとを照らしながら、登を案内していくおけいは、

(ひとがかわったようにおとなしく、しょんぼりとしていた。 「あのこはたすかる)

人が変わったように温和しく、しょんぼりとしていた。 「あの子は助かる

(でしょうかねえ、せんせい」とおけいはあるきながらきいた、「ちょうはたすかる)

でしょうかねえ、先生」とおけいは歩きながら訊いた、「長は助かる

(でしょうか」 「あさがこせればたすかるとおもう」)

でしょうか」 「朝が越せれば助かると思う」

(「はあ」とおけいはふかいためいきをついた、「ひとことそうだんしてくれればよかった)

「はあ」とおけいは深い溜息をついた、「ひとこと相談してくれればよかった

(のに、おふみさんもみずくさい、どうしてこんなことをするきになったんだろう」)

のに、おふみさんも水臭い、どうしてこんなことをする気になったんだろう」

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