牛鍋 森鴎外

投稿者藤村 彩愛プレイ回数961お気に入り1
難易度(4.5) 4112打 長文タグ長文 小説 森鴎外 文豪 牛鍋
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 teram 4453 C+ 4.7 94.7% 871.6 4109 227 59 2021/08/24
2 Dr coca 4207 C 4.4 95.5% 928.1 4096 191 59 2021/09/07

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問題文

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(なべはぐつぐつにえる。)

鍋はぐつぐつ煮える。

(ぎゅうにくのくれないはおとこのすばしこいはしでかえされる。しろくなったほうがうえに)

牛肉の紅《くれない》は男のすばしこい箸で反される。白くなった方が上に

(なる。ななめにうすくきられた、ざくというなのねぎは、しろいところがだんだんに)

なる。斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱《ねぎ》は、白い処が段々に

(きいろくなって、かっしょくのしるのなかへしずむ。はしのすばしこいおとこは、さんじゅうぜんごであろう)

黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。箸のすばしこい男は、三十前後であろう

(はれぎらしいしるしばんてんをきている。そばにおりかばんが)

晴着らしい印半纏《しるしばんてん》を着ている。傍に折鞄《おりかばん》が

(おいてある。さけをのんではにくをかえす。にくをかえしてはさけをのむ。さけをそそいで)

置いてある。酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。酒を注いで

(やるおんながある。おとことどうねんくらいであろう。くろじゅすの)

遣《や》る女がある。男と同年位であろう。黒繻子《くろじゅす》の

(はんえりのかかった、しまのにしきいれに、よそゆきの)

半衿《はんえり》の掛かった、縞《しま》の錦入に、余所行《よそゆき》の

(まえかけをしている。おんなのめはたえずおとこのかおにそそがれている。えいえんにかっしている)

前掛をしている。女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇している

(ようなめである。めのかわきはくちのかわきをわすれさせる。おんなはさけをのまない)

ような目である。目の渇《かわき》は口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まない

(のである。はしのすばしこいおとこは、にさんどかえしたにくのひときれをくちにいれた。)

のである。箸のすばしこい男は、二三度反した肉の一切れを口に入れた。

(じょうぶなしろいはでうまそうにかんだ。えいえんにかっしているめはうごくあごに)

丈夫な白い歯で旨そうに噬《か》んだ。永遠に渇している目は動く顎《あご》に

(そそがれている。しかしこのあごにそそがれているのは、このふたつのめばかりでは)

注がれている。しかしこの顎に注がれているのは、この二つの目ばかりでは

(ない。めがいまふたつある。いまふたつのめのぬしはななつかやっつくらいのむすめである。むりに)

ない。目が今二つある。今二つの目の主は七つか八つ位の娘である。無理に

(あげたようなおたばこぼんに、ちいさいはなかんざしを)

上げたようなお煙草盆《たばこぼん》に、小さい花簪《はなかんざし》を

(さしている。しろいてぬぐいをたたんでひざのうえにおいて、わりばしをわって、)

挿している。白い手拭《てぬぐい》を畳んで膝の上に置いて、割箸を割って、

(てにもってまっているのである。おとこがにくをさんきれよつきれくったころに、むすめがはしをもった)

手に持って待っているのである。男が肉を三切四切食った頃に、娘が箸を持った

(てをのべて、ひときれのにくをはさもうとした。おとこにえんりょがないのではない。)

手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないのではない。

(そんならといっておとこをはばかるともみえない。)

そんならと云って男を憚《はばか》るとも見えない。

(「まちねえ。そりゃあまだにえていねえ。」)

「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」

など

(むすめはおとなしくはしをもったてをひっこめて、まっている。えいえんにかっしている)

娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて、待っている。永遠に渇している

(めには、むすめのはしのむなしくすすんでむなしくしりぞいたのをみるほどのよゆうがない。)

目には、娘の箸の空《むな》しく進んで空しく退いたのを見る程の余裕がない。

(しばらくすると、おとこのはしはひときれのにくをじぶんのくちにはこんだ。それはさっきむすめのはしの)

暫くすると、男の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。それはさっき娘の箸の

(はさもうとしたにくであった。むすめのめはまたおとこのかおにそそがれた。そのめのなかには)

挟もうとした肉であった。娘の目はまた男の顔に注がれた。その目の中には

(うらみもいかりもない。ただおどろかしがある。えいえんにかっしているめには、よんほんのはしのかなしい)

怨も怒もない。ただ驚がある。永遠に渇している目には、四本の箸の悲しい

(きょうそうをみるほどのよゆうがなかった。おんなはさいしょじぶんのはしをわって、はいせん)

競争を見る程の余裕がなかった。女は最初自分の箸を割って、盃洗《はいせん》

(のなかのちょくをはさんでおとこにやった。はしはそのままぜんのふちによせかけて)

の中の猪口《ちょく》を挟んで男に遣った。箸はそのまま膳の縁に寄せ掛けて

(ある。えいえんにかっしているめには、またこのはしをかえりみるほどのよゆうがない。)

ある。永遠に渇している目には、またこの箸を顧みる程の余裕がない。

(むすめはおどろきのめをいつまでおとこのかおにそそいでいても、たべろとはいってもらわれない。)

娘は驚きの目をいつまで男の顔に注いでいても、食べろとは云って貰われない。

(もういいころだとおもってはしをだすと、そのたびごとに「そりゃあにえていねえ」を)

もう好い頃だと思って箸を出すと、その度毎に「そりゃあ煮えていねえ」を

(くりかえされる。おどろかしのめにはおんもいかりもない。しかしたまごからでたばかりのひな)

繰り返される。驚の目には怨も怒もない。しかし卵から出たばかりの雛《ひな》

(にこくもつをついばませ、はらをはなれたばかりのあかんぼうをなんにでもすいつかせる)

に穀物を啄《ついば》ませ、胎を離れたばかりの赤ん坊を何にでも吸い附かせる

(せいかつのほんのうは、おどろかしのめのぬしにもうごく。むすめははしをなべからひかなくなった。)

生活の本能は、驚の目の主にも動く。娘は箸を鍋から引かなくなった。

(おとこのすばしこいはしがにくのひときれをくちにはこぶすきに、むすめのはしはとつぜんてぢかいにくの)

男のすばしこい箸が肉の一切れを口に運ぶ隙に、娘の箸は突然手近い肉の

(ひときれをはさんでくちにいれた。もうどのにくもよくにえているのである。)

一切れを挟んで口に入れた。もうどの肉も好く煮えているのである。

(すこしにえすぎているくらいである。おとこはするどくきれたふたかわめで、しんだともだちの)

少し煮え過ぎている位である。男は鋭く切れた二皮目で、死んだ友達の

(ひとりむすめのかおをちょいとみた。しかりはしないのである。ただこれからはおとこの)

一人娘の顔をちょいと見た。叱りはしないのである。ただこれからは男の

(すばしこいはしがいっそうすばしこくなる。かわりのなまをなべにはこぶ。はこんではかえす。)

すばしこい箸が一層すばしこくなる。代りの生を鍋に運ぶ。運んでは反す。

(かえしてはくう。しかしむすめもだまってはしをうごかす。おどろかしのめは、あるもくてきにむかって)

反しては食う。しかし娘も黙って箸を動かす。驚の目は、ある目的に向って

(うごくかつどうのめになって、それがしばらくもなべをはなれない。おおきなにくのきれは)

動く活動の目になって、それが暫らくも鍋を離れない。大きな肉の切れは

(えられないでも、ちいさいきれはえられる。よくにえたのはえられないでも、)

得られないでも、小さい切れは得られる。好く煮えたのは得られないでも、

(なまにえなのはえられる。にくはえられないでも、ねぎはえられる。あさくさこうえんに)

生煮えなのは得られる。肉は得られないでも、葱は得られる。浅草公園に

(なんとかいう、どうぶつをいろいろみせるところがある。なだかいひひのいたきんぺんに)

何とかいう、動物をいろいろ見せる処がある。名高い狒々《ひひ》のいた近辺に

(ははとことのさるをいっしょにいれてあるおりがあって、そのまえにはれいのわぎりにした)

母と子との猿を一しょに入れてある檻があって、その前には例の輪切にした

(さつまいもがおいてある。けんぶつがそのいもをさおのさきにつきさしておりの)

薩摩芋が置いてある。見物がその芋を竿の尖《さき》に突き刺して檻の

(こうしのまえにだすと、さるのははとことのあいだにかなしいそうだつがはじまる。いもがくれば、)

格子の前に出すと、猿の母と子との間に悲しい争奪が始まる。芋が来れば、

(ははのちぶさをふくんでいたこざるが、ちぶさをはなして、めずらしいいものほうを)

母の乳房を銜《ふく》んでいた子猿が、乳房を放して、珍しい芋の方を

(とろうする。ははざるもそのいもをとろうとする。こざるがははのわきをくぐり、)

取ろうする。母猿もその芋を取ろうとする。子猿が母の腋《わき》を潜り、

(またをくぐり、せにのり、あたまにのってとろうとしても、いもはたいていははざるのてにおちる。)

股を潜り、背に乗り、頭に乗って取ろうとしても、芋は大抵母猿の手に落ちる。

(それでもよっつにひとつ、いつつにひとつはこざるのくちにもはいる。ははざるはあらそいはする。)

それでも四つに一つ、五つに一つは子猿の口にも入る。母猿は争いはする。

(しかしいもがたまさかこざるのくちにはいってもこざるをいじめはしない。)

しかし芋がたまさか子猿の口に這入っても子猿を窘《いじ》めはしない。

(ほんのうはぞんがいしゅうあくでない。はしのすばしこいほんのうのひとはむすめのおやではない。)

本能は存外醜悪でない。箸のすばしこい本能の人は娘の親ではない。

(おやでないのに、たまさかはしのうんどうにむすめがせいこうしてもしかりはしない。)

親でないのに、たまさか箸の運動に娘が成功しても叱りはしない。

(ひとはさるよりもしんかしている。よんほんのはしは、すばしこくなっているおとこのてと、)

人は猿よりも進化している。四本の箸は、すばしこくなっている男の手と、

(すばしこくなろうとしているむすめのてとにしえきせられているのに、いまにほんのはしは)

すばしこくなろうとしている娘の手とに使役せられているのに、今二本の箸は

(とうとううごかずにしまった。えいえんにかっしているめは、いぜんとしておとこのかおに)

とうとう動かずにしまった。永遠に渇している目は、依然として男の顔に

(そそがれている。よににがみばしったというたちのおとこのかおにそそがれている。)

注がれている。世に苦味走ったという質《たち》の男の顔に注がれている。

(いちのほんのうはほかのほんのうをぎせいにする。こんなことはけものにもあろう。しかしけものよりは)

一の本能は他の本能を犠牲にする。こんな事は獣にもあろう。しかし獣よりは

(ひとにおおいようである。ひとはさるよりしんかしている。)

人に多いようである。人は猿より進化している。

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