悪獣篇 泉鏡花 5
関連タイピング
-
プレイ回数12万歌詞200打
-
プレイ回数4.4万歌詞1030打
-
プレイ回数77万長文300秒
-
プレイ回数7577歌詞1062打
-
プレイ回数1万長文1715打
-
プレイ回数5.1万長文かな316打
-
プレイ回数1.4万歌詞60秒
-
プレイ回数34歌詞1150打
問題文
(うすいけむりにつつまれて、ちゃはわいていそうだけれど、よしずばりがぼんやりして、)
薄い煙に包まれて、茶は沸いていそうだけれど、葦簀張がぼんやりして、
(かかるてんきに、なにごとぞ、うろにくちたりな。)
かかる天気に、何事ぞ、雨露に朽ちたりな。
(「いいじゃありませんか、せんせい、びくはぼくがもっていますから、)
「可いじゃありませんか、先生、畚は僕が持っていますから、
(まつなんぞぐずぐずいったら、ぶっつけてやります。」)
松なんぞ愚図々々言ったら、ぶッつけてやります。」
(むにのみかたでたのもしくなぐさめた。)
無二の味方で頼母[たのも]しく慰めた。
(「いやまた、こうへきえきして、さおをたたんで、ふところへ)
「いやまた、こう辟易して、棹を畳んで、懐中[ふところ]へ
(りしまいこんで、きせるづつをわすれた、というかおでかえるところも)
了[しま]い込んで、煙管筒を忘れた、という顔で帰る処も
(おもしろいかんじがするで。)
おもしろい感じがするで。
(それにのどもかわいた、ちゃをひとつのみましょう。まずやすんで、」)
それに咽喉[のど]も乾いた、茶を一つ飲みましょう。まず休んで、」
(とみあしばかり、みちをよこへ、ちゃみせのまえの、ひとまばかりあしが)
と三足[みあし]ばかり、路を横へ、茶店の前の、一間ばかり蘆が
(さゆうへわかれていた、ねがしろくぬれちがすいてみえて、)
左右へ分れていた、根が白く濡地[ぬれち]が透いて見えて、
(ぶくぶくとかにのあな、うたかたのあわれをふいて、あかねがさして、ひはいまだたかいが)
ぶくぶくと蟹の穴、うたかたのあわれを吹いて、茜がさして、日は未だ高いが
(むしのこえ、ろをこぐように、ぎい、ぎっ.ちょっ、ちょ。)
虫の声、艫[ろ]を漕ぐように、ギイ、ギッ.チョッ、チョ。
(「さあ、おかけ。」)
「さあ、お掛け。」
(としょうねんを、じぶんのしょうぎのわきにおらせて、)
と少年を、自分の床几[しょうぎ]の傍[わき]に居[お]らせて、
(せんせいはかわくといった、そのくちびるをなでながら、)
先生は乾くと言った、その唇を撫でながら、
(「ちゃをひとつくださらんか。」)
「茶を一つ下さらんか。」
(くらいなかからしろいなり、あさのはいろのまきつけおびで、ぞうりのおと、)
暗い中から白い服装[なり]、麻の葉いろの巻つけ帯で、草履の音、
(ひたひた、ときゃくをみてはやよういをしたか、)
ひたひた、と客を見て早や用意をしたか、
(きりぎりすのかじったぬりぼんに、あさがおぢゃわんのひびだらけ、)
蟋蟀[きりぎりす]の噛[かじ]った塗盆に、朝顔茶碗の亀裂[ひび]だらけ、
(ちゃしぶでさびたのをふたつのせて、)
茶渋で錆びたのを二つのせて、
(「あがりまし、」)
「あがりまし、」
(とすえてだし、こしをかがめたおうなをみよ。ひとすじごとにうつくしくくしのはをいれたように、)
と据えて出し、腰を屈めた嫗を見よ。一筋ごとに美しく櫛の歯を入れたように、
(けすじがとおって、はえぎわのそろった、やわらかな、ちゃにややかばを)
毛筋が透って、生際[はえぎわ]の揃った、柔かな、茶にやや褐[かば]を
(おびたかみのいろ。くろきけ、しらがのちりばかりをもまじえぬを、きりかみにぷつりとさげた、)
帯びた髪の色。黒き毛、白髪の塵ばかりをも交えぬを、切髪にプツリと下げた、
(いろのしろい、つやのある、ほそおもてのおとがいとがって、はなすじのつととおった、)
色の白い、艶のある、細面の頤[おとがい]尖って、鼻筋の衝[つ]と通った、
(どこかにけだかいところのある、としはたがめも)
どこかに気高い処のある、年紀[とし]は誰[た]が目も
(おなじ・・・・・・である。)
同一[おなじ]・・・・・・である。
(「びょうびょうことして、あしじゃ。おばあさん、)
九 「渺々乎[びょうびょうこ]として、蘆じゃ。お婆さん、
(いいけしきだね。にさんどきてみたところぢゃけれど、このみせのぐあいが)
好[いい]景色だね。二三度来て見た処ぢゃけれど、この店の工合が
(いいせいか、きょうはかくべつにひろくかんじる。)
可いせいか、今日は格別に広く感じる。
(このうみのほかに、またこんなうみがあろうとはおもえんくらいじゃ。」)
この海の他に、またこんな海があろうとは思えんくらいじゃ。」
(とうなずくようにちゃをひとくち。ちゃわんにかかるほど、しゃつのそでの)
と頷くように茶を一口。茶碗にかかるほど、襯衣[しゃつ]の袖の
(ふくらかなので、かいいだくていにちゃわんをもって。)
膨らかなので、掻抱[かいいだ]く体[てい]に茶碗を持って。
(しょうねんはうしろむきに、やまをながめて、おつきあいというかおつき。)
少年はうしろ向に、山を視[なが]めて、おつきあいという顔色[かおつき]。
(せんせいのかげにしゃくをへだてず、きゅうくつそうにただもじもじ。)
先生の影二尺を隔てず、窮屈そうにただもじもじ。
(おうなはいぎただしく、ひざのあたりまでてをたれて、)
嫗は威儀正しく、膝のあたりまで手を垂れて、
(「はい、もうされまするとおり、よがまだあけませぬどろぬまのときのような)
「はい、申されまする通り、世がまだ開けませぬ泥沼の時のような
(あしはらでござるわや。)
蘆原でござるわや。
(このかわぞいは、どこもかしこも、あしがはえてあるなれど、わいが)
この川沿は、どこもかしこも、蘆が生えてあるなれど、私[わい]が
(こいえのまわりには、まだいこうしげってござる。)
小家[こいえ]のまわりには、まだ多[いこ]う茂ってござる。
(あきにもなってみやしゃりませ。たけがたこう、ほがのびて、こやはやねにつつまれる、)
秋にもなって見やしゃりませ。丈が高う、穂が伸びて、小屋は屋根に包まれる、
(やまのふところもかくれるけに、こいではいるふねのろかいのおとも、みずのそこに)
山の懐も隠れるけに、漕いで入る船の艫櫂[ろかい]の音も、水の底に
(いんきにきこえて、さびしくなるがの。そのときいねがみのるでござって、おひよりじゃ、)
陰気に聞えて、寂しくなるがの。その時稲が実るでござって、お日和じゃ、
(ことしは、さくもとほうねんそうにござります。)
今年は、作も豊年そうにござります。
(もう、このようにおいくちて、あとをいただくごぼさつのつぶも、いつつななつと、)
もう、このように老い朽ちて、あとを頂く御菩薩の粒も、五つ七つと、
(かぞえるようになったれども、しょうあるものはあさましゅうての、)
算[かぞ]えるようになったれども、生[しょう]あるものは浅間しゅうての、
(あしのしげるをみるにつけても、いねのふとるがうれしゅうてなりませぬ、はい、はい。」)
蘆の茂るを見るにつけても、稲の太るが嬉しゅうてなりませぬ、はい、はい。」
(とほそいがきくもののみみにひびく、とおるこえでいいながら、どこをどうしたら)
と細いが聞くものの耳に響く、透る声で言いながら、どこをどうしたら
(わらえよう、つらきうきよのしおかぜに、つめたくだいりせきに)
笑えよう、辛き浮世の汐風[しおかぜ]に、冷[つめた]く大理石に
(なったような、そのほとけつくったかおに、さびしげににっこりわらった。)
なったような、その仏造った顔に、寂しげに莞爾[にっこり]笑った。
(かねをふくんだはがそろって、かいのようにうつくしい。)
鉄漿[かね]を含んだ歯が揃って、貝のように美しい。
(それとなおめについたは、かおのいろのしろいのに、そのねむったような)
それとなお目についたは、顔の色の白いのに、その眠ったような
(ほそいめの、くれないのいと、とみるばかり、あかくせんをひいていたのである。)
繊[ほそ]い目の、紅の糸、と見るばかり、赤く線を引いていたのである。
(「なるほど、はあ、いかにも、」)
「成程、はあ、いかにも、」
(といったばかり、おうなのことばは、このけいにたいするものをして、)
と言ったばかり、嫗の言[ことば]は、この景に対するものをして、
(やくはんときのあいだ、みらいのあきをそうぞうせしむるにあまりあって、せんせいはてなるちゃわんを)
約半時の間、未来の秋を想像せしむるに余りあって、先生は手なる茶碗を
(したにもおかず、しばらくあしをみて、やがてそのほのひとのたけよりも)
下にも措[お]かず、しばらく蘆を見て、やがてその穂の人の丈よりも
(たかかるべきをおもい、しろあわのずぶずぶと、ぬれつちにつぶやくかにの、やがてさらさらと)
高かるべきを思い、白泡のずぶずぶと、濡土に呟く蟹の、やがてさらさらと
(ほによじて、はさみにつきをまねくやなど、ぼうぜんとして)
穂に攀[よ]じて、鋏[はさみ]に月を招くやなど、呆然として
(ながめたのであった。)
視[なが]めたのであった。
(あしのなかにみちがあって、さらさらとはずれのおと、よしずのそとへまたひとり、)
蘆の中に路があって、さらさらと葉ずれの音、葦簀[よしず]の外へまた一人、
(くろいきもののおうながでてきた。)
黒い衣[きもの]の嫗が出て来た。
(ちゃいろのおびをまえむすび、かたのはばひろく、みもややこえて、かみはまだくろかったが、)
茶色の帯を前結び、肩の幅広く、身もやや肥えて、髪はまだ黒かったが、
(うすさはすじをそろえたばかり。はえぎわがぬけあがってつむりのなかばから)
薄さは条[すじ]を揃えたばかり。生際が抜け上って頭[つむり]の半ばから
(ひっつめた、ぼんのくどにてちいさなおばこに、かいのかたちのこうがい)
引詰[ひッつ]めた、ぼんのくどにて小さなおばこに、櫂の形の笄[こうがい]
(さした、かたほやせて、かたほこふとく、)
さした、片頬[かたほ]痩せて、片頬肥[ふと]く、
(めもはなもくちもあごも、いびつけなりゆがんだが、かたもよこに、)
目も鼻も口も頤[あご]も、いびつ形[なり]に曲[ゆが]んだが、肩も横に、
(むねもよこに、こしぼねのあたりもよこに、だるそうにてをくんだ、これでつりあいを)
胸も横に、腰骨のあたりも横に、だるそうに手を組んだ、これで釣合いを
(とるのであろう。ただそのままではねからくずれて、うみのほうへ)
取るのであろう。ただそのままでは根から崩れて、海の方へ
(よこだおれにならねばならぬ。)
横倒れにならねばならぬ。
(かたとくびとで、うそうそと、ななめにこやをさしのぞいて、)
肩と首とで、うそうそと、斜めに小屋を差覗[さしのぞ]いて、
(「ござるかいの、おばあさん。」)
「ござるかいの、お婆さん。」
(とかたほゆうひにまぶしそう、ふくれたかたほはいろのわるさ、あおざめてあいのよう、)
と片頬夕日に眩しそう、ふくれた片頬は色の悪さ、蒼ざめて藍のよう、
(ぎんいろのどろりとしため、またたきをしながらよんだ。)
銀色のどろりとした目、瞬[またたき]をしながら呼んだ。
(だがしのはこをならべただいの、かげにはいってしゃがんでいた、)
駄菓子の箱を並べた台の、陰に入って踞[しゃが]んで居た、
(こなたのおうながかおをだして、)
此方[こなた]の嫗が顔を出して、
(「ぬしか。やれもやれも、おたっしゃでござるわや。」)
「主[ぬし]か。やれもやれも、お達者でござるわや。」
(と、ぬいとたつと、そのべにいとのめがうごく。)
と、ぬいと起[た]つと、その紅糸の目が動く。
(きたのがくちもあけず、のどでものをいうように、)
十 来たのが口もあけず、咽喉[のど]でものを云うように、
(かおもじっとかたむいたるまま、)
顔も静[じっ]と傾いたるまま、
(「ぬしもそくさいでめでたいぞの。」)
「主もそくさいでめでたいぞの。」
(「おてんきもようでござるわや。あつさにはあえぎ、さむさにはなやみ、のう、)
「お天気模様でござるわや。暑さには喘ぎ、寒さには悩み、のう、
(じこうよければかわずのように、くらしのへびにおわれるに、)
時候よければ蛙[かわず]のように、くらしの蛇に追われるに、
(このとしになるまでも、かんろのひよりときくけれども、)
この年になるまでも、甘露の日和と聞くけれども、
(あまいつゆはのまぬわよ、ほほほ、」)
甘い露は飲まぬわよ、ほほほ、」
(とうすわらいした、またはがくろい。)
と薄笑いした、また歯が黒い。
(「おいの、さればいの、おたがいにいさごのかずほどくるしみのたねはつきぬこといの。)
「おいの、さればいの、お互に沙の数ほど苦しみのたねは尽きぬ事いの。
(やれもやれも、」といいながら、ななめにたったひさごのした、なにをのぞくか)
やれもやれも、」と言いながら、斜めに立った廂[ひさご]の下、何を覗くか
(つまだつがごとくにして、しかもかたこしはつくりつけたもののよう、)
爪立[つまだ]つがごとくにして、しかも肩腰は造りつけたもののよう、
(うごかざることくちきのごとし。)
動かざること如朽木[くちきのごとし]。
(「わかいしゅのぐちよりとしよりのぐちじゃ、きくひともうるさかろ、)
「若い衆[しゅ]の愚痴より年よりの愚痴じゃ、聞く人も煩さかろ、
(おかっしゃれ、ほほほ。のう、おばあさん。ぬしはされどこへなにをこころざして)
措[お]かっしゃれ、ほほほ。のう、お婆さん。主はされどこへ何を志して
(でてござった、やまかいの、かわかいの。」)
出てござった、山かいの、川かいの。」
(「いんにゃの、おそろしゅうはがうずいて、きりきりのみでえぐるようじゃ、と)
「いんにゃの、恐しゅう歯がうずいて、きりきり鑿[のみ]で抉るようじゃ、と
(くるしむものがあるによって、わしがまじのうてしんじょうと、)
苦しむ者があるによって、私[わし]がまじのうて進じょうと、
(はまへえいのはりほりにでたらばよ、りょうしどものうわさを)
浜へ鱏[えい]の針掘りに出たらばよ、漁師共の風説[うわさ]を
(きかっしゃれ。こころざすひとがあって、このかわぞいのみつまたへ、)
聞かっしゃれ。志す人があって、この川ぞいの三股[みつまた]へ、
(いしじぞうがたつというわいの。」)
石地蔵が建つというわいの。」