【衒学シリーズ】超長文タイピング4

順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ごろごろ | 5846 | A+ | 6.2 | 93.8% | 296.4 | 1855 | 122 | 59 | 2025/06/01 |
2 | さはら | 5624 | A | 5.8 | 95.8% | 314.5 | 1849 | 80 | 59 | 2025/06/01 |
3 | ワカタケル大王 | 5215 | B+ | 5.5 | 94.5% | 334.6 | 1852 | 107 | 59 | 2025/06/03 |
4 | ん | 4901 | B | 5.2 | 94.3% | 350.5 | 1827 | 109 | 51 | 2025/06/03 |
5 | orange | 4816 | B | 5.2 | 92.0% | 360.4 | 1900 | 164 | 51 | 2025/06/04 |
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問題文
(わたしはきょう、まちかどのいしだたみにおいて、)
私は今日、街角の石畳において、
(なんらぶつりてきしょうがいのそんざいしないへいたんなるほどうにて、)
何ら物理的障害の存在しない平坦なる歩道にて、
(ふいにあしをとられ、つまずいた。)
不意に足をとられ、つまずいた。
(そこにだんさはなかった。)
そこに段差はなかった。
(けいしゃもなかった。)
傾斜もなかった。
(しかるに、わたしはつまずいたのである。)
しかるに、私はつまずいたのである。
(さらにふこうなことに、)
さらに不幸なことに、
(そのしゅんかんをみしらぬだれかにもくげきされ、)
その瞬間を見知らぬ誰かに目撃され、
(おもわずめをそらされるという、)
思わず目を逸らされるという、
(としてきかつとくめいてきしゅうちのきょくちにいたった。)
都市的かつ匿名的羞恥の極致に至った。
(このできごとはいっけんするとさまつにおもえるかもしれない。)
この出来事は一見すると瑣末に思えるかもしれない。
(しかし、わたしはこのぐうぜんにてつがくてきいぎを)
しかし、私はこの偶然に哲学的意義を
(みいださずにはいられない。)
見出さずにはいられない。
(なにもない「はず」のばしょでつまずくというじしょうには、)
何もない「はず」の場所でつまずくという事象には、
(われわれのしゅたいせいのげんかい、)
我々の主体性の限界、
(ちかくとじつぞんとのかいり、)
知覚と実存との乖離、
(そしてたしゃのまなざしのぼうりょくせい)
そして他者のまなざしの暴力性
(というみっつのもんだいけいがひそんでいる。)
という三つの問題系が潜んでいる。
(まずだいいちに、われわれはつねにせかいを)
まず第一に、我々は常に世界を
(「しっている」とおもいこんであるいている。)
「知っている」と思い込んで歩いている。
(しかくとけいけんのそうわが、)
視覚と経験の総和が、
(つぎのいっぽのよそくをかのうにしている。)
次の一歩の予測を可能にしている。
(しかし、まさにその「しっているはず」のじめんが、)
しかし、まさにその「知っているはず」の地面が、
(とつじょとして「しらなかった」にてんじたとき、)
突如として「知らなかった」に転じたとき、
(われわれのしんこうたいけいすなわち)
我々の信仰体系すなわち
(ごうりてきにんしきへのしんらいははたんする。)
合理的認識への信頼は破綻する。
(わたしはみずからのしんたいをしはいしているとおもっていた。)
私は自らの身体を支配していると思っていた。
(だが、あしもとのくうきょにより、)
だが、足元の空虚により、
(みずからのにくたいがよきせぬうんどうをかいししたとき、)
自らの肉体が予期せぬ運動を開始したとき、
(わたしのしゅたいせいはいちじてきにしっこうした。)
私の主体性は一時的に失効した。
(だいにに、このできごとはわれわれのそんざいが)
第二に、この出来事は我々の存在が
(ほんしつてきにふあんていであることをしさしている。)
本質的に不安定であることを示唆している。
(なにもないばしょでつまずくということは、)
何もない場所でつまずくということは、
(われわれがせかいに「あって」いきているというかんかく)
我々が世界に「合って」生きているという感覚
(はいでがーてきにいえば)
ハイデガー的に言えば
(「せかいないそんざい(いん・であ・ヴぇると・ざいん)」のあんていせいが、)
「世界内存在(In-der-Welt-Sein)」の安定性が、
(さっかくであるかのうせいをばくろする。)
錯覚である可能性を暴露する。
(せかいはつねにわれわれをうらぎりうる。)
世界は常に我々を裏切りうる。
(だいさんに、もんだいは「みられた」というじじつである。)
第三に、問題は「見られた」という事実である。
(たしゃのまなざしは、)
他者のまなざしは、
(しばしばじこのりんかくをうかびあがらせるかがみとなる。)
しばしば自己の輪郭を浮かび上がらせる鏡となる。
(わたしはみずからのしったいを、)
私は自らの失態を、
(じぶんじしんでさえもはあくしきれぬうちに、)
自分自身でさえも把握しきれぬうちに、
(すでに「たしゃのきおく」にくみこまれてしまった。)
すでに「他者の記憶」に組み込まれてしまった。
(たしゃのしせんは、)
他者の視線は、
(わたしの「はじ」のしゅんかんをえいえんにふうじこめるきかんであり、)
私の「恥」の瞬間を永遠に封じ込める器官であり、
(わたしはそのきろくばいたいのまえに、むりょくである。)
私はその記録媒体の前に、無力である。
(つまずきとはたんなるうんどうのしっぱいではない。)
つまずきとは単なる運動の失敗ではない。
(それは、じことせかい、たしゃとしゅたい、)
それは、自己と世界、他者と主体、
(ちつじょとぐうぜんのさけめにおいてしょうじる、)
秩序と偶然の裂け目において生じる、
(てつがくてきな「れっしょう」なのである。)
哲学的な「裂傷」なのである。