巨人の研究 -10-

(「べつに、なにも」)

「別に、なにも」

(いつもはじゃーじとかじーんずとか、きのぬけきったかっこうを)

いつもはジャージとかジーンズとか、気の抜け切った格好を

(していることがおおく、けしょうをまったくしないどころかねぐせすら)

していることが多く、化粧をまったくしないどころか寝癖すら

(なおさないようなししょうだが、きょうはこんいろのびじねすすーつをすっかりときこなし、)

直さないような師匠だが、今日は紺色のビジネススーツをすっかりと着こなし、

(けしょうもしぜんなかんじでじょうひんにまとめている。まるでべつじんだ。)

化粧も自然な感じで上品にまとめている。まるで別人だ。

(そんなひとがじてんしゃでふたりのりを、それもこうりんにたちのりをしているのだ。)

そんな人が自転車で二人乗りを、それも後輪に立ち乗りをしているのだ。

(めだつにきまっている。)

目立つに決まっている。

(そんなぼくのかんがえにまったくおもいいたらないようすで、)

そんな僕の考えに全く思い至らない様子で、

(ししょうはしばらくしゅういをけいかいしつづけていた。)

師匠はしばらく周囲を警戒し続けていた。

(たかやそうごうりさーちというはでなかんばんのあるびるのまえにとうちゃくしたときも、)

タカヤ総合リサーチという派手な看板のあるビルの前に到着した時も、

(やはりとおりすがりのひとにじろじろとみられ、ししょうはくびをかしげる。)

やはり通りすがりの人にジロジロと見られ、師匠は首を傾げる。

(「まあいいや、かりるもんかりてさっさといこう」)

「まあいいや、借りるもん借りてさっさと行こう」

(くわしくはきいていないが、なにかをかりにきたらしい。このおおきなこうしんじょは、)

詳しくは聞いていないが、何かを借りに来たらしい。この大きな興信所は、

(ぼくらがばいとをしているおがわちょうさじむしょのしょちょうであるおがわさんが)

僕らがバイトをしている小川調査事務所の所長である小川さんが

(むかししょぞくしていたことがあり、そのえんでいまでもしごとをまわしてもらったりしていて、)

昔所属していたことがあり、その縁で今でも仕事を回してもらったりしていて、

(いろいろとつきあいのあるかいしゃだ。)

色々と付き合いのある会社だ。

(なかにはいると、くうちょうのきいたひろいふろあにですくがたくさんならんでいる。)

中に入ると、空調の効いた広いフロアにデスクが沢山並んでいる。

(そのほとんどがむじんだった。はったりで、いもしないしょいんのぶんの)

そのほとんどが無人だった。ハッタリで、いもしない所員の分の

(ですくをおいてあるおがわちょうさじむしょとちがい、あきらかにはんじょうしているがゆえの)

デスクを置いてある小川調査事務所と違い、明らかに繁盛しているがゆえの

(にっちゅうのしょいんのふざいだった。)

日中の所員の不在だった。

(それもそうだろう。こうしんじょのしょくいんがですくにすわったままできるしごとなど)

それもそうだろう。興信所の職員がデスクに座ったまま出来る仕事など

(おおくはあるまい。)

多くはあるまい。

(「あら、またきたの」)

「あら、また来たの」

(うけつけのところにいた、はでなあかいふくのおばさんがたちあがってやってくる。)

受付の所にいた、派手な赤い服のおばさんが立ち上がってやって来る。

(ここのじむいんのいちかわさんだ。)

ここの事務員の市川さんだ。

(いくつかのこうしんじょをわたりあるいたこのみちさんじゅうねんいじょうのべてらんで、)

いくつかの興信所を渡り歩いたこの道三十年以上のベテランで、

(このぎょうかいのさまざまなひかりとかげをしりつくしたというそのそんざいは、)

この業界の様々な光と影を知り尽くしたというその存在は、

(しょいんからするとたのもしいのとどうじにいふのたいしょうともなっていた。)

所員からすると頼もしいのと同時に畏怖の対象ともなっていた。

(らしい。)

らしい。

(じぶんにはただせわずきなおばさんにしかみえない。それはししょうがやけに)

自分にはただ世話好きなおばさんにしか見えない。それは師匠がやけに

(このいちかわさんにきにいられて、かわいがられているせいかもしれなかった。)

この市川さんに気に入られて、可愛がられているせいかも知れなかった。

(「すいませんけど、またあのせっとかしてください」)

「すいませんけど、またあのセット貸して下さい」

(「いいわよ。このあいだかえしてもらったときのまま、まだかたづけてなかったから」)

「いいわよ。このあいだ返してもらった時のまま、まだ片付けてなかったから」

(そういっていちかわさんはちいさなだんぼーるをもってきた。)

そう言って市川さんは小さな段ボールを持って来た。

(それをうけとりながらししょうは「しょちょうは？」ときく。)

それを受け取りながら師匠は「所長は？」と訊く。

(「らいきゃくちゅう。けっこうながくなってるみたい」)

「来客中。結構長くなってるみたい」

(「そうですか。あいかわらずおいそがしいみたいすね。)

「そうですか。相変わらずお忙しいみたいスね。

(こないだのおれいもまだだけど、よろしくおつたえください」)

こないだのお礼もまだだけど、よろしくお伝え下さい」

(「いいのいいの、どうせこんなのつかうことめったにないし」)

「いいのいいの、どうせこんなの使うことめったにないし」

(まるでじぶんのけいえいするじむしょのようにふるまっている。)

まるで自分の経営する事務所のように振る舞っている。

(いちかわさんにあいさつをしてからそのばをじきょし、)

市川さんに挨拶をしてからその場を辞去し、

(そとでじてんしゃのぜんかごにだんぼーるばこをくくりつける。)

外で自転車の前カゴに段ボール箱を括りつける。