有島武郎 或る女78

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1 布ちゃん 5435 B++ 5.8 93.8% 1023.6 5951 387 90 2024/04/17

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問題文

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(そのよくじつじゅういちじすぎにようこはちのそこからほりおこされたようにちきゅうのうえに)

その翌日十一時すぎに葉子は地の底から掘り起こされたように地球の上に

(めをひらいた。くらちはまだしんだものどうぜんにいぎたなくねむっていた。)

目を開いた。倉地はまだ死んだもの同然にいぎたなく眠っていた。

(といたのすぎのあかみがかつおぶしのしんのようにはんとうめいにまっかにひかっている)

戸板の杉の赤みが鰹節の心(しん)のように半透明にまっ赤に光っている

(ので、ひがたかいのもてんきがうつくしくはれているのもさっせられた。あまずっぱく)

ので、日が高いのも天気が美しく晴れているのも察せられた。甘酸っぱく

(たてこもったさけとたばこのよくんのなかに、すきまもるこうせんが、とうめいにかがやく)

立てこもった酒と煙草の余燻の中に、すき間もる光線が、透明に輝く

(あめいろのいたとなってたてにうすぐらさのなかをくぎっていた。いつもならばまっかに)

飴色の板となって縦に薄暗さの中を区切っていた。いつもならばまっ赤に

(じゅうけつして、せいりょくにみちみちてねむりながらはたらいているようにみえるくらちも、)

充血して、精力に充ち満ちて眠りながら働いているように見える倉地も、

(そのあさはめのしゅういにしいろをさえさしていた。むきだしにしたうでにはあおすじが)

その朝は目の周囲に死色をさえ注していた。むき出しにした腕には青筋が

(びょうてきにおもわれるほどたかくとびでてはいずっていた。およぎまわるものでもいる)

病的に思われるほど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ回る者でもいる

(ようにあたまのなかがぐらぐらするようこには、さつじんしゃがきょうこうからめざめていった)

ように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が凶行から目ざめて行った

(ときのようなそこのしれないきみわるさがかんぜられた。ようこはひそやかにそのへやを)

時のような底の知れない気味わるさが感ぜられた。葉子は密やかにその部屋を

(ぬけだしてこがいにでた。)

抜け出して戸外に出た。

(ふるようなまひるのこうせんにあうと、りょうがんはのうしんのほうにしゃにむに)

降るような真昼の光線にあうと、両眼は脳心のほうにしゃにむに

(ひきつけられてたまらないいたさをかんじた。かわいたくうきはいきをとめるほど)

引きつけられてたまらない痛さを感じた。かわいた空気は息をとめるほど

(のどをひからばした。ようこはおもわずよろけていりぐちのしたみいたによりかかって、)

喉を干からばした。葉子は思わずよろけて入り口の下見板に寄りかかって、

(だぼくをさけるようにりょうてでかおをかくしてうつむいてしまった。)

打撲を避けるように両手で顔を隠してうつむいてしまった。

(やがてようこはひとをさけながらしばふのさきのうみぎわにでてみた。)

やがて葉子は人を避けながら芝生の先の海ぎわに出てみた。

(まんげつにちかいころのこととてしおはとおくひいていた。あしのかれはがひをあびてたつ)

満月に近いころの事とて潮は遠くひいていた。蘆の枯れ葉が日を浴びて立つ

(そじょちのようなへいちがめのまえにひろがっていた。しかししぜんはすこしもむかしのすがたを)

沮洳地のような平地が目の前に広がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を

(かえてはいなかった。しぜんもひともきのうのままのいとなみをしていた。ようこは)

変えてはいなかった。自然も人もきのうのままの営みをしていた。葉子は

など

(ふしぎなものをみせつけられたようにぼうぜんとしてしおひがたのどろをみ、)

不思議なものを見せつけられたように茫然として潮干潟の泥を見、

(うろこぐもでかざられたあおぞらをあおいだ。ゆうべのことがしんじつならこのけしきはゆめで)

うろこ雲で飾られた青空を仰いだ。ゆうべの事が真実ならこの景色は夢で

(あらねばならぬ。このけしきがしんじつならゆうべのことはゆめであらねばならぬ。)

あらねばならぬ。この景色が真実ならゆうべの事は夢であらねばならぬ。

(ふたつがりょうりつしようはずはない。・・・ようこはぼうぜんとしてなおめにはいって)

二つが両立しようはずはない。・・・葉子は茫然としてなお目にはいって

(くるものをながめつづけた。)

来るものをながめ続けた。

(まひしきったようなようこのかんかくはだんだんかいふくしてきた。それとともに)

麻痺しきったような葉子の感覚はだんだん回復して来た。それと共に

(めまいをかんずるほどのずつうをまずおぼえた。ついでこうとうぶにどんじゅうないたみが)

眩暈を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後頭部に鈍重な疼(いた)みが

(むくむくとあたまをもたげるのをおぼえた。かたはいしのようにこっていた。)

むくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。

(あしはこおりのようにひえていた。)

足は氷のように冷えていた。

(ゆうべのことはゆめではなかったのだ・・・そしていまみるこのけしきもゆめでは)

ゆうべの事は夢ではなかったのだ・・・そして今見るこの景色も夢では

(ありえない・・・それはあまりにざんこくだ、ざんこくだ。なぜゆうべをさかいに)

あり得ない・・・それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜゆうべをさかいに

(して、よのなかはかるたをうらがえしたようにかわっていてはくれなかったのだ。)

して、世の中はかるたを裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。

(このけしきのどこにじぶんはみをおくことができよう。ようこはつうせつにじぶんが)

この景色のどこに自分は身をおく事ができよう。葉子は痛切に自分が

(おちこんでいったしんえんのふかみをしった。そしてそこにしゃがんでしまって、)

落ち込んで行った深淵の深みを知った。そしてそこにしゃがんでしまって、

(にがいなみだをなきはじめた。)

苦い涙を泣き始めた。

(ざんげのもんのかたくとざされたくらいみちがただひとすじ、ようこのこころのめには)

懺悔の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の目には

(ゆくてにみやられるばかりだった。)

行く手に見やられるばかりだった。

(さんじゅうしともかくもいっかのあるじとなり、いもうとたちをよびむかえて、そのきょういくに)

【三四】 ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に

(きょうみとせきにんとをもちはじめたようこは、しぜんしぜんにつまらしくまたははらしいほんのうに)

興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に

(たちかえって、くらちにたいするじょうねんにもどこかにくからせいしんにうつろうとするかたむきが)

立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きが

(できてくるのをかんじた。それはたのしいぶじともかんがえればかんがえられぬことは)

できて来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬ事は

(なかった。しかしようこはあきらかにくらちのこころがそういうじょうたいのもとには)

なかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下(もと)には

(すこしずつこわばっていきひえていくのをかんぜずにはいられなかった。)

少しずつ硬(こわ)ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。

(それがようこにはなによりもふまんだった。くらちをえらんだようこであってみれば、)

それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、

(ひがたつにしたがってようこにもくらちがかんじはじめたとどうようなものたらなさが)

日がたつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが

(かんぜられていった。おちつくのかひえるのか、とにかくくらちのかんじょうが)

感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が

(はくねつしてはたらかないのをみせつけられるしゅんかんはふかいさびしみをさそいおこした。)

白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。

(こんなことでじぶんのぜんがをなげいれたこいのはなをちってしまわせてなるものか。)

こんな事で自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。

(じぶんのこいにはぜっちょうがあってはならない。じぶんにはまだどんななんろでも)

自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも

(まいくるいながらのぼっていくねつとちからとがある。そのねつとちからとがつづくかぎり、)

舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、

(ぼんやりこしをすえてしゅういのへいぼんなけしきなどをながめてまんぞくしてはいられない。)

ぼんやり腰を据えて周囲の平凡な景色などをながめて満足してはいられない。

(じぶんのめにはぜってんのないぜってんばかりがみえていたい。そうしたしょうどうは)

自分の目には絶巓のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は

(おやみなくようこのむねにわだかまっていた。えじままるのせんしつでくらちが)

小休(おや)みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が

(みせてくれたような、なにもかもむしした、かみのようにきょうぼうなねっしんーーそれを)

見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心ーーそれを

(くりかえしていきたかった。)

繰り返して行きたかった。

(たけしばかんのいちやはまさしくそれだった。そのよるようこは、つぎのあさになって)

竹柴館の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって

(じぶんがしんでみいだされようともまんぞくだとおもった。しかしつぎのあさ)

自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝

(いきたままでめをひらくと、そのばでしぬこころもちにはもうなれなかった。)

生きたままで目を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。

(もっとこうじたかんらくをおいこころみようというよくねん、そしてそれができそうな)

もっと嵩じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな

(きたいがようこをみれんにした。それからというものようこはぼうがこんとんのかんきに)

期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘我渾沌の歓喜に

(ひたるためには、すべてをぎせいとしてもおしまないこころになっていた。そして)

浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして

(くらちとようことはたがいたがいをたのしませそしてひきよせるためにあらんかぎりの)

倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてひき寄せるためにあらん限りの

(しゅだんをこころみた。ようこはじぶんのふかはんせい(おんながおとこにたいしてもついちばん)

手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん

(きょうだいなこわくもの)のすべてまでおしみなくなげだして、じぶんをくらちのめに)

強大な蠱惑物)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の目に

(しょうふいかのものにみせるともくいようとはしなくなった。ふたりは、)

娼婦以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人は、

(はためにはさんびだとさえおもわせるようなにくよくのふはいのすえとおく、たがいに)

はた目には酸鼻だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに

(いんらくのみをたがいたがいからうばいあいながらずるずるとこわれこんで)

イン楽の実を互い互いから奪い合いながらずるずると壊れこんで

(いくのだった。しかしくらちはしらず、ようこにとってはこのいまわしい)

行くのだった。しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい

(ふはいのなかにもいちるのきたいがひそんでいた。いちどぎゅっとつかみえたら)

腐敗の中にも一縷の期待が潜んでいた。一度ぎゅっとつかみ得たら

(もううごかないあるものがそのなかによこたわっているにちがいない、そういうきたいを)

もう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を

(こころのすみからぬぐいさることができなかったのだった。それはくらちがようこの)

心のすみからぬぐい去る事ができなかったのだった。それは倉地が葉子の

(こわくにまったくまよわされてしまってふたたびじぶんをかいふくしえないじきがある)

蠱惑に全く迷わされてしまって再び自分を回復し得ない時期がある

(だろうというそれだった。こいをしかけたもののひけめとしてようこはいままで、)

だろうというそれだった。恋をしかけたもののひけ目として葉子は今まで、

(じぶんがくらちをあいするほどくらちがじぶんをあいしてはいないとばかりおもった。)

自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。

(それがいつでもようこのこころをふあんにし、じぶんというもののいすわりどころまで)

それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所まで

(ぐらつかせた。どうかしてくらちをちほうのようにしてしまいたい。ようこは)

ぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆のようにしてしまいたい。葉子は

(それがためにはあるかぎりのしゅだんをとってくいなかったのだ。さいしを)

それがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を

(りえんさせても、しゃかいてきにしなしてしまっても、まだまだものたらなかった。)

離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。

(たけしばかんのよるにようこはくらちをごくいんつきのきょうじょうもちにまでしたことをしった。)

竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの凶状持ちにまでした事を知った。

(がいかいからきりはなされるだけそれだけくらちがじぶんのてにおちるように)

外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように

(おもっていたようこはそれをしってうちょうてんになった。そしてくらちが)

思っていた葉子はそれを知って有頂天になった。そして倉地が

(しのばねばならぬくつじょくをうめあわせるためにようこはくらちがほっするとおもわしい)

忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい

(はげしいじょうよくをていきょうしようとしたのだ。そしてそうすることによって、)

激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうする事によって、

(ようこじしんがけっきょくじこをしょうじんしてくらちのきょうみからはなれつつあることには)

葉子自身が結局自己を銷尽して倉地の興味から離れつつある事には

(きづかなかったのだ。)

気づかなかったのだ。

(とにもかくにもふたりのかんけいはたけしばかんのいちやからめんぼくをあらためた。ようこはふたたび)

とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び

(つまからじょうねつのわかわかしいじょうじんになってみえた。そういうこころのへんかがようこの)

妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の

(にくたいにおよぼすへんかはおどろくばかりだった。ようこはきゅうにみっつもよっつもわかやいだ。)

肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。

(にじゅうろくのはるをむかえたようこはそのころのおんなとしてはそろそろおいのちょうこうをも)

二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも

(みせるはずなのに、ようこはひとつだけとしをわかくとったようだった。)

見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。

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