有島武郎 或る女68
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問題文
(「いつ?」「こんげつのはじめごろでしたかしらん。だもんですからみなさんがたの)
「いつ?」「今月の始めごろでしたかしらん。だもんですから皆さん方の
(あいだではたいへんなひょうばんらしいんですの。こんどもじゅくをでてらいねんからあねのところから)
間ではたいへんな評判らしいんですの。今度も塾を出て来年から姉の所から
(かよいますとたじませんせいにもうしあげたら、せんせいもいえのしんるいたちにてがみやなんかで)
通いますと田島先生に申し上げたら、先生も家の親類たちに手紙やなんかで
(だいぶおききあわせになったようですのよ。そしてきょうわたしたちをじぶんの)
だいぶお聞き合わせになったようですのよ。そしてきょうわたしたちを自分の
(おへやにおよびになって「わたしはおまえさんがたをじゅくからだしたくはない)
お部屋にお呼びになって『わたしはお前さん方を塾から出したくはない
(けれども、じゅくにいつづけるきはないか」とおっしゃるのよ。でもわたしたちは)
けれども、塾に居続ける気はないか』とおっしゃるのよ。でもわたしたちは
(なんだかじゅくにいるのがかたみが・・・どうしてもいやになったもんですから、)
なんだか塾にいるのが肩身が・・・どうしてもいやになったもんですから、
(むりにおねがいしてかえってきてしまいましたの」あいこはふだんのむくちににず)
無理にお願いして帰って来てしまいましたの」愛子はふだんの無口に似ず
(こういうことをはなすときにはちゃんとすじめがたっていた。ようこにはあいこのしずんだ)
こういう事を話す時にはちゃんと筋目が立っていた。葉子には愛子の沈んだ
(ようなたいどがすっかりよめた。ようこのふんぬはみるみるそのけっそうをかえさせた。)
ような態度がすっかり読めた。葉子の憤怒は見る見るその血相をかえさせた。
(たがわふじんというひとはどこまでじぶんにたいしてしゅうねんをよせようとするのだろう。)
田川夫人という人はどこまで自分に対して執念を寄せようとするのだろう。
(それにしてもふじんのともだちにはいそがわというひともあるはずだ。もしいそがわの)
それにしても夫人の友だちには五十川という人もあるはずだ。もし五十川の
(おばさんがほんとうにじぶんのかいしゅんをのぞんでいてくれるなら、そのきじのちゅうしなり)
おばさんがほんとうに自分の改悛を望んでいてくれるなら、その記事の中止なり
(ていせいなりを、おっとたがわのてをへてさせることはできるはずなのだ。たじまさんも)
訂正なりを、夫田川の手を経てさせる事はできるはずなのだ。田島さんも
(なんとかしてくれようがありそうなものだ。そんなことをいもうとたちにいうくらいなら)
なんとかしてくれようがありそうなものだ。そんな事を妹たちにいうくらいなら
(なぜじぶんにひとことちゅうこくでもしてはくれないのだ(ここでようこはきちょういらいいもうとたちを)
なぜ自分に一言忠告でもしてはくれないのだ(ここで葉子は帰朝以来妹たちを
(あずかってもらったれいをしにいっていなかったじぶんをかえりみた。しかしじじょうがそれを)
預かってもらった礼をしに行っていなかった自分を顧みた。しかし事情がそれを
(ゆるさないのだろうぐらいはさっしてくれてもよさそうなものだとおもった)それほど)
許さないのだろうぐらいは察してくれてもよさそうなものだと思った)それほど
(じぶんはもうせけんからみくびられのけものにされているのだ。ようこはなにか)
自分はもう世間から見くびられ除け者にされているのだ。葉子は何か
(たたきつけるものでもあれば、そしてせけんというものがなにかかたちをそなえたもので)
たたきつけるものでもあれば、そして世間というものが何か形を備えたもので
(あれば、ちからのかぎりえものをたたきつけてやりたかった。ようこはこきざみにふるえ)
あれば、力の限り得物をたたきつけてやりたかった。葉子は小刻みに震え
(ながら、ことばだけはしとやかに、「ことうさんは」「たまにおたよりを)
ながら、言葉だけはしとやかに、「古藤さんは」「たまにおたよりを
(くださいます」「あなたがたもあげるの」「ええたまに」「しんぶんのことをなにかいって)
くださいます」「あなた方も上げるの」「ええたまに」「新聞の事を何かいって
(きたかい」「なんにも」「ここのばんちはしらせてあげて」「いいえ」「なぜ」)
来たかい」「なんにも」「ここの番地は知らせて上げて」「いいえ」「なぜ」
(「おねえさまのごめいわくになりはしないかとおもって」このこむすめはもうみんなしって)
「おねえ様の御迷惑になりはしないかと思って」この小娘はもうみんな知って
(いる、とようこはいっしゅのおそれとけいかいとをもってかんがえた。なにごともこころえながら)
いる、と葉子は一種のおそれと警戒とをもって考えた。何事も心得ながら
(しらじらしくむじゃきをよそおっているらしいこのいもうとがてきのかんちょうのようにもおもえた。)
白々しく無邪気を装っているらしいこの妹が敵の間諜のようにも思えた。
(「こんやはもうおやすみ。つかれたでしょう」ようこはれいぜんとして、あかりのしたにうつむいて)
「今夜はもうお休み。疲れたでしょう」葉子は冷然として、灯の下にうつむいて
(きちんとすわっているいもうとをしりめにかけた。あいこはしとやかにあたまをさげて)
きちんとすわっている妹を尻目にかけた。愛子はしとやかに頭を下げて
(じゅうじゅんにざをたっていった。)
従順に座を立って行った。
(そのよるじゅういちじごろくらちがげしゅくのほうからかよってきた。うらにわをぐるっとまわって、)
その夜十一時ごろ倉地が下宿のほうからかよって来た。裏庭をぐるっと回って、
(まいよとじまりをせずにおくはりだしのろくじょうのまからあがってくるおとが、)
毎夜戸じまりをせずにおく張り出しの六畳の間から上がって来る音が、
(じれながらてつびんのゆげをみているようこのしんけいにすぐつうじた。ようこはすぐ)
じれながら鉄びんの湯気を見ている葉子の神経にすぐ通じた。葉子はすぐ
(たちあがってねこのようにあしおとをぬすみながらいそいでそっちにいった。ちょうど)
立ち上がって猫のように足音を盗みながら急いでそっちに行った。ちょうど
(しきいをあがろうとしていたくらちはくらいなかにようこのちかづくけはいをしって、)
敷居を上がろうとしていた倉地は暗い中に葉子の近づく気配を知って、
(いつものとおり、たちあがりざまにようこをほうようしようとした。しかしようこは)
いつものとおり、立ち上がりざまに葉子を抱擁しようとした。しかし葉子は
(そうはさせなかった。そしていそいでとをしめきってから、でんとうのすいっちを)
そうはさせなかった。そして急いで戸を締めきってから、電灯のスイッチを
(ひねった。ひのけのないへやのなかはきゅうにあかるくなったけれどもみをさすように)
ひねった。火の気のない部屋の中は急に明るくなったけれども身を刺すように
(さむかった。くらちのかおはさけによっているようにあかかった。「どうしたかおいろが)
寒かった。倉地の顔は酒に酔っているように赤かった。「どうした顔色が
(よくないぞ」くらちはいぶかるようにようこのかおをまじまじとみやりながら)
よくないぞ」倉地はいぶかるように葉子の顔をまじまじと見やりながら
(そういった。「まってください、いまわたしここにひばちをもってきますから。)
そういった。「待ってください、今わたしここに火鉢を持って来ますから。
(いもうとたちがねばなだからあすこではおこすといけませんから」そういいながら)
妹たちが寝ばなだからあすこでは起こすといけませんから」そういいながら
(ようこはてあぶりにひをついでもってきた。そしてしゅこうもそこにととのえた。)
葉子は手あぶりに火をついで持って来た。そして酒肴もそこにととのえた。
(「いろがわるいはず・・・こんやはまたすっかりむかっぱらがたったんですもの。)
「色が悪いはず・・・今夜はまたすっかり向かっ腹が立ったんですもの。
(わたしたちのことがほうせいしんぽうにみんなでてしまったのをごぞんじ?」)
わたしたちの事が報正新報にみんな出てしまったのを御存じ?」
(「しっとるとも」くらちはふしぎでもないというかおをしてめをしばだたいた。)
「知っとるとも」倉地は不思議でもないという顔をして目をしばだたいた。
(「たがわのおくさんというひとはほんとうにひどいひとね」ようこははをかみくだくように)
「田川の奥さんという人はほんとうにひどい人ね」葉子は歯をかみくだくように
(ならしながらいった。「まったくあれはほうずのないりこうばかだ」そう)
鳴らしながらいった。「全くあれは方図のない利口ばかだ」そう
(はきすてるようにいいながらくらちのかたるところによると、くらちはようこに、)
吐き捨てるようにいいながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、
(きっとそのうちけいさいされる「ほうせいしんぽう」のきじをみせまいために)
きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために
(ひっこしてきたとうざわざとしんぶんはどれもこうどくしなかったが、くらちだけのみみへは)
引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へは
(あるおとこ(それはえじままるのなかでようこのみのうえをそうだんしたとき、かいきのどてらをきて)
ある男(それは絵島丸の中で葉子の身の上を相談した時、甲斐絹のどてらを着て
(ねどこのなかにふたつにおれこんでいたそのおとこであるのがあとでしれた。そのおとこのなを)
寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのがあとで知れた。その男の名を
(まさいといった)からつやのとりつぎでないひにしらされていたのだそうだ。)
正井といった)からつやの取り次ぎで内秘に知らされていたのだそうだ。
(ゆうせんがいしゃはこのきじがでるまえからくらちのためにまたかいしゃじしんのために、きょくりょく)
郵船会社はこの記事が出る前から倉地のためにまた会社自身のために、極力
(もみけしをしたのだけれども、しんぶんしゃではいっこうおうずるいろがなかった。)
もみ消しをしたのだけれども、新聞社ではいっこう応ずる色がなかった。
(それからかんがえるとそれはとうじしんぶんしゃのかんようしゅだんのふところがねを)
それから考えるとそれは当時新聞社の慣用手段のふところ金(がね)を
(むさぼろうというもくろみばかりからきたのでないことだけはあきらかになった。)
むさぼろうという目論見ばかりから来たのでない事だけは明らかになった。
(あんなきじがあらわれてはもうかいしゃとしてもだまってはいられなくなって、おおいそぎで)
あんな記事が現われてはもう会社としても黙ってはいられなくなって、大急ぎで
(せんぎをしたけっか、くらちとせんいのこうろくとがしょぶんされることになったというのだ。)
詮議をした結果、倉地と船医の興録とが処分される事になったというのだ。
(「たがわのかかあのいたずらにきまっとる。ばかにくやしかったとみえるて。)
「田川の嬶のいたずらに決まっとる。ばかにくやしかったと見えるて。
(・・・が、こうなりゃけっきょくぱっとなったほうがいいわい。みんなしっとるだけ)
・・・が、こうなりゃ結局パッとなったほうがいいわい。みんな知っとるだけ
(いちいちもうしわけをいわずとすむ。おまえはまたまだそれしきのことにくよくよしとるんか。)
一々申し訳をいわずと済む。お前は又まだそれしきの事にくよくよしとるんか。
(ばかな。・・・それよりいもうとたちはきとるんか。ねがおにでもおめにかかって)
ばかな。・・・それより妹たちは来とるんか。寝顔にでもお目にかかって
(おこうよ。しゃしんーーふねのなかにあったねーーでみてもかわいらしいこたち)
おこうよ。写真ーー船の中にあったねーーで見てもかわいらしい子たち
(だったが・・・」ふたりはやおらそのへやをでた。そしてじゅうじょうとちゃのまとの)
だったが・・・」二人はやおらその部屋を出た。そして十畳と茶の間との
(へだてのふすまをそっとあけると、ふたりのしまいはむかいあってべつべつのねどこにすやすやと)
隔ての襖をそっと明けると、二人の姉妹は向かい合って別々の寝床にすやすやと
(ねむっていた。みどりいろのかさのかかった、でんとうのひかりはうみのそこのようにへやのなかを)
眠っていた。緑色の笠のかかった、電灯の光は海の底のように部屋の中を
(おもわせた。「あっちは」「あいこ」「こっちは」「さだよ」ようこはこころひそかに、)
思わせた。「あっちは」「愛子」「こっちは」「貞世」葉子は心ひそかに、
(よにもつややかなこのしょうじょふたりをいもうとにもつことにほこりをかんじてあたたかいこころになって)
世にも艶やかなこの少女二人を妹に持つ事に誇りを感じて暖かい心になって
(いた。そしてしずかにひざをついて、きりさげにしたさだよのまえがみをそっとなであげて)
いた。そして静かに膝をついて、切り下げにした貞世の前髪をそっとなであげて
(くらちにみせた。くらちはこえをころすのにすくなからずなんぎなふうで、「そうやると)
倉地に見せた。倉地は声を殺すのに少なからず難儀なふうで、「そうやると
(こっちは、さだよは、おまえによくにとるわい。・・・あいこは、ふむ、これはまた)
こっちは、貞世は、お前によく似とるわい。・・・愛子は、ふむ、これはまた
(すてきなびじんじゃないか。おれはこんなのはみたことがない・・・おまえの)
すてきな美人じゃないか。おれはこんなのは見たことがない・・・お前の
(にのまいでもせにゃけっこうだが・・・」そういいながらくらちはあいこのかおほどもある)
二の舞いでもせにゃ結構だが・・・」そういいながら倉地は愛子の顔ほどもある
(ようなおおきなてをさしだして、そうしたいゆうわくをしりぞけかねるように、)
ような大きな手をさし出して、そうしたい誘惑を退けかねるように、
(べにつばきのようなあかいそのくちびるにふれてみた。)
紅椿のような紅いその口びるに触れてみた。
(そのしゅんかんにようこはぎょっとした。くらちのてがあいこのくちびるにふれたときの)
その瞬間に葉子はぎょっとした。倉地の手が愛子の口びるに触れた時の
(ようすから、ようこはあきらかにあいこがまだめざめていて、ねたふりをしているのを)
様子から、葉子は明らかに愛子がまだ目ざめていて、寝たふりをしているのを
(かんづいたとおもったからだ。ようこはおおいそぎでくらちにめくばせして)
感づいたと思ったからだ。葉子は大急ぎで倉地に目くばせして
(そっとそのへやをでた。)
そっとその部屋を出た。