有島武郎 或る女75

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(「わたしのいくじのないのがなによりもいけないんです。しんるいのものたちは)

「わたしの意気地のないのが何よりもいけないんです。親類の者たちは

(なんといってもわたしをじつぎょうのほうめんにいれてちちのじぎょうをつがせようと)

なんといってもわたしを実業の方面に入れて父の事業を嗣がせようと

(するんです。それはたぶんほんとうにいいことなんでしょう。けれどもわたしには)

するんです。それはたぶんほんとうにいい事なんでしょう。けれどもわたしには

(どうしてもそういうことがわからないからこまります。すこしでもわかれば、)

どうしてもそういう事がわからないから困ります。少しでもわかれば、

(どうせこんなにびょうしんでなにもできませんから、はははじめみんなのいうことを)

どうせこんなに病身で何もできませんから、母始めみんなのいう事を

(ききたいんですけれども・・・わたしはときどきこじきにでもなってしまいたいような)

ききたいんですけれども・・・わたしは時々乞食にでもなってしまいたいような

(きがします。みんなのしゅじんおもいなめでみつめられていると、わたしはみんなに)

気がします。みんなの主人思いな目で見つめられていると、わたしはみんなに

(すまなくなって、なぜじぶんみたいなくずなにんげんをおしんでいてくれるのだろうと)

済まなくなって、なぜ自分みたいな屑な人間を惜しんでいてくれるのだろうと

(よくそうおもいます・・・こんなこといままでだれにもいいはしませんけれども。)

よくそう思います・・・こんな事今までだれにもいいはしませんけれども。

(とつぜんにほんにかえってきたりなぞしてからわたしはうちうちかんしまでされるように)

突然日本に帰ってきたりなぞしてからわたしは内々監視までされるように

(なりました。・・・わたしのようないえにうまれるとともだちというものはひとりも)

なりました。・・・わたしのような家に生まれると友だちというものは一人も

(できませんし、みんなとはひょうめんだけでものをいっていなければならないんですから)

できませんし、みんなとは表面だけで物をいっていなければならないんですから

(・・・こころがさびしくてしかたがありません」そういっておかはすがるように)

・・・心がさびしくてしかたがありません」そういって岡はすがるように

(ようこをみやった。おかがすこしふるえをおびた、よごれっけのちりほどもないこえのちょうしを)

葉子を見やった。岡が少し震えを帯びた、よごれっ気の塵ほどもない声の調子を

(おとしてしんみりとものをいうようすにはおのずからなけだかいさびしみがあった。)

落としてしんみりと物をいう様子にはおのずからな気高いさびしみがあった。

(としょうじをきしませながらゆきをふきまくこがいのあらあらしいしぜんのすがたにくらべては)

戸障子をきしませながら雪を吹きまく戸外の荒々しい自然の姿に比べては

(ことさらそれがめだった。ようこにはおかのようなしょうきょくてきなこころもちはすこしも)

ことさらそれが目立った。葉子には岡のような消極的な心持ちは少しも

(わからなかった。しかしあれでいて、べいこくくんだりからのっていったふねで)

わからなかった。しかしあれでいて、米国くんだりから乗って行った船で

(かえってくるところなぞには、ねばりづよいいりょくがひそんでいるようにもおもえた。)

帰って来る所なぞには、粘り強い意力が潜んでいるようにも思えた。

(へいぼんなせいねんならできてもできなくともしゅういのものにおだてあげられれば)

平凡な青年ならできてもできなくとも周囲のものにおだてあげられれば

など

(うたがいもせずにちちのいぎょうをつぐまねをしてよろこんでいるだろう。それが)

疑いもせずに父の遺業を嗣ぐまねをして喜んでいるだろう。それが

(どうしてもできないというところにもどこかちがったところがあるのではないか。)

どうしてもできないという所にもどこか違った所があるのではないか。

(ようこはそうおもうとなんのりかいもなくこのせいねんをとりまいてただわいわい)

葉子はそう思うと何の理解もなくこの青年を取り巻いてただわいわい

(さわぎたてているひとたちがばかばかしくもみえた。それにしてもなぜもっと)

騒ぎ立てている人たちがばかばかしくも見えた。それにしてもなぜもっと

(はきはきとそんなくだらないしょうがいぐらいうちやぶってしまわないのだろう。)

はきはきとそんな下らない障害ぐらい打ち破ってしまわないのだろう。

(じぶんならそのざいさんをつかってから、「こうすればいいのかい」とでもいって、)

自分ならその財産を使ってから、「こうすればいいのかい」とでもいって、

(まわりでせわをやいたにんげんたちのむねのすききるまでおもいぞんぶんわらってやるのに。)

まわりで世話を焼いた人間たちの胸のすき切るまで思い存分笑ってやるのに。

(そうおもうとおかのにえきらないようなたいどがはがゆくもあった。しかし)

そう思うと岡の煮え切らないような態度が歯がゆくもあった。しかし

(なんといってもだきしめたいほどかれんなのはおかのせんびなさびしそうなすがただった。)

なんといっても抱きしめたいほど可憐なのは岡の繊美なさびしそうな姿だった。

(おかはじょうずにいれられたかんろをすすりおわったちゃわんをてのさきにすえて)

岡は上手に入れられた甘露をすすり終わった茶わんを手の先に据えて

(めんみつにそのつくりをしょうがんしていた。「おおぼえになるようなものじゃ)

綿密にその作りを賞翫していた。「お覚えになるようなものじゃ

(ございませんことよ」おかはわるいことでもしていたようにかおをあかくして)

ございません事よ」岡は悪い事でもしていたように顔を赤くして

(それをしたにおいた。かれはいいかげんなせじはいえないらしかった。)

それを下においた。彼はいいかげんな世辞はいえないらしかった。

(おかははじめてきたいえにながいするのはしつれいだときたときからおもっていて、)

岡は始めて来た家に長居するのは失礼だと来た時から思っていて、

(きかいあるごとにざをたとうとするらしかったが、ようこはそういうおかのえんりょに)

機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に

(かんづけばかんづくほどたくみにもすべてのきかいをおかにあたえなかった。「もうすこし)

感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。「もう少し

(おまちになるとゆきがこぶりになりますわ。いま、こないだいんどからきたこうちゃを)

お待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだインドから来た紅茶を

(いれてみますからめしあがってみてちょうだい。ふだんいいものを)

入れてみますから召し上がってみてちょうだい。ふだんいいものを

(めしあがりつけていらっしゃるんだから、かんていをしていただきますわ。)

召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。

(ちょっと、・・・ほんのちょっとまっていらしってちょうだいよ」)

ちょっと、・・・ほんのちょっと待っていらしってちょうだいよ」

(そういうふうにいっておかをひきとめた。はじめのあいだこそくらちにたいしてのようには)

そういうふうにいって岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようには

(なつかなかったさだよもだんだんとおかとくちをきくようになって、しまいには)

なつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには

(おかのおだやかなといにたいしておもいのままをかわいらしくかたってきかせたり、)

岡の穏やかな問いに対して思いのままをかわいらしく語って聞かせたり、

(わだいにきゅうしておかがだまってしまうとさだよのほうからむじゃきなことをききただして、)

話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世のほうから無邪気な事を聞きただして、

(おかをほほえましたりした。なんといってもおかはうつくしいさんにんのしまいが(そのうち)

岡をほほえましたりした。なんといっても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち

(あいこだけはほかのふたりとはまったくちがったたいどで)こころをこめてしたしんでくる)

愛子だけは他の二人とは全く違った態度で)心をこめて親しんで来る

(そのこういにはてきしかねてみえた。さかんにひをおこしたあたたかいへやのなかの)

その好意には敵し兼ねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋の中の

(くうきにこもるわかいおんなたちのかみからとも、ふところからとも、はだからともしれぬ)

空気にこもる若い女たちの髪からとも、ふところからとも、膚からとも知れぬ

(じゅうなんなかおりだけでもさりがたいおもいをさせたにちがいなかった。いつのまにか)

柔軟な香りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつのまにか

(おかはすっかりこしをおちつけて、いいようなくこころよくむねのなかのわだかまりを)

岡はすっかり腰を落ち着けて、いいようなく快く胸の中のわだかまりを

(いっそうしたようにみえた。)

一掃したように見えた。

(それからというもの、おかはびじんやしきとうわさされるようこのかくれがにおりおり)

それからというもの、岡は美人屋敷とうわさされる葉子の隠れ家におりおり

(でいりするようになった。くらちともかおをあわせて、たがいにこころよくふねのなかでの)

出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での

(おもいだしばなしなどをした。おかのめのうえにはようこのめがいれめされて)

思い出し話などをした。岡の目の上には葉子の目が義眼(いれめ)されて

(いた。ようこのよしとみるものはおかもよしとみた。ようこのにくむものはおかもむじょうけんで)

いた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡も無条件で

(にくんだ。ただひとつそのれいがいとなっているのはあいこというものらしかった。)

憎んだ。ただ一つその例外となっているのは愛子というものらしかった。

(もちろんようことてせいかくてきにはどうしてもあいこといれあわなかったが、)

もちろん葉子とて性格的にはどうしても愛子と入れ合わなかったが、

(こつにくのじょうとしてはやはりたがいにいいようのないしゅうちゃくをかんじあっていた。しかし)

骨肉の情としてはやはり互いにいいようのない執着を感じあっていた。しかし

(おかはあいこにたいしてはこころからのあいちゃくをもちだすようになっていることがしれた。)

岡は愛子に対しては心からの愛着を持ち出すようになっている事が知れた。

(とにかくおかのくわわったことがびじんやしきのいろどりをたようにした。さんにんのしまいは)

とにかく岡の加わった事が美人屋敷のいろどりを多様にした。三人の姉妹は

(ときおりくらち、おかにともなわれてたいこうえんのおもてもんのほうからみたのとおりなどに)

時おり倉地、岡に伴われて苔香園の表門のほうから三田の通りなどに

(さんぽにでた。ひとびとはそのきらびやかなむれにものずきなめをかがやかした。)

散歩に出た。人々はそのきらびやかな群れに物好きな目をかがやかした。

(さんじゅうさんおかにじゅうしょをしらせてから、すぐそれがことうにつうじたとみえて、)

【三三】 岡に住所を知らせてから、すぐそれが古藤に通じたと見えて、

(にがつにはいってからのきむらのしょうそくは、くらちのてをへずにちょくせつようこにあてて)

二月にはいってからの木村の消息は、倉地の手を経ずに直接葉子にあてて

(ことうからかいそうされるようになった。ことうはしかしがんこにもそのなかにひとことも)

古藤から回送されるようになった。古藤はしかし頑固にもその中に一言も

(じぶんのしょうそくをふうじこんでよこすようなことはしなかった。ことうをちかづかせることは)

自分の消息を封じ込んでよこすような事はしなかった。古藤を近づかせる事は

(いちめんきむらとようことのかんけいをだんぜつさすきかいをはやめるおそれがないでもなかったが、)

一面木村と葉子との関係を断絶さす機会を早める恐れがないでもなかったが、

(あのことうのたんじゅんなこころをうまくあやつりさえすれば、ことうをじぶんのほうに)

あの古藤の単純な心をうまくあやつりさえすれば、古藤を自分のほうに

(なずけてしまい、したがってきむらにふあんをおこさせないほうべんになるとおもった。)

なずけてしまい、従って木村に不安を起こさせない方便になると思った。

(ようこはれいのいたずらごころからことうをてなずけるきょうみをそそられないでも)

葉子は例のいたずら心から古藤を手なずける興味をそそられないでも

(なかった。しかしそれをじっこうにうつすまでにそのきょうみはこうじてはこなかったので)

なかった。しかしそれを実行に移すまでにその興味は嵩じては来なかったので

(そのままにしておいた。)

そのままにしておいた。

(きむらのしごとはおもいのほかつごうよくはこんでいくらしかった。「にほんにおける)

木村の仕事は思いのほか都合よく運んで行くらしかった。「日本における

(みらいのぴーぼでー」というひょうだいにきむらのしょうぞうまでいれて、はみるとんし)

未来のピーボデー」という標題に木村の肖像まで入れて、ハミルトン氏

(はいかのびんわんかのひとりとして、またひんせいのこうけつなこうきょうしんのあついこうこの)

配下の敏腕家の一人として、また品性の高潔な公共心の厚い好個の

(せいねんじつぎょうかとして、やがてはにほんにおいて、べいこくにおけるぴーぼでーと)

青年実業家として、やがては日本において、米国におけるピーボデーと

(どうようのめいせいをかちうべきやくそくにあるものとしょうさんしたしかご・とりびゅーんの)

同様の名声をかちうべき約束にあるものと賞賛したシカゴ・トリビューンの

(「せいねんじつぎょうかひょうばんき」のきりぬきなどをふうにゅうしてきた。おもいのほか)

「青年実業家評判記」の切り抜きなどを封入して来た。思いのほか

(きょがくのかわせをちょいちょいおくってよこして、くらちしにしはらうべききんがくの)

巨額の為替をちょいちょい送ってよこして、倉地氏に支払うべき金額の

(ぜんたいをしらせてくれたら、どうくめんしてもかならずそうふするから、いちにちもはやく)

全体を知らせてくれたら、どう工面しても必ず送付するから、一日も早く

(くらちしのほごからどくりつしてせひょうのごびゅうをじっこうてきにていせいし、あわせて)

倉地氏の保護から独立して世評の誤謬を実行的に訂正し、あわせて

(じぶんにたいするようこのしんじょうをしょうめいしてほしいなどといってよこした。)

自分に対する葉子の真情を証明してほしいなどといってよこした。

(ようこはーーくらちにおぼれきっているようこははなのさきでせせらわらった。)

葉子はーー倉地におぼれきっている葉子は鼻の先でせせら笑った。

(それにはんしてくらちのしごとのほうはいつまでもめはながつかないらしかった。)

それに反して倉地の仕事のほうはいつまでも目鼻がつかないらしかった。

(くらちのいうところによればにほんだけのみずさきあんないぎょうしゃのくみあいといっても、とうようの)

倉地のいう所によれば日本だけの水先案内業者の組合といっても、東洋の

(しょこうやせいぶべいこくのえんがんにあるそれらのくみあいともこうしょうをつけてれんらくをとる)

諸港や西部米国の沿岸にあるそれらの組合とも交渉をつけて連絡を取る

(ひつようがあるのに、にほんのいみんもんだいがべいこくのせいぶしょしゅうでやかましくなり、)

必要があるのに、日本の移民問題が米国の西部諸州でやかましくなり、

(はいにちねつがかどにせんどうされだしたので、なにごともべいこくじんとのこうしょうはおもうように)

排日熱が過度に煽動され出したので、何事も米国人との交渉は思うように

(いかずにそのてんでいきなやんでいるとのことだった。そういえばべいこくじんらしい)

行かずにその点で行きなやんでいるとの事だった。そういえば米国人らしい

(がいこくじんがしばしばくらちのげしゅくにでいりするのをようこはきがついていた。)

外国人がしばしば倉地の下宿に出入りするのを葉子は気がついていた。

(あるときはそれがこうしかんのしょくいんででもあるかとおもうような、れいそうをして)

ある時はそれが公使館の職員ででもあるかと思うような、礼装をして

(みごとなばしゃにのったしんしであることもあり、あるときはずぼんのおりめも)

みごとな馬車に乗った紳士である事もあり、ある時はズボンの折り目も

(つけないほどだらしのないふうをしたにんそうのよくないおとこでもあった。)

つけないほどだらしのないふうをした人相のよくない男でもあった。

(とにかくにがつにはいってからくらちのようすがすこしずつすさんできたらしいのが)

とにかく二月にはいってから倉地の様子が少しずつすさんで来たらしいのが

(めだつようになった。さけのりょうもいちじるしくましてきた。まさいがかみつくように)

目立つようになった。酒の量も著しく増して来た。正井がかみつくように

(どなられていることもあった。しかしようこにたいしてはくらちはまえにもまさって)

どなられている事もあった。しかし葉子に対しては倉地は前にもまさって

(できあいのどをくわえ、あらゆるあいじょうのしょうこをつかむまではしつようにようこをしいたげる)

溺愛の度を加え、あらゆる愛情の証拠をつかむまでは執拗に葉子をしいたげる

(ようになった。ようこはめもくらむひざけをあおりつけるようにそのしいたげを)

ようになった。葉子は目もくらむ火酒をあおりつけるようにそのしいたげを

(よろこんでむかえた。)

喜んで迎えた。

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