紫式部 源氏物語 松風 5 與謝野晶子訳

関連タイピング
-
夏目漱石
プレイ回数13万長文かな512打 -
古典落語の名作、寿限無でタイピング
プレイ回数1万かな232打 -
夏目漱石
プレイ回数8.2万長文1353打 -
芥川龍之介
プレイ回数5.1万長文かな1675打 -
プレイ回数247長文3527打
-
少年探偵団シリーズ第3作品『妖怪博士』
プレイ回数988長文4598打 -
『レミゼラブル』現代口語
プレイ回数107長文英字1214打 -
プレイ回数212長文3226打
問題文
(しのびで、しかもぜんくにはしたしいものだけをえらんでげんじはおおいへきた。)
微行で、しかも前駆には親しい者だけを選んで源氏は大井へ来た。
(ゆうがたまえである。いつもかりぎぬすがたをしていたあかしじだいでさえもうつくしいげんじで)
夕方前である。いつも狩衣姿をしていた明石時代でさえも美しい源氏で
(あったのが、こいびとにあうがためにひきつくろったのうしすがたはまばゆいほど)
あったのが、恋人に逢うがために引き繕った直衣姿はまばゆいほど
(またりっぱであった。おんなのしたながいうれいもこれになぐさめられた。)
またりっぱであった。女のした長い愁いもこれに慰められた。
(げんじはいまさらのようにこのひとにふかいあいをおぼえながら、ふたりのなかにうまれた)
源氏は今さらのようにこの人に深い愛を覚えながら、二人の中に生まれた
(こどもをみてまたかんどうした。いままでみずにいたことさえもとりかえされない)
子供を見てまた感動した。今まで見ずにいたことさえも取り返されない
(そんしつのようにおもわれる。さだいじんけでうまれたこのびぼうを)
損失のように思われる。左大臣家で生まれた子の美貌を
(せじんはたたえるが、それはけんせいにめがくらんだひひょうである。)
世人はたたえるが、それは権勢に目がくらんだ批評である。
(これこそしんのびじんになるようそのそなわったこどもであるとげんじはおもった。)
これこそ真の美人になる要素の備わった子供であると源氏は思った。
(めのともあかしへたっていったころのおとろえたかおはなくなって)
乳母も明石へ立って行ったころの衰えた顔はなくなって
(うつくしいおんなになっている。きょうまでのことをいろいろとなつかしいふうに)
美しい女になっている。今日までのことをいろいろとなつかしいふうに
(はなすのをきいていたげんじは、しおやきごやにちかいいなかのせいかつを)
話すのを聞いていた源氏は、塩焼き小屋に近い田舎の生活を
(しいてさせられてきたのにどうじょうするというようなことをいった。)
しいてさせられてきたのに同情するというようなことを言った。
(「ここだってまだずいぶんととおすぎる。したがってわたくしがしじゅうは)
「ここだってまだずいぶんと遠すぎる。したがって私が始終は
(こられないことになるから、やはりわたくしがあなたのためによういしたところへ)
来られないことになるから、やはり私があなたのために用意した所へ
(おうつりなさい」 とげんじはあかしにいうのであったが、)
お移りなさい」 と源氏は明石に言うのであったが、
(「こんなふうにいなかものであることがすこしなおりましてから」)
「こんなふうに田舎者であることが少し直りましてから」
(とおんなのいうのもどうりであった。げんじはいろいろにあかしのこころを)
と女の言うのも道理であった。源氏はいろいろに明石の心を
(いたわったり、しょうらいをかたくちかったりしてそのよはあけた。)
いたわったり、将来を堅く誓ったりしてその夜は明けた。
(なおしゅうぜんをくわえるひつようのあるところを、げんじはもとのあずかりにんや)
なお修繕を加える必要のある所を、源氏はもとの預かり人や
(あらたににんめいしたかしょくのものにめいじていた。げんじがかつらのいんへくるという)
新たに任命した家職の者に命じていた。源氏が桂の院へ来るという
(しらせがあったために、このちかくのりょうちのひとたちのあつまってきたのは)
報せがあったために、この近くの領地の人たちの集まって来たのは
(みなそこからあかしのいえのほうへきた。そうしたひとたちににわのうえこみの)
皆そこから明石の家のほうへ来た。そうした人たちに庭の植え込みの
(くさきをなおさせたりなどした。 「ながれのなかにあったたていしがみなたおれて、)
草木を直させたりなどした。 「流れの中にあった立石が皆倒れて、
(ほかのいしといっしょにまぎれてしまったらしいが、そんなものを)
ほかの石といっしょに紛れてしまったらしいが、そんな物を
(ふっきゅうさせたり、よくなおさせたりすればずいぶんおもしろくなるにわだと)
復旧させたり、よく直させたりすればずいぶんおもしろくなる庭だと
(おもわれるが、しかしそれはほねをおるだけかえってあとで)
思われるが、しかしそれは骨を折るだけかえってあとで
(いけないことになる。そこにえいきゅういるものでもないから、いつかたって)
いけないことになる。そこに永久いるものでもないから、いつか立って
(いってしまうときにこころがのこって、どんなにわたくしはくるしかったろう、かえるときに」)
行ってしまう時に心が残って、どんなに私は苦しかったろう、帰る時に」
(げんじはまたむかしをおもいだして、なきもし、わらいもしてかたるのであった。)
源氏はまた昔を思い出して、泣きもし、笑いもして語るのであった。
(こうしたうちとけたようすのみえるときにげんじはいっそううつくしいのであった。)
こうした打ち解けた様子の見える時に源氏はいっそう美しいのであった。
(のぞいてみていたあまぎみはおいもわすれ、ものおもいもあとかたなくなって)
のぞいて見ていた尼君は老いも忘れ、物思いも跡かたなくなって
(しまうきがしてほほえんでいた。ひがしのわたどののしたをくぐってくるながれのすじを)
しまう気がして微笑んでいた。東の渡殿の下をくぐって来る流れの筋を
(しかえたりするさしずに、げんじはうちぎをひきかけたくつろぎすがたでいるのがまた)
仕変えたりする指図に、源氏は袿を引き掛けたくつろぎ姿でいるのがまた
(あまぎみにはうれしいのであった。ほとけのあかのぐなどがえんにおかれてあるのを)
尼君にはうれしいのであった。仏の閼伽の具などが縁に置かれてあるのを
(みて、げんじはそのなかがあまぎみのへやであることにきがついた。)
見て、源氏はその中が尼君の部屋であることに気がついた。
(「あまぎみはこちらにおいでになりますか。だらしのないすがたをしています」)
「尼君はこちらにおいでになりますか。だらしのない姿をしています」
(といって、げんじはのうしをとりよせてきかえた。きちょうのまえにすわって、)
と言って、源氏は直衣を取り寄せて着かえた。几帳の前にすわって、
(「こどもがよいこにそだちましたのは、あなたのいのりをほとけさまがいれて)
「子供がよい子に育ちましたのは、あなたの祈りを仏様がいれて
(くだすったせいだろうとありがたくおもいます。ぞくをおはなれになった)
くだすったせいだろうとありがたく思います。俗をお離れになった
(きよいごせいかつから、わたくしたちのためにまたよのなかへかえってきて)
清い御生活から、私たちのためにまた世の中へ帰って来て
(くだすったことをかんしゃしています。あかしではまたひとりでおのこりになって、)
くだすったことを感謝しています。明石ではまた一人でお残りになって、
(どんなにこちらのことをそうぞうしてしんぱいしていてくださるだろうと)
どんなにこちらのことを想像して心配していてくださるだろうと
(すまなくわたくしはおもっています」 となつかしいふうにはなした。)
済まなく私は思っています」 となつかしいふうに話した。
(「いちどすてましたよのなかへかえってまいってくるしんでおりますこころも、)
「一度捨てました世の中へ帰ってまいって苦しんでおります心も、
(おさっしくださいましたので、いのちのながさもうれしくぞんぜられます」)
お察しくださいましたので、命の長さもうれしく存ぜられます」
(あまぎみはなきながらまた、 「あらいそかげにこころぐるしくぞんじましたふたばのまつも)
尼君は泣きながらまた、 「荒磯かげに心苦しく存じました二葉の松も
(いよいよたのもしいみらいがおもわれますひにとうたついたしましたが、)
いよいよ頼もしい未来が思われます日に到達いたしましたが、
(ごせいぼがわれわれふぜいのむすめでございますことが、ごこうふくの)
御生母がわれわれ風情の娘でございますことが、御幸福の
(さわりにならぬかとくろうにしております」 などというようすに)
障りにならぬかと苦労にしております」 などという様子に
(ひんのよさのみえるふじんであったから、げんじはこのさんそうのむかしのあるじの)
品のよさの見える婦人であったから、源氏はこの山荘の昔の主の
(しんのうのことなどをわだいにしてかたった。なおされたながれのみずはこのはなしに)
親王のことなどを話題にして語った。直された流れの水はこの話に
(ことばをいれたいように、まえよりもたかいおとをたてていた。 )
言葉を入れたいように、前よりも高い音を立てていた。
(すみなれしひとはかえりてたどれどもしみづぞやどのあるじがおなる )
住み馴れし人はかへりてたどれども清水ぞ宿の主人がほなる
(うたであるともなくこういうようすに、)
歌であるともなくこう言う様子に、
(げんじはふうがをかいするろうじょであるとおもった。 )
源氏は風雅を解する老女であると思った。
(「いさらいははやくのこともわすれじをもとのあるじやおもがわりせる )
「いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人や面変はりせる
(かなしいものですね」 とたんそくしてたっていくげんじのうつくしいとりなしにも)
悲しいものですね」 と嘆息して立って行く源氏の美しいとりなしにも
(あまぎみはうたれてぼうとなっていた。)
尼君は打たれて茫となっていた。