新妻の手記06

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タグ小説
作:豊島与志雄

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問題文

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(おもいがけないことがおこって、わたしは、いわばしんえんをのぞいた。) 思いがけないことが起こって、私は、謂わば深淵を除いた。 (あるひのごご、こまごめのおじさまがいらして、ははとなにかはなしこんでいかれた。) 或る日の午後、駒込の伯父さまがいらして、母と何か話しこんでいかれた。 (おなじよしかわせいで、なくなったちちのあににあたるひとである。) 同じ吉川姓で、亡くなった父の兄に当る人である。 (わたしはだいたい、じっかのほうのえんこのひとがきたときは、そのときにへいきですわりこむが、) 私は大体、実家の方の縁故の人が来た時は、その時に平気で坐りこむが、 (こちらのえんこのひとがきたときは、えんりょしてなるべくせきをさけることにしていた。) こちらの縁故の人が来た時は、遠慮してなるべく席を避けることにしていた。 (それに、おじさまとははとのそのひのたいだんにはなにかないしょごとがあるらしいかんじで、) それに、伯父さまと母とのその日の対談にはなにか内緒事があるらしい感じで、 (わたしがおちゃをいれかえにいったり、くだものをむいてもっていったりするたびに、) 私がお茶をいれかえに行ったり、果物をむいて持って行ったりする度に、 (おじさまはまるでとってつけたように、わたしにむかって、) 伯父さまはまるで取ってつけたように、私に向って、 (もうすっかりかじになれたようですねとか、いいおよめさんになっておかあさんも) もうすっかり家事になれたようですねとか、いいお嫁さんになってお母さんも (あんしんですよとか、おせじめいたことをいわれるので、わたしはそこにいづらかった。) 安心ですよとか、お世辞めいたことを言われるので、私はそこに居づらかった。
(そしてそのばん、はははわたしにはだじゅばんのぬいものをいいつけておいて、よしかわのむろで、) そしてその晩、母は私に肌襦袢の縫い物をいいつけておいて、吉川の室で、 (ながいかんわしこんでいた。なにかだいじなようけんらしくわたしにもおもえた。) 長い間話し込んでいた。なにか大事な用件らしく私にも思えた。 (ところが、そのあとで、ははがねてしまってから、よしかわからきくと、) ところが、そのあとで、母が寝てしまってから、吉川から聞くと、 (ことがらはつまらないが、ちとたえなはなしだった。) 事柄はつまらないが、ちと妙な話だった。 (こまごめのおじさまは、せんさいのやけあとに、ごしつばかりのしょうしゃないえを) 駒込の伯父さまは、戦災の焼け跡に、五室ばかりの瀟洒な家を (しんちくしてすんでいる。おばさまはせんねんなくなり、) 新築して住んでいる。伯母さまは先年亡くなり、 (おじさまはもとないむしょうのかんりあがりで、いまはどこにもつとめず、ぶらぶらあそんでいる。) 伯父さまは元内務省の官吏上りで、今はどこにも努めず、ぶらぶら遊んでいる。 (ちょうなんのたいじさんふさいとよんさいになるまごむすめがいっしょにくらしており、) 長男の泰治さん夫妻と四歳になる孫娘が一緒に暮らしており、 (たいじさんはのうりんしょうのやくにんである。) 泰治さんは農林省の役人である。 (ところで、たいじさんのおくさんがにんしんしていて、) ところで、泰治さんの奥さんが妊娠していて、
など
(おさんはあとはんつきばかりあとのよていだそうだが、そのときにはちかくのさんかびょういんに) お産はあと半月ばかり後の予定だそうだが、その時には近くの産科病院に (はいることになっている。さて、もんだいはそのにゅういんちゅうのことだ。) はいることになっている。さて、問題はその入院中のことだ。 (じょちゅうがひとりいるけれど、まだじゅうろくさいのいなかでのこむすめで、たいしてやくにたたず、) 女中が一人いるけれど、まだ十六歳の田舎出の小娘で、大して役に立たず、 (いえのなかのことからびょういんへのめんどうはみかねるし、) 家の中のことから病院への面倒はみかねるし、 (よっつのむすめのせわだけでていっぱいである。かせいふをやとおうにも、) 四つの娘の世話だけで手一杯である。家政婦を雇おうにも、 (よいひとがらのものはなかなかみつからないようだし、おじさまがだいたい) よい人柄の者はなかなか見つからないようだし、伯父さまがだいたい (かせいふというのをきらいらしい。) 家政婦というのを嫌いらしい。 (そこで、おくさんのにゅういんちゅうだけでけっこうだから、こちらのははにきてもらえまいか、) そこで、奥さんの入院中だけで結構だから、こちらの母に来て貰えまいか、 (ただいえのなかにすわってさしずだけしてくれればよい、とのたのみだった。) ただ家の中に坐って指図だけしてくれればよい、との頼みだった。 (よくかんがえてみて、いえのものともそうだんしてみよう、) よく考えてみて、家の者とも相談してみよう、 (そうはははこたえたはずであるが、じつはこまごめのいえにいくのがいやなのである。) そう母は答えたはずであるが、実は駒込の家に行くのが嫌なのである。 (そしてわたしがかわりにいってくれまいかとのいこうであり、) そして私が代りに行ってくれまいかとの意向であり、 (まずよしかわにそうだんしてみたのだった。 わたしはすこしおどろいた。) 先ず吉川に相談してみたのだった。 私は少し驚いた。 (まあにしゅうかんかさんしゅうかん、ながくていっかげつ、じょちゅうのつもりでいってもかまわないが、) まあ二週間か三週間、長くて一ヶ月、女中のつもりで行っても構わないが、 (あちらのひとたちとはまったくなじみはないし、たぶんなにのやくにもたつまい。) あちらの人たちとは全く馴染みはないし、多分何の役にも立つまい。 (ははなら、ばんじさきのことをこころえてるし、もともとおじさまからも) 母なら、万事先のことを心得てるし、もともと伯父さまからも (ははへのたのみなのである。 よしかわもすこしとうわくしているふうだった。) 母への頼みなのである。 吉川も少し当惑している風だった。 (「どうしておかあさまはおいやなんでしょう。」 とわたしはたずねてみた。) 「どうしてお母さまはお嫌なんでしょう。」 と私は尋ねてみた。 (「なにかきまずいことでもおありになるのかしら。」) 「なにか気まずいことでもおありになるのかしら。」 (「そんなことはないはずだ。いつもゆききしてるんだからね。」) 「そんなことはない筈だ。いつも往き来してるんだからね。」 (「おいそがしいのがおいやなはずもありませんわね。) 「お忙しいのがお嫌な筈もありませんわね。 (はたらくことがすきだといってらしたんですもの。」) 働くことが好きだと言ってらしたんですもの。」 (「むしろ、なにもしないでじっとしてるのがいやなほうだよ。」) 「むしろ、何もしないでじっとしてるのが嫌な方だよ。」 (「あたしによそのいえをけんがくさせるおつもりでもないでしょう。」) 「あたしによその家を見学させるおつもりでもないでしょう。」 (「そんなことはないだろう。」 「よそのいえにとまるのがおいやなのかしら。」) 「そんなことはないだろう。」 「よその家に泊るのがお嫌なのかしら。」 (「ぼくもそうかとおもって、きいてみたら、こまごめのうちにはにどばかり) 「僕もそうかと思って、聞いてみたら、駒込の内には二度ばかり (とまったことがあるじゃないかと、ぎゃくしゅうされちゃったよ。」) 泊ったことがあるじゃないかと、逆襲されちゃったよ。」 (「あたしにはわからないわ。」 「ぼくにもよくわからない。だが、) 「あたしには分からないわ。」 「僕にもよく分からない。だが、 (ながくいえをあけるのがいやなのかもしれない。いちにちかふつかならいいけれどねえと、) 長く家を空けるのが嫌なのかもしれない。一日か二日ならいいけれどねえと、 (おかあさんはいったよ。」 とにかく、ははのきもちをせんさくしたって) お母さんは言ったよ。」 とにかく、母の気持ちを穿鑿したって (どうにもならないことだった。そしてけっきょく、わたしがかわりにいくことを) どうにもならないことだった。そして結局、私が代りに行くことを (しょうだくするよりほかはなかった。) 承諾するより外はなかった。 (しかしおじさまのほうへは、そのむねをうちあわせておかなければいけなかった。) 然し伯父さまの方へは、その旨を打ち合わせておかなければいけなかった。
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