鼻　1-1　ゴーゴリ

(（こーひーがいちにんまえあまるというもんだからね。）)

（珈琲が一人前あまるというもんだからね。）

(そしてぱんをひとつしょくたくのうえへほりだした。)

そしてパンを一つ食卓の上へ抛り出した。

(いわんやーこうれヴぃっちは、)

イワン・ヤーコウレヴィッチは、

(れいぎのためにしゃつのうえへえんびふくをひっかけると、しょくたくにむかってこしかけ、)

礼儀のためにシャツの上へ燕尾服をひっかけると、食卓に向かって腰かけ、

(ふたつのねぎのたまにしおをふってよういをととのえ、やおらないふをてにして、)

二つの葱の球に塩をふって用意をととのえ、やおらナイフを手にして、

(もったいらしいかおつきでぱんをきりにかかった。)

勿体らしい顔つきでパンを切りにかかった。

(まっぷたつにきりわってなかをのぞいてみると－－おどろいたことに、)

真二つに切り割って中をのぞいてみると--驚いたことに、

(なにかしろっぽいものがめについた。いわんやーこうれヴぃっちはようじんぶかく、)

何か白っぽいものが目についた。イワン・ヤーコウレヴィッチは用心ぶかく、

(ちょっとないふのさきでほじくって、ゆびでさわってみた。)

ちょっとナイフの先でほじくって、指でさわってみた。

(（かたいぞ！）と、かれはひとりごちた。（いったいなんだろう、これは？）)

（固いぞ！）と、彼はひとりごちた。（いったい何だろう、これは？）

(かれはゆびをつっこんでつまみだした－－はなだ！)

彼は指を突っこんで撮み出した--鼻だ！

(・・・・・・いわんやーこうれヴぃっちはおもわずてをひっこめた。)

……イワン・ヤーコウレヴィッチは思わず手を引っこめた。

(めをこすって、またゆびでさわってみた。はなだ、まさしくはなである！)

眼をこすって、また指でさわって見た。鼻だ、まさしく鼻である！

(しかも、そのうえ、だれかしったひとのはなのようだ。)

しかも、その上、誰か知った人の鼻のようだ。

(いわんやーこうれヴぃっちのかおにはまざまざときょうふのいろがあらわれた。)

イワン・ヤーコウレヴィッチの顔にはまざまざと恐怖の色が現われた。

(しかしそのきょうふも、かれのさいくんがかられたふんぬにくらべてはもののかずではなかった。)

しかしその恐怖も、彼の細君が駆られた憤怒に比べては物のかずではなかった。

(「まあ、このひとでなしは、どこからそんなはななんかそぎとってきたのさ？」)

「まあ、この人でなしは、何処からそんな鼻なんか削ぎ取って来たのさ？」

(こう、さいくんはむきになってどなりたてた。)

こう、細君はむきになって呶鳴りたてた。

(「あくとう！のんだくれ！このわたしがおまえさんをけいさつへうったえてやるからいい。)

「悪党！　飲んだくれ！この私がお前さんを警察へ訴えてやるからいい。

(なんというおおどろぼうだろう！)

何という大泥棒だろう！

(わたしはもうさんにんのおきゃくさんから、おまえさんがかおをあたるとき、)

私はもう三人のお客さんから、お前さんが顔をあたる時、

(いまにもちぎれそうになるほどはなをひっぱるってきかされているよ。」)

今にもちぎれそうになるほど鼻をひっぱるって聞かされているよ。」

(だが、いわんやーこうれヴぃっちはもういきたそらもないありさまであった。)

だが、イワン・ヤーコウレヴィッチはもう生きた空もない有様であった。

(かれはそのはなが、だれあろう、まいしゅうすいようとにちようとにじぶんにかおをあたらせる)

彼はその鼻が、誰あろう、毎週水曜と日曜とに自分に顔をあたらせる

(はっとうかんこわりょーふしのものであることにきがついたのである。)

八等官コワリョーフ氏のものであることに気がついたのである。

(「まあ、おまち、ぷらすこーヴぃやおーしぽヴな、)

「まあ、お待ち、プラスコーヴィヤ・オーシポヴナ、

(こいつはぼろきれにでもつつんで、どこかすみっこにおいとこう。)

こいつは襤褸きれにでも包んで、何処か隅っこに置いとこう。

(あとでおれがすててくるよ。」)

あとで俺が棄ててくるよ。」

(「ええ、ききたくもない！そぎとったはななんかを、このへやにおいとくなんて、)

「ええ、聞きたくもない！削ぎとった鼻なんかを、この部屋に置いとくなんて、

(そんなことをわたしがしょうちするとでもおもうのかい？)

そんなことを私が承知するとでも思うのかい？

(・・・・・・このできそくないやろうったら！)

……この出来そくない野郎ったら！

(のうといえば、かわとをかみそりでぺたぺたやることだけで、)

能といえば、革砥を剃刀でペタペタやることだけで、

(かんじんなことをてっとりばやくかたづけるだんになると、からっきしいくじのない、)

肝腎なことを手っ取り早く片づける段になると、空っきし意気地のない、

(のらくらの、やくざなのさ、おまえさんは！わたしがおまえさんにかわって、)

のらくらの、やくざなのさ、お前さんは！私がお前さんに代って、

(けいさつでもうしひらきをするとでもおもってるのかい？)

警察で申し開きをするとでも思ってるのかい？

(・・・・・・ああ、なんてだらしのない、でくのぼうだろう！)

……ああ、何てだらしのない、木偶の坊だろう！

(さっさともっていっとくれ！さあってば！)

さっさと持って行っとくれ！さあってば！

(どこへでもすきなところへもっていくがいいよ！)

何処へでも好きなところへ持って行くがいいよ！

(わたしゃそんなもののにおいだってかぎたくないんだからね！」)

私ゃそんなものの匂いだって嗅ぎたくないんだからね！」

(いわんやーこうれヴぃっちは、まるでたたきのめされたもののように)

イワン・ヤーコウレヴィッチは、まるで叩きのめされたもののように

(ぼうぜんとしてつったっていた。かれはかんがえにかんがえたが、)

茫然として突っ立っていた。彼は考えに考えたが、

(さてなにをいったいかんがえたらいいのかけんとうがつかなかった。)

さて何をいったい考えたらいいのか見当がつかなかった。

(（どうしてこんなことになったのか、さっぱりわけがわからないや。）と、)

（どうしてこんなことになったのか、さっぱり訳が分からないや。）と、

(とうとうしまいにみみのうしろをかきながらかれはつぶやいた。)

とうとうしまいに耳の後ろを掻きながら彼は呟やいた。

(（きのうおれはよっぱらってかえったのかどうか、それさえもう、)

（きのう俺は酔っ払って帰ったのかどうか、それさえもう、

(はっきりしたことはわからないや。だが、こいつは、どのてんからかんがえても、)

はっきりしたことは分からないや。だが、こいつは、どの点から考えても、

(まったくありえべからざるできごとだて。)

全く有り得べからざる出来ごとだて。

(だいいちぱんはよくやけているのに、はなはいっこうどうもなっていない。)

第一パンはよく焼けているのに、鼻はいっこうどうもなっていない。

(さっぱりどうも、おれにはわけがわからないや！）)

さっぱりどうも、俺には訳が分からないや！）

(いわんやーこうれヴぃっちはここでだまりこんでしまった。)

イワン・ヤーコウレヴィッチは茲で黙りこんでしまった。

(けいさつかんがかれのいえをそうさくしてはなをみつけだす、)

警察官が彼の家を捜索して鼻を見つけ出す、

(そしてじぶんがこくはつされるのだとおもうと、まるでいきたここちもなかった。)

そして自分が告発されるのだと思うと、まるで生きた心地もなかった。

(びびしくぎんもーるでししゅうをしたあかいたちえりやはいけんなどが、)

美々しく銀モールで刺繍をした赤い立襟や佩剣などが、

(もうめのまえにちらついて・・・・・・かれはぜんしんぶるぶるとふるえだした。)

もう眼の前にちらついて……彼は全身ブルブルと顫えだした。

(とうとうしたぎやながぐつをとりだして、)

とうとう下着や長靴を取り出して、

(そのきたならしいいしょうをのこらずみにつけると、)

その穢らしい衣裳を残らず身につけると、

(ぷらすこーヴぃやおーしぽヴなのくちやかましいおせっきょうをききながら、)

プラスコーヴィヤ・オーシポヴナの口喧ましいお説教をききながら、

(かれははなをぼろぬのにつつんでおうらいへでた。)

彼は鼻を襤褸布に包んで往来へ出た。