太宰治　斜陽１２

(ないようなきじゅうのような、へんなはついんしょうをわたしはうけとった。「にょうぼうはいま、こどもと)

無いような奇獣のような、へんな初印象を私は受取った。「女房はいま、子供と

(いっしょに、はいきゅうぶつをとりに」すこしはなごえで、とぎれとぎれにそうおっしゃる。)

一緒に、配給物を取りに」すこし鼻声で、とぎれとぎれにそうおっしゃる。

(わたしを、おくさんのおともだちとでもおもいちがいしたらしかった。わたしが、なおじのあねだと)

私を、奥さんのお友達とでも思いちがいしたらしかった。私が、直治の姉だと

(いうことをもうしあげたら、うえはらさんは、ふん、とわらった。わたしは、なぜだか、)

言う事を申し上げたら、上原さんは、ふん、と笑った。私は、なぜだか、

(ひやりとした。「でましょうか」そういって、もうにじゅうまわしをひっかけ、)

ひやりとした。「出ましょうか」そう言って、もう二重廻しをひっかけ、

(げたばこからあたらしいげたをとりだしておはきになり、さっさとあぱーとのろうかを)

下駄箱から新しい下駄を取り出しておはきになり、さっさとアパートの廊下を

(さきにたってあるかれた。そとは、しょとうのゆうぐれ。かぜが、つめたかった。すみだがわから)

先に立って歩かれた。外は、初冬の夕暮。風が、つめたかった。隅田川から

(ふいてくるかわかぜのようなかんじであった。うえはらさんは、そのかわかぜにさからうように)

吹いて来る川風のような感じであった。上原さんは、その川風にさからうように

(すこしみぎかたをあげてつきじのほうにだまってあるいていかれる。わたしはこばしりにはしり)

すこし右肩をあげて築地のほうに黙って歩いて行かれる。私は小走りに走り

(ながら、そのあとをおった。とうきょうげきじょうのうらてのびるのちかしつにはいった。)

ながら、その後を追った。東京劇場の裏手のビルの地下室にはいった。

(し、ごくみのきゃくが、にじゅうじょうくらいのほそながいおへやで、それぞれたくをはさんで、)

四、五組の客が、二十畳くらいの細長いお部屋で、それぞれ卓をはさんで、

(ひっそりおさけをのんでいた。うえはらさんは、こっぷでおさけをおのみになった。)

ひっそりお酒を飲んでいた。上原さんは、コップでお酒をお飲みになった。

(そうして、わたしにもべつなこっぷをとりよせてくださって、おさけをすすめた。)

そうして、私にも別なコップを取り寄せて下さって、お酒をすすめた。

(わたしは、そのこっぷでにはいのんだけれども、なんともなかった。うえはらさんは、)

私は、そのコップで二杯飲んだけれども、なんともなかった。上原さんは、

(おさけをのみ、たばこをすい、そうしていつまでもだまっていた。わたしも、だまっていた。)

お酒を飲み、煙草を吸い、そうしていつまでも黙っていた。私も、黙っていた。

(わたしはこんなところへきたのは、うまれてはじめてのことであったけれども、とても)

私はこんなところへ来たのは、生れてはじめての事であったけれども、とても

(おちつき、きぶんがよかった。「おさけでものむといいんだけど」「え？」)

落ちつき、気分がよかった。「お酒でも飲むといいんだけど」「え？」

(「いいえ、おとうとさん。あるこーるのほうにてんかんするといいんですよ。ぼくもむかし、)

「いいえ、弟さん。アルコールのほうに転換するといいんですよ。僕も昔、

(まやくちゅうどくになったことがあってね、あれはひとがうすきみわるがってね、)

麻薬中毒になった事があってね、あれは人が薄気味わるがってね、

(あるこーるだっておなじようなものなんだが、あるこーるのほうは、ひとはあんがい)

アルコールだって同じ様なものなんだが、アルコールのほうは、人は案外

(ゆるすんだ。おとうとさんを、さけのみにしちゃいましょう。いいでしょう？」)

ゆるすんだ。弟さんを、酒飲みにしちゃいましょう。いいでしょう？」

(「わたし、いちど、おさけのみをみたことがありますわ。しんねんに、わたしがでかけようと)

「私、いちど、お酒飲みを見た事がありますわ。新年に、私が出掛けようと

(したとき、うちのうんてんしゅのしりあいのものが、じどうしゃのじょしゅせきで、おにのようなまっかな)

した時、うちの運転手の知合いの者が、自動車の助手席で、鬼のような真赤な

(かおをして、ぐうぐうおおいびきでねむっていましたの。わたしがおどろいてさけんだら、)

顔をして、ぐうぐう大いびきで眠っていましたの。私がおどろいて叫んだら、

(うんてんしゅが、これはおさけのみで、しようがないんです、といって、じどうしゃから)

運転手が、これはお酒飲みで、仕様が無いんです、と言って、自動車から

(おろしてかたにかついでどこかへつれていきましたの。ほねがないみたいに)

おろして肩にかついでどこかへ連れて行きましたの。骨が無いみたいに

(ぐったりして、なんだかそれでも、ぶつぶついっていて、わたしあのとき、はじめて)

ぐったりして、何だかそれでも、ぶつぶつ言っていて、私あの時、はじめて

(おさけのみってものをみたのですけど、おもしろかったわ」「ぼくだって、さけのみです」)

お酒飲みってものを見たのですけど、面白かったわ」「僕だって、酒飲みです」

(「あら、だって、ちがうんでしょう？」「あなただって、さけのみです」)

「あら、だって、違うんでしょう？」「あなただって、酒飲みです」

(「そんなことは、ありませんわ。わたしは、おさけのみをみたことがあるんですもの。)

「そんな事は、ありませんわ。私は、お酒飲みを見た事があるんですもの。

(まるで、ちがいますわ」うえはらさんは、はじめてたのしそうにおわらいになって、)

まるで、違いますわ」上原さんは、はじめて楽しそうにお笑いになって、

(「それでは、おとうとさんも、さけのみにはなれないかもしれませんが、とにかく、)

「それでは、弟さんも、酒飲みにはなれないかも知れませんが、とにかく、

(さけをのむひとになったほうがいい。かえりましょう。おそくなると、)

酒を飲む人になったほうがいい。帰りましょう。おそくなると、

(こまるんでしょう？」「いいえ、かまわないんですの」「いや、じつは、こっちが)

困るんでしょう？」「いいえ、かまわないんですの」「いや、実は、こっちが

(きゅうくつでいけねえんだ。ねえさん！かいけい！」「うんとたかいのでしょうか。すこしなら)

窮屈でいけねえんだ。ねえさん！会計！」「うんと高いのでしょうか。少しなら

(わたし、もっているんですけど」「そう。そんなら、かいけいは、あなただ」)

私、持っているんですけど」「そう。そんなら、会計は、あなただ」

(「たりないかもしれませんわ」わたしは、ばっぐのなかをみて、おかねがいくらあるかを)

「足りないかも知れませんわ」私は、バッグの中を見て、お金がいくらあるかを

(うえはらさんにおしえた。「それだけあれば、もうに、さんけんのめる。ばかにして)

上原さんに教えた。「それだけあれば、もう二、三軒飲める。馬鹿にして

(やがる」うえはらさんはかおをしかめておっしゃって、それからわらった。)

やがる」上原さんは顔をしかめておっしゃって、それから笑った。

(「どこかへ、また、のみにおいでになりますか？」と、おたずねしたら、)

「どこかへ、また、飲みにおいでになりますか？」と、おたずねしたら、

(まじめにくびをふって、「いや、もうたくさん。たきしーをひろってあげますから、)

まじめに首を振って、「いや、もうたくさん。タキシーを拾ってあげますから、

(おかえりなさい」わたしたちは、ちかしつのくらいかいだんをのぼっていった。いっぽさきに)

お帰りなさい」私たちは、地下室の暗い階段をのぼって行った。一歩さきに

(のぼっていくうえはらさんが、かいだんのなかごろで、くるりとこちらむきになり、すばやく)

のぼって行く上原さんが、階段の中頃で、くるりとこちら向きになり、素早く

(わたしにきすをした。わたしはくちびるをかたくとじたまま、それをうけた。べつになにも、)

私にキスをした。私は唇を固く閉じたまま、それを受けた。べつに何も、

(うえはらさんをすきでなかったのに、それでも、そのときからわたしに、あの)

上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの

(「ひめごと」ができてしまったのだ。かたかたかたと、うえはらさんははしってかいだんを)

「ひめごと」が出来てしまったのだ。かたかたかたと、上原さんは走って階段を

(あがっていって、わたしはふしぎなとうめいなきぶんで、ゆっくりあがって、そとへでたら、)

上って行って、私は不思議な透明な気分で、ゆっくり上って、外へ出たら、

(かわかぜがほおにとてもきもちよかった。うえはらさんに、たきしーをひろっていただいて、)

川風が頰にとても気持よかった。上原さんに、タキシーを拾っていただいて、

(わたしたちはだまってわかれた。くるまにゆれながら、わたしはせけんがきゅうにうみのようにひろく)

私たちは黙ってわかれた。車にゆれながら、私は世間が急に海のようにひろく

(なったようなきもちがした。「わたしには、こいびとがあるの」あるひ、わたしは、おっとから)

なったような気持がした。「私には、恋人があるの」或る日、私は、夫から

(おこごとをいただいてさびしくなって、ふっとそういった。「しっています。)

おこごとをいただいて淋しくなって、ふっとそう言った。「知っています。

(ほそだでしょう？どうしても、おもいきることができないのですか？」わたしは)

細田でしょう？どうしても、思い切る事が出来ないのですか？」私は

(だまっていた。そのもんだいが、なにかきまずいことのおこるたびごとに、わたしたちふうふのあいだに)

黙っていた。その問題が、何か気まずい事の起る度毎に、私たち夫婦の間に

(もちだされるようになった。もうこれは、だめなんだ、とわたしはおもった。どれすの)

持ち出されるようになった。もうこれは、だめなんだ、と私は思った。ドレスの

(きじをまちがってさいだんしたときみたいに、もうそのきじはぬいあわせることもできず、)

生地を間違って裁断した時みたいに、もうその生地は縫い合せる事も出来ず、

(ぜんぶすてて、またべつのあたらしいきじのさいだんにとりかからなければならぬ。)

全部捨てて、また別の新しい生地の裁断にとりかからなければならぬ。

(「まさか、その、おなかのこは」とあるよる、おっとにいわれたときには、わたしはあまり)

「まさか、その、おなかの子は」と或る夜、夫に言われた時には、私はあまり

(おそろしくて、がたがたふるえた。いまおもうと、わたしもおっとも、わかかったのだ。)

おそろしくて、がたがた震えた。いま思うと、私も夫も、若かったのだ。

(わたしは、こいもしらなかった。あい、さえ、わからなかった。わたしは、ほそださまの)

私は、恋も知らなかった。愛、さえ、わからなかった。私は、細田さまの

(おかきになるえにむちゅうになって、あんなおかたのおくさまになったら、どんなに、)

おかきになる絵に夢中になって、あんなお方の奥さまになったら、どんなに、

(まあ、うつくしいにちじょうせいかつをいとなむことができるでしょう、あんなよいしゅみのおかたと)

まあ、美しい日常生活を営むことが出来るでしょう、あんなよい趣味のお方と

(けっこんするのでなければ、けっこんなんてむいみだわ、とわたしはだれにでもいいふらして)

結婚するのでなければ、結婚なんて無意味だわ、と私は誰にでも言いふらして

(いたので、そのために、みんなにごかいされて、それでもわたしは、こいもあいもわからず)

いたので、そのために、みんなに誤解されて、それでも私は、恋も愛もわからず

(へいきでほそださまをすきだということをこうげんし、とりけそうともしなかったので、)

平気で細田さまを好きだという事を公言し、取消そうともしなかったので、

(へんにもつれて、そのころ、わたしのおなかでねむっていたちいさいあかちゃんまで、おっとの)

へんにもつれて、その頃、私のおなかで眠っていた小さい赤ちゃんまで、夫の

(ぎわくのまとになったりして、だれひとりりこんなどあらわにいいだしたおかたも)

疑惑の的になったりして、誰ひとり離婚などあらわに言い出したお方も

(いなかったのに、いつのまにやらしゅういがしらじらしくなっていって、わたしはつきそいの)

いなかったのに、いつのまにやら周囲が白々しくなっていって、私は附き添いの

(おせきさんといっしょにさとのおかあさまのところにかえって、それから、あかちゃんがしんで)

お関さんと一緒に里のお母さまのところに帰って、それから、赤ちゃんが死んで

(うまれて、わたしはびょうきになってねこんで、もう、やまきとのあいだは、それっきりになって)

生れて、私は病気になって寝込んで、もう、山木との間は、それっきりになって

(しまったのだ。なおじは、わたしがりこんになったということに、なにかせきにんみたいなものを)

しまったのだ。直治は、私が離婚になったという事に、何か責任みたいなものを

(かんじたのか、ぼくはしぬよ、といって、わあわあこえをあげて、かおがくさってしまう)

感じたのか、僕は死ぬよ、と言って、わあわあ声を挙げて、顔が腐ってしまう

(くらいにないた。わたしはおとうとに、くすりやのかりがいくらになっているのかたずねて)

くらいに泣いた。私は弟に、薬屋の借りがいくらになっているのかたずねて

(みたら、それはおそろしいほどのきんがくであった。しかも、それはおとうとがじっさいの)

みたら、それはおそろしいほどの金額であった。しかも、それは弟が実際の

(きんがくをいえなくて、うそをついていたのがあとでわかった。あとではんめいしたじっさいの)

金額を言えなくて、嘘をついていたのがあとでわかった。あとで判明した実際の

(そうがくは、そのときにおとうとがわたしにおしえたきんがくのやくさんばいちかくあったのである。)

総額は、その時に弟が私に教えた金額の約三倍ちかくあったのである。

(「わたし、うえはらさんにあったわ。いいおかたね。これから、うえはらさんといっしょにおさけを)

「私、上原さんに逢ったわ。いいお方ね。これから、上原さんと一緒にお酒を

(のんであそんだらどう？おさけって、とてもやすいものじゃないの。おさけのおかねくらい)

飲んで遊んだらどう？お酒って、とても安いものじゃないの。お酒のお金くらい

(だったら、わたしいつでもあなたにあげるわ。くすりやのはらいのことも、しんぱいしないで。)

だったら、私いつでもあなたにあげるわ。薬屋の払いの事も、心配しないで。

(どうにか、なるわよ」)

どうにか、なるわよ」