太宰治 斜陽9
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問題文
(だって、ほそださまには、あのずっとまえから、おくさまもおこさまもあって、)
だって、細田さまには、あのずっと前から、奥さまもお子さまもあって、
(どんなにこちらがおしたいしたって、どうにもならぬことだし、・・・」)
どんなにこちらがお慕いしたって、どうにもならぬ事だし、・・・」
(「こいなかだなんて、ひどいことを。やまきさまのほうで、ただそうじゃすいなさっていた)
「恋仲だなんて、ひどい事を。山木さまのほうで、ただそう邪推なさっていた
(だけなのよ」「そうかしら。あなたは、まさか、あのほそださまを、まだおもい)
だけなのよ」「そうかしら。あなたは、まさか、あの細田さまを、まだ思い
(つづけているのじゃないでしょうね。いくところって、どこ?」)
つづけているのじゃないでしょうね。行くところって、どこ?」
(「ほそださまのところなんかじゃないわ」「そう?そんなら、どこ?」)
「細田さまのところなんかじゃないわ」「そう?そんなら、どこ?」
(「おかあさま、わたしね、こないだかんがえたことだけれども、にんげんがほかのどうぶつと、)
「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、
(まるっきりちがっているてんは、なんだろう、ことばもちえも、しこうも、しゃかいの)
まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も智慧《ちえ》も、思考も、社会の
(ちつじょも、それぞれていどのさはあっても、ほかのどうぶつだってみんなもっているでしょう?)
秩序も、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう?
(しんこうももっているかもしれないわ。にんげんは、ばんぶつのれいちょうだなんていばっている)
信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っている
(けど、ちっともほかのどうぶつとほんしつてきなちがいがないみたいでしょう?ところがね、)
けど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう?ところがね、
(おかあさま、たったひとつあったの。おわかりにならないでしょう。ほかのいきものには)
お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には
(ぜったいになくて、にんげんにだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。)
絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。
(いかが?」おかあさまは、ほんのりおかおをあかくなさって、うつくしくおわらいになり、)
いかが?」お母さまは、ほんのりお顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、
(「ああ、そのかずこのひめごとが、よいみをむすんでくれたらいいけどねえ。)
「ああ、そのかず子のひめごとが、よい実を結んでくれたらいいけどねえ。
(おかあさまは、まいあさ、おとうさまにかずこをこうふくにしてくださるようにおいのりして)
お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りして
(いるのですよ」わたしのむねにふうっと、おちちうえとなすのをどらいヴして、そうして)
いるのですよ」私の胸にふうっと、お父上と那須野をドライヴして、そうして
(とちゅうでおりて、そのときのあきのののけしきがうかんできた。はぎ、なでしこ、)
途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで来た。萩《はぎ》、なでしこ、
(りんどう、おみなえしなどのあきのくさばながさいていた。のぶどうのみは、)
りんどう、女郎花《おみなえし》などの秋の草花が咲いていた。野葡萄の実は、
(まだあおかった。それから、おちちうえとびわこでもーたーぼーとにのり、わたしがみずに)
まだ青かった。それから、お父上と琵琶湖でモーターボートに乗り、私が水に
(とびこみ、もにすむこざかながわたしのあしにあたり、みずうみのそこに、わたしのあしのかげがくっきりと)
飛び込み、藻に棲む小魚が私の脚にあたり、湖の底に、私の脚の影がくっきりと
(うつっていて、そうしてうごいている、そのさまがぜんごとなんのれんかんも)
写っていて、そうしてうごいている、そのさまが前後と何の聯関《れんかん》も
(なく、ふっとむねにうかんで、きえた。わたしはべっどからすべりおりて、おかあさまの)
無く、ふっと胸に浮んで、消えた。私はベッドから滑り降りて、お母さまの
(おひざにだきつき、はじめて「おかあさま、さっきはごめんなさい」ということが)
お膝に抱きつき、はじめて「お母さま、さっきはごめんなさい」と言う事が
(できた。おもうと、そのひあたりが、わたしたちのこうふくのさいごののこりびのひかりがかがやいた)
出来た。思うと、その日あたりが、私たちの幸福の最後の残り火の光が輝いた
(ころで、それから、なおじがなんぽうからかえってきて、わたしたちのほんとうのじごくがはじまった。)
頃で、それから、直治が南方から帰って来て、私たちの本当の地獄が始まった。
(どうしても、もう、とても、いきておられないようなこころぼそさ。これが、)
三 どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、
(あの、ふあん、とかいうかんじょうなのであろうか、むねにくるしいなみがうちよせ、)
あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しい浪《なみ》が打ち寄せ、
(それはちょうど、ゆうだちがすんだのちのそらを、あわただしくはくうんがつぎつぎと)
それはちょうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと
(はしってはしりすぎていくように、わたしのしんぞうをしめつけたり、ゆるめたり、わたしの)
走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の
(みゃくはけったいして、こきゅうがきはくになり、めのさきがもやもやとくらくなって)
脈は結滞して、呼吸が稀薄《きはく》になり、眼のさきがもやもやと暗くなって
(ぜんしんのちからが、てのゆびのさきからふっとぬけてしまうここちがして、あみものをつづけて)
全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけて
(ゆくことができなくなった。このごろはあめがいんきにふりつづいて、なにをするにも、)
ゆく事が出来なくなった。このごろは雨が陰気に降りつづいて、何をするにも、
(ものうくて、きょうはおざしきのえんがわにとういすをもちだし、ことしのはるにいちど)
もの憂くて、きょうはお座敷の縁側に籐椅子を持ち出し、ことしの春にいちど
(あみかけてそのままにしていたせえたを、またあみつづけてみるきになったので)
編みかけてそのままにしていたセエタを、また編みつづけてみる気になったので
(ある。あわいぼたんいろのぼやけたようなけいとで、わたしはそれに、こばるとぶるうの)
ある。淡い牡丹色のぼやけたような毛糸で、私はそれに、コバルトブルウの
(いとをたして、せえたにするつもりなのだ。そうして、このあわいぼたんいろのけいとは、)
糸を足して、セエタにするつもりなのだ。そうして、この淡い牡丹色の毛糸は、
(いまからもうにじゅうねんのまえ、わたしがまだしょとうかにかよっていたころ、おかあさまがこれで)
いまからもう二十年の前、私がまだ初等科にかよっていた頃、お母さまがこれで
(わたしのくびまきをあんでくださったけいとだった。そのくびまきのはしがずきんに)
私の頸巻《くびまき》を編んで下さった毛糸だった。その頸巻の端が頭巾に
(なっていて、わたしはそれをかぶってかがみをのぞいてみたら、こおにのようであった。)
なっていて、私はそれをかぶって鏡を覗いてみたら、小鬼のようであった。
(それに、いろが、ほかのがくゆうのくびまきのいろと、まるでちがっているので、わたしは、いやで)
それに、色が、他の学友の頸巻の色と、まるで違っているので、私は、いやで
(いやでしようがなかった。かんさいのたがくのうぜいのがくゆうが、「いいくびまきしてはるな」と、)
いやで仕様が無かった。関西の多額納税の学友が、「いい頸巻してはるな」と、
(おとなびたくちょうでほめてくださったが、わたしは、いよいよはずかしくなって、もう)
おとなびた口調でほめて下さったが、私は、いよいよ恥ずかしくなって、もう
(それからは、いちどもこのくびまきをしたことがなく、ながいことうちすててあったのだ。)
それからは、いちどもこの頸巻をした事が無く、永い事うち棄ててあったのだ。
(それを、ことしのはる、しぞうひんのふっかつとやらいういみで、ときほぐしてわたしの)
それを、ことしの春、死蔵品の復活とやらいう意味で、ときほぐして私の
(せえたにしようとおもってとりかかってみたのだが、どうも、このぼやけたような)
セエタにしようと思ってとりかかってみたのだが、どうも、このぼやけたような
(いろあいがきにいらず、またうちすて、きょうはあまりにしょざいないまま、ふと)
色合いが気に入らず、また打ちすて、きょうはあまりに所在ないまま、ふと
(とりだして、のろのろとあみつづけてみたのだ。けれども、あんでいるうちに、)
取り出して、のろのろと編みつづけてみたのだ。けれども、編んでいるうちに、
(わたしは、このあわいぼたんいろのけいとと、はいいろのあまぞらと、ひとつにとけあって、なんとも)
私は、この淡い牡丹色の毛糸と、灰色の雨空と、一つに溶け合って、なんとも
(いえないくらいやわらかくてまいるどなしきちょうをつくりだしていることにきがついた。)
言えないくらい柔かくてマイルドな色調を作り出している事に気がついた。
(わたしはしらなかったのだ。こすちうむは、そらのいろとのちょうわをかんがえなければならぬ)
私は知らなかったのだ。コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬ
(ものだというだいじなことをしらなかったのだ。ちょうわって、なんてうつくしくて)
ものだという大事なことを知らなかったのだ。調和って、なんて美しくて
(すばらしいことなんだろうと、いささかおどろき、ぼうぜんとしたかたちだった。はいいろのあまぞらと、)
素晴しい事なんだろうと、いささか驚き、呆然とした形だった。灰色の雨空と、
(あわいぼたんいろのけいとと、そのふたつをくみあわせるとりょうほうがどうじにいきいきしてくるから)
淡い牡丹色の毛糸と、その二つを組合せると両方が同時にいきいきして来るから
(ふしぎである。てにもっているけいとがきゅうにほっかりあたたかく、つめたいあまぞらも)
不思議である。手に持っている毛糸が急にほっかり暖かく、つめたい雨空も
(びろうどみたいにやわらかくかんぜられる。そうして、もねーのきりのなかのじいんのえを)
ビロウドみたいに柔かく感ぜられる。そうして、モネーの霧の中の寺院の絵を
(おもいださせる。わたしはこのけいとのいろによって、はじめて「ぐう」というものを)
思い出させる。私はこの毛糸の色に依って、はじめて「グウ」というものを
(しらされたようなきがした。よいこのみ。そうしておかあさまは、ふゆのゆきぞらに、)
知らされたような気がした。よいこのみ。そうしてお母さまは、冬の雪空に、
(このあわいぼたんいろが、どんなにうつくしくちょうわするかちゃんとしっていらして)
この淡い牡丹色が、どんなに美しく調和するかちゃんと識《し》っていらして
(わざわざえらんでくださったのに、わたしはばかでいやがって、けれども、それをこどもの)
わざわざ選んで下さったのに、私は馬鹿でいやがって、けれども、それを子供の
(わたしにきょうせいしようともなさらず、わたしのすきなようにさせておかれたおかあさま。)
私に強制しようともなさらず、私のすきなようにさせて置かれたお母さま。
(わたしがこのいろのうつくしさを、ほんとうにわかるまで、にじゅうねんかんも、このいろについてひとことも)
私がこの色の美しさを、本当にわかるまで、二十年間も、この色に就いて一言も
(せつめいなさらず、だまって、そしらぬふりをしてまっていらしたおかあさま。)
説明なさらず、黙って、そしらぬ振りをして待っていらしたお母さま。
(しみじみ、いいおかあさまだとおもうとどうじに、こんないいおかあさまも、わたしとなおじと)
しみじみ、いいお母さまだと思うと同時に、こんないいお母さまも、私と直治と
(ふたりでいじめて、こまらせよわらせ、いまにしなせてしまうのではなかろうかと、)
二人でいじめて、困らせ弱らせ、いまに死なせてしまうのではなかろうかと、
(ふうっとたまらないきょうふとしんぱいのくもがむねにわいて、あれこれおもいをめぐらせば)
ふうっとたまらない恐怖と心配の雲が胸に湧いて、あれこれ思いをめぐらせば
(めぐらすほど、ぜんとにとてもおそろしい、わるいことばかりよそうせられ、もう、)
めぐらすほど、前途にとてもおそろしい、悪い事ばかり予想せられ、もう、
(とても、いきておられないくらいにふあんになり、ゆびさきのちからもぬけて、あみぼうを)
とても、生きておられないくらいに不安になり、指先の力も抜けて、編棒を
(ひざにおき、おおきいためいきをついて、かおをあおむけめをつぶって、「おかあさま」と)
膝に置き、大きい溜息をついて、顔を仰向け眼をつぶって、「お母さま」と
(おもわずいった。おかあさまは、おざしきのすみのつくえによりかかって、ごほんをよんで)
思わず言った。お母さまは、お座敷の隅の机によりかかって、ご本を読んで
(いらしたのだが、「はい?」と、ふしんそうにへんじをなさった。わたしは、まごつき、)
いらしたのだが、「はい?」と、不審そうに返事をなさった。私は、まごつき、
(それから、ことさらにおおごえで、「とうとうばらがさきました。おかあさま、)
それから、ことさらに大声で、「とうとう薔薇が咲きました。お母さま、
(ごぞんじだった?わたしは、いまきがついた。とうとうさいたわ」おざしきのおえんがわの)
ご存じだった?私は、いま気がついた。とうとう咲いたわ」お座敷のお縁側の
(すぐまえのばら。それは、わだのおじさまが、むかし、ふらんすだかいぎりすだか)
すぐ前の薔薇。それは、和田の叔父さまが、むかし、フランスだかイギリスだか
(ちょっとわすれたけれど、とにかくとおいところからおもちかえりになったばらで、)
ちょっと忘れたけれど、とにかく遠いところからお持帰りになった薔薇で、
(に、さんかげつまえに、おじさまが、このさんそうのにわにうつしうえてくださったばらである。)
二、三箇月前に、叔父さまが、この山荘の庭に移し植えて下さった薔薇である。
(けさそれが、やっとひとつさいたのを、わたしはちゃんとしっていたのだけれども、)
けさそれが、やっと一つ咲いたのを、私はちゃんと知っていたのだけれども、
(てれかくしに、たったいまきづいたみたいにおおげさにさわいでみせたのである。)
てれ隠しに、たったいま気づいたみたいに大げさに騒いで見せたのである。
(はなは、こいむらさきいろで、りんとしたおごりとつよさがあった。)
花は、濃い紫色で、りんとした傲《おご》りと強さがあった。
(「しっていました」とおかあさまはしずかにおっしゃって、「あなたには、そんな)
「知っていました」とお母さまはしずかにおっしゃって、「あなたには、そんな
(ことが、とてもじゅうだいらしいのね」「そうかもしれないわ。かわいそう?」)
事が、とても重大らしいのね」「そうかも知れないわ。可哀そう?」
(「いいえ、あなたには、そういうところがあるっていっただけなの。おかっての)
「いいえ、あなたには、そういうところがあるって言っただけなの。お勝手の
(まっちばこにるなあるのえをはったり、おにんぎょうのはんかちいふをつくってみたり、)
マッチ箱にルナアルの絵を貼ったり、お人形のハンカチイフを作ってみたり、
(そういうことがすきなのね。それに、おにわのばらのことだって、あなたのいう)
そういう事が好きなのね。それに、お庭のバラのことだって、あなたの言う
(ことをきいていると、いきているひとのことをいっているみたい」「こどもがない)
ことを聞いていると、生きている人の事を言っているみたい」「子供が無い
(からよ」じぶんでもまったくおもいがけなかったことばが、くちからでた。いってしまって、)
からよ」自分でも全く思いがけなかった言葉が、口から出た。言ってしまって、
(はっとして、まのわるいおもいでひざのあみものをいじっていたら、ーーにじゅうくだから)
はっとして、まの悪い思いで膝の編物をいじっていたら、ーー二十九だから
(なあ。そうおっしゃるおとこのひとのこえが、でんわできくようなくすぐったいばすで、)
なあ。そうおっしゃる男の人の声が、電話で聞くようなくすぐったいバスで、
(はっきりきこえたようなきがして、わたしははずかしさで、ほおがやけるみたいに)
はっきり聞こえたような気がして、私は恥ずかしさで、頰が焼けるみたいに
(あつくなった。おかあさまは、なにもおっしゃらず、また、ごほんをおよみになる。)
熱くなった。お母さまは、何もおっしゃらず、また、ご本をお読みになる。
(おかあさまは、こないだからがーぜのますくをおかけになっていらして、)
お母さまは、こないだからガーゼのマスクをおかけになっていらして、
(そのせいか、このごろめっきりむくちになった。そのますくは、なおじのいいつけに)
そのせいか、このごろめっきり無口になった。そのマスクは、直治の言いつけに
(したがって、おかけになっているのである。なおじは、とおかほどまえに、なんぽうのしまから)
従って、おかけになっているのである。直治は、十日ほど前に、南方の島から
(あおぐろいかおになってかえってきたのだ。なんのまえぶれもなく、なつのゆうぐれ、うらのきどから)
蒼黒い顔になって還って来たのだ。何の前触れも無く、夏の夕暮、裏の木戸から
(はいってきて、「わあ、ひでえ。しゅみのわるいいえだ。らいらいけん。)
はいって来て、「わあ、ひでえ。趣味のわるい家だ。来々軒《らいらいけん》。
(しゅうまいあります、とはりふだしろよ」それがわたしとはじめてかおをあわせたときの、)
シュウマイあります、と貼りふだしろよ」それが私とはじめて顔を合せた時の、
(なおじのあいさつであった。そのに、さんにちまえからおかあさまは、したをやんでねて)
直治の挨拶であった。その二、三日前からお母さまは、舌を病んで寝て
(いらした。)
いらした。