老ハイデルベルヒ 2
関連タイピング
問題文
ふりがな非表示
ふりがな表示
(さきちさんでもいなければ、わたしにはどうにもしまつがつかなかったのです。)
佐吉さんでもいなければ、私にはどうにも始末がつかなかったのです。
(きしゃちんやなにかで、あねからもらったごじゅうえんも、そろそろへっておりますし、)
汽車賃や何かで、姉から貰った五十円も、そろそろ減って居りますし、
(ゆうじんたちにはもちろんもちあわせのあるはずはなし、わたしがそれをしょうちで、)
友人達には勿論持合せのある筈は無し、わたしがそれを承知で、
(おでんやからそのままひっぱりだしてきたのだし、そうしてゆうじんたちは)
おでんやからそのまま引張り出して来たのだし、そうして友人達は
(わたしをじゅうぶんにしんようしているようすなのだから、いきおいわたしもじしんあるたいどを)
私を十分に信用している様子なのだから、いきおい私も自信ある態度を
(よそおわねばならず、なかなかくるしいたちばでした。むりにわらってわたしは、おおごえで)
装わねばならず、なかなか苦しい立場でした。無理に笑って私は、大声で
(いいました。)
言いました。
(「さきちさん、のんきだなあ。じかんをまちがえたんだよ。あるくよりほかはない。)
「佐吉さん、呑気だなあ。時間を間違えたんだよ。歩くよりほかは無い。
(このえきにはもとからばすもなにもないのだ。」としったかぶりしてかばんを)
この駅にはもとからバスも何も無いのだ。」と知ったかぶりして鞄を
(もちなおし、さっさとあるきだしたら、そのとき、やみのなかから、ぽっかり)
持直し、さっさと歩き出したら、其のとき、闇のなかから、ぽっかり
(きいろいへっどらいとがうかび、ゆらゆらこちらへおよいできます。)
黄色いヘッドライトが浮かび、ゆらゆらこちらへ泳いで来ます。
(「あ、ばすだ。いまは、ばすもあるのか。」とわたしはてれかくしにつぶやき、)
「あ、バスだ。今は、バスもあるのか。」と私はてれ隠しに呟き、
(「おい、ばすがきたようだ。あれにのろう!」といさんでゆうじんたちにごうれいし、)
「おい、バスが来たようだ。あれに乗ろう!」と勇んで友人達に号令し、
(みなみちばたによってならびたち、そくりょくのおそいばすをまっていました。やがて)
みな道端に寄って並び立ち、速力の遅いバスを待って居ました。やがて
(ばすはえきまえのひろばにとまり、ぞろぞろひとがおりて、とみるとさきちさんが)
バスは駅前の広場に止り、ぞろぞろ人が降りて、と見ると佐吉さんが
(ゆかたきてすましておりました。わたしは、うなるほどほっとしました。)
白浴衣着てすまして降りました。私は、唸るほどほっとしました。
(さきちさんがきたので、たすかりました。そのよるはさきちさんのあんないで、)
佐吉さんが来たので、助かりました。その夜は佐吉さんの案内で、
(みしまからはいやーでさんじゅっぷん、こなおんせんにいきました。さんにんのゆうじんと、)
三島からハイヤーで三十分、古奈温泉に行きました。三人の友人と、
(さきちさんと、わたしとごにん、こなでもいちばんいいほうのやどやにおちつき、いろいろ)
佐吉さんと、私と五人、古奈でも一番いい方の宿屋に落ちつき、いろいろ
(のんだり、たべたり、ゆうじんたちもおおいにまんぞくのようすで、あくるひとうきょうへ、)
飲んだり、食べたり、友人達も大いに満足の様子で、あくる日東京へ、
など
(ありがとう、ありがとう、ありがとうとほがらかにいってかえっていきました。やどやの)
有難う、有難う、有難うと朗らかに言って帰って行きました。宿屋の
(かんじょうもさきちさんのくちききでとくべつにやすくしてもらい、わたしのまずしいかいちゅうからでも)
勘定も佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い、私の貧しい懐中からでも
(じゅうぶんにしはらうことができましたけれど)
十分に支払うことが出来ましたけれど
(ゆうじんたちにかえりのきっぷをかってやったら、あとごじゅっせんものこりませんでした。)
友人達に帰りの切符を買ってやったら、あと五十銭も残りませんでした。
(「さきちさん。ぼく、びんぼうになってしまったよ。きみのみしまのいえにはぼくのねる)
「佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の寝る
(へやがあるかい。」)
部屋があるかい。」
(さきちさんはなにもいわず、わたしのせなかをどんとたたきました。そのままひとなつを、)
佐吉さんは何も言わず、私の背中をどんと叩きました。そのまま一夏を、
(わたしはみしまのさきちさんのいえでくらしました。みしまはとりのこしされた、うつくしいまち)
私は三島の佐吉さんの家で暮らしました。三島は取残された、美しい町
(であります。まちなかをすいりょうたっぷりのすんだおがわが、それこそくものすの)
であります。町中を水量たっぷりの澄んだ小川が、それこそ蜘蛛の巣の
(ようにじゅうおうむじんにのこるくまなくかけめぐり、せいれつのながれのそこにはみずもが)
ように縦横無尽に残る隈なく駈けめぐり、清冽の流れの底には水藻が
(あおあおとはえていて、いえいえのにわさきをながれ、みどりのしたをくぐり、だいどころのきしを)
青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、緑の下をくぐり、台所の岸を
(ちゃぷちゃぷあらいながれて、みしまのひとはだいどころにすわったままでせいけつなおせんたくが)
ちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯が
(できるのでした。むかしはとうかいどうでもゆうめいなしゅくばであったようですが、だんだん)
出来るのでした。昔は東海道でも有名な宿場であったようですが、だんだん
(さびれて、まちのふるいじゅうみんだけがいこじにでんとうをほこり、さびれてもはでなふうしゅうを)
寂れて、町の古い住民だけが依怙地に伝統を誇り、寂れても派手な風習を
(うしなわず、いわば、めつぼうのたみの、めいよあるらんだにふけっているありさまでありました。)
失わず、謂わば、滅亡の民の、名誉ある懶惰に耽っている有様でありました。
(じつにあそびにんがおおいのです。さきちさんのいえのうらに、ときどきせりいちがたちますが、)
実に遊び人が多いのです。佐吉さんの家の裏に、時々糶市が立ちますが、
(わたしもいちどみにいって、ついめをそむけてしまいました。なんでもかでも)
私もいちど見に行って、つい目をそむけてしまいました。何でも彼でも
(うっちゃうのです。のってきたじてんしゃを、そのままうりはらうのは、まだ)
売っちゃうのです。乗ってきた自転車を、其のまま売り払うのは、まだ
(よいほうで、おじいさんがふところからはあもにかをとりだして、ごせんにうった)
よい方で、おじいさんが懐からハアモニカを取り出して、五銭に売った
(などはきかいでありました。ふるいだるまのじくもの、ぎんめっきのとけいのくさり、えりあかの)
などは奇怪でありました。古い達磨の軸物、銀鍍金の時計の鎖、襟垢の
(ついたおんなのはんてん、がんぐのきしゃ、かや、ぺんきえ、ごいし、かんな、こどものうぶぎ)
着いた女の半纏、玩具の汽車、蚊帳、ペンキ絵、碁石、鉋、子どもの産着
(まで、じゅうななせんだ、にじゅうせんだといってわらいもせずにうりかいするのでした。)
まで、十七銭だ、二十戦だと言って笑いもせずに売り買いするのでした。
(あつまるものはたいていよんじゅうからごじゅう、ろくじゅうのそうとうねんぱいのおとこばかりで、いずれは)
集る者は大抵四十から五十、六十の相当年輩の男ばかりで、いずれは
(どうらくのはて、ごごうのにごりしゅがほしくて、とりすがるにょうぼうこどもをけとばしはりとばし、)
道楽の果、五合の濁酒が欲しくて、取縋る女房子供を蹴飛ばし張りとばし、
(いえじゅうのさいごのひとつまで、もちこんできたというかんじでありました。)
家中の最後の一つまで、持ち込んで来たという感じでありました。
(あるいはまた、まごのはあもにかを、じいにかせとだましてとりあげ、こっそりうらぐちから)
或いは又、孫のハアモニカを、爺に借せと騙して取上げ、こっそり裏口から
(ぬけだし、あたふたここへやってきたというようなかんじでありました。)
抜け出し、あたふた此処へやって来たというような感じでありました。
(じゅずをにせんにうりはらったろうやもありました。わけてもひどいのは、はんぶん)
数珠を二銭に売り払った老爺もありました。わけてもひどいのは、半分
(ほどきかけの、おんなのよごれたあわせをそのまままるめてふところへつっこんできたはげた)
ほどきかけの、女の汚れた袷をそのまま丸めて懐へつっこんで来た禿げた
(じょうひんなかおのごいんきょでした。ほとんどやぶれかぶれにそのぬのを、(もはやきものでは)
上品な顔のご隠居でした。殆んど破れかぶれに其の布を、(もはや着物では
