有島武郎 或る女107
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問題文
(ようこのめからはたえずなみだがはふりおちた。くらちとおもいもかけない)
葉子の目からは絶えず涙がはふり落ちた。倉地と思いもかけない
(わかれかたをしたそのきおくが、ただわけもなくようこをなみだぐました。)
別れかたをしたその記憶が、ただわけもなく葉子を涙ぐました。
(と、ふっとようこはさんないのいえのありさまをそうぞうにうかべた。)
と、ふっと葉子は山内(さんない)の家のありさまを想像に浮かべた。
(げんかんわきのろくじょうででもあろうか、にかいのこどものべんきょうべやででもあろうか、)
玄関わきの六畳ででもあろうか、二階の子供の勉強部屋ででもあろうか、
(このよふけをげしゅくからおくられたろうじょがねいったあと、くらちとあいことが)
この夜ふけを下宿から送られた老女が寝入ったあと、倉地と愛子とが
(はなしつづけているようなことはないか。あのふしぎにこころのうらをけっしてたにんに)
話し続けているような事はないか。あの不思議に心の裏を決して他人に
(みせたことのないあいこが、くらちをどうおもっているかそれはわからない。)
見せた事のない愛子が、倉地をどう思っているかそれはわからない。
(おそらくはくらちにたいしてはなんのゆうわくもかんじてはいないだろう。しかし)
おそらくは倉地に対しては何の誘惑も感じてはいないだろう。しかし
(くらちはああいうしたたかものだ。あいこはほねにてっするえんこんをようこにたいして)
倉地はああいうしたたか者だ。愛子は骨に徹する怨恨を葉子に対して
(いだいている。そのあいこがようこにたいしてふくしゅうのきかいをみいだしたと)
抱いている。その愛子が葉子に対して復讐の機会を見いだしたと
(このばんおもいさだめなかったとだれがほしょうしえよう。そんなことはとうのむかしに)
この晩思い定めなかったとだれが保証し得よう。そんな事はとうの昔に
(おこなわれてしまっているのかもしれない。もしそうなら、いまごろは、)
行われてしまっているのかもしれない。もしそうなら、今ごろは、
(このしめやかなよるを・・・)
このしめやかな夜を・・・
(たいようがきえてなくなったようなさむさとやみとがようこのこころにおおいかぶさってきた。)
太陽が消えてなくなったような寒さと闇とが葉子の心におおいかぶさって来た。
(あいこひとりぐらいをゆびのあいだににぎりつぶすことができないとおもっているのか・・・)
愛子一人ぐらいを指の間に握りつぶす事ができないと思っているのか・・・
(みているがいい。ようこはいらだちきってどくじゃのような)
見ているがいい。葉子はいらだちきって 毒蛇(どくじゃ)のような
(さっきだったこころになった。そしてしずかにおかのほうをかえりみた。)
殺気だった心になった。そして静かに岡のほうを顧みた。
(なにかとおいほうのものでもみつめているようにすこしぼんやりしためつきで)
何か遠いほうの物でも見つめているように少しぼんやりした目つきで
(さだよをみまもっていたおかは、ようこにふりむかれると、そのほうにすばやくめを)
貞世を見守っていた岡は、葉子に振り向かれると、そのほうに素早く目を
(てんじたが、そのものすごいぶきみさにせきずいまでおそわれたふうで、)
転じたが、その物すごい不気味さに脊髄まで襲われたふうで、
(かおいろをかえてめをたじろがした。)
顔色をかえて目をたじろがした。
(「おかさん。わたしいっしょうのおたのみ・・・これからすぐさんないのいえまで)
「岡さん。わたし一生のお頼み・・・これからすぐ山内の家まで
(いってください。そしてふようなにもつはこんやのうちにみんなくらちさんの)
行ってください。そして不要な荷物は今夜のうちにみんな倉地さんの
(げしゅくにおくりかえしてしまって、わたしとあいこのふだんづかいのきものとどうぐとを)
下宿に送り返してしまって、わたしと愛子のふだん使いの着物と道具とを
(もって、すぐここにひっこしてくるようにあいこにいいつけてください。)
持って、すぐここに引っ越して来るように愛子にいいつけてください。
(もしくらちさんがうちにきていたら、わたしからたしかにかえしたといって)
もし倉地さんが家に来ていたら、わたしから確かに返したといって
(これをわたしてください(そういってようこはふところがみにじゅうえんしへいの)
これを渡してください(そういって葉子は 懐紙(ふところがみ)に拾円紙幣の
(たばをつつんでわたした)。いつまでかかってもかまわないからこんやのうちにね。)
束を包んで渡した)。いつまでかかっても構わないから今夜のうちにね。
(おたのみをきいてくださって?」)
お頼みを聞いてくださって?」
(なんでもようこのいうことならくちへんとうをしないおかだけれどもこのじょうしきをはずれた)
なんでも葉子のいう事なら口返答をしない岡だけれどもこの常識をはずれた
(ようこのことばにはとうわくしてみえた。おかはまどぎわにいってかーてんのかげから)
葉子の言葉には当惑して見えた。岡は窓ぎわに行ってカーテンの陰から
(こがいをすかしてみて、ぽけっとからこうちなうきぼりをほどこしたきんどけいを)
戸外をすかして見て、ポケットから巧緻な浮き彫りを施した金時計を
(とりだしてじかんをよんだりした。そしてすこしちゅうちょするように、)
取り出して時間を読んだりした。そして少し躊躇するように、
(「それはすこしむりだとわたし、おもいますが・・・あれだけのにもつを)
「それは少し無理だとわたし、思いますが・・・あれだけの荷物を
(かたづけるのは・・・」)
片づけるのは・・・」
(「むりだからこそあなたをみこんでおねがいするんですわ。そうねえ、)
「無理だからこそあなたを見込んでお願いするんですわ。そうねえ、
(いりようのないにもつをくらちさんのげしゅくにとどけるのはなにかもしれませんわね。)
入り用のない荷物を倉地さんの下宿に届けるのは何かもしれませんわね。
(じゃかまわないからおきてがみをばあやというのにわたしておいてくださいまし。)
じゃ構わないから置き手紙を婆やというのに渡しておいてくださいまし。
(そしてばあやにいいつけてあすでもくらちさんのところにはこばしてくださいまし。)
そして婆やにいいつけてあすでも倉地さんの所に運ばしてくださいまし。
(それならなにもいさくさはないでしょう。それでもおいや?いかが?)
それなら何もいさくさはないでしょう。それでもおいや? いかが?
(・・・ようございます。それじゃもうようございます。あなたをこんなに)
・・・ようございます。それじゃもうようございます。あなたをこんなに
(おそくまでおひきとめしておいて、またぞろめんどうなおねがいを)
おそくまでお引きとめしておいて、 又候(またぞろ)めんどうなお願いを
(しようとするなんてわたしもどうかしていましたわ。・・・さあちゃん)
しようとするなんてわたしもどうかしていましたわ。・・・貞(さあ)ちゃん
(なんでもないのよ。わたしいまおかさんとおはなししていたんですよ。)
なんでもないのよ。わたし今 岡さんとお話していたんですよ。
(きしゃのおとでもなんでもないんだから、しんぱいせずにおやすみ・・・)
汽車の音でもなんでもないんだから、心配せずにお休み・・・
(どうしてさだよはこんなにこわいことばかりいうようになってしまったんでしょう。)
どうして貞世はこんなに怖い事ばかりいうようになってしまったんでしょう。
(よなかなどにひとりでおきていてうわごとをきくとぞーっとするほどきみが)
夜中などに一人で起きていて譫言を聞くとぞーっとするほど気味が
(わるくなりますのよ。あなたはどうぞもうおひきとりくださいまし。)
悪くなりますのよ。あなたはどうぞもうお引き取りくださいまし。
(わたしくるまやをやりますから・・・」)
わたし車屋をやりますから・・・」
(「くるまやをおやりになるくらいならわたしいきます」)
「車屋をおやりになるくらいならわたし行きます」
(「でもあなたがくらちさんになんとかおもわれなさるようじゃおきのどくですもの」)
「でもあなたが倉地さんに何とか思われなさるようじゃお気の毒ですもの」
(「わたし、くらちさんなんぞをはばかっていっているのではありません」)
「わたし、倉地さんなんぞをはばかっていっているのではありません」
(「それはよくわかっていますわ。でもわたしとしてはそんなけっかも)
「それはよくわかっていますわ。でもわたしとしてはそんな結果も
(かんがえてみてからおたのみするんでしたのに・・・」)
考えてみてからお頼みするんでしたのに・・・」
(こういうおしもんどうのすえにおかはとうとうあいこのむかえにいくことに)
こういう押し問答の末に岡はとうとう愛子の迎えに行く事に
(なってしまった。くらちがそのよるはきっとあいこのところにいるにちがいないと)
なってしまった。倉地がその夜はきっと愛子の所にいるに違いないと
(おもったようこは、びょういんにとまるものとたかをくくっていたおかがとつぜんまよなかに)
思った葉子は、病院に泊まるものと高をくくっていた岡が突然真夜中に
(おとずれてきたのでくらちもさすがにあわてずにはいられまい。)
訪れて来たので倉地もさすがにあわてずにはいられまい。
(それだけのろうばいをさせるにしてもこころよいことだとおもっていた。)
それだけの狼狽をさせるにしても快い事だと思っていた。
(ようこはしゅくちょくべやにいって、したらなくねいったとうばんのかんごふを)
葉子は宿直部屋に行って、したらなく睡入った当番の看護婦を
(よびおこしてじんりきしゃをたのました。)
呼び起こして人力車を頼ました。
(おかはおもいいったようすでそっとさだよのびょうしつをでた。でるときにおかは)
岡は思い入った様子でそっと貞世の病室を出た。出る時に岡は
(もってきたぱらふぃんしにつつんであるつつみをひらくとうつくしいはなたばだった。)
持って来たパラフィン紙に包んである包みを開くと美しい花束だった。
(おかはそれをそっとさだよのまくらもとにおいてでていった。)
岡はそれをそっと貞世の枕もとにおいて出て行った。
(しばらくすると、しとしととふるあめのなかを、おかをのせたじんりきしゃが)
しばらくすると、しとしとと降る雨の中を、岡を乗せた人力車が
(はしりさるおとがかすかにきこえて、やがてとおくにきえてしまった。)
走り去る音がかすかに聞こえて、やがて遠くに消えてしまった。
(かんごふがはげしくげんかんのとじまりをするおとがひびいて、そのあとはひっそりと)
看護婦が激しく玄関の戸締まりをする音が響いて、そのあとはひっそりと
(よるがふけた。とおくのへやででぃふてりやにかかっているこどものなくこえが)
夜がふけた。遠くの部屋でディフテリヤにかかっている子供の泣く声が
(まどおにきこえるほかには、おとというおとはたえはてていた。)
間遠に聞こえるほかには、音という音は絶え果てていた。
(ようこはただひとりいたずらにこうふんしてくるうようなじぶんをみいだした。)
葉子はただ一人いたずらに興奮して狂うような自分を見いだした。
(ふみんですごしたよるがみっかもよっかもつづいているのにかかわらず、)
不眠で過ごした夜が三日も四日も続いているのにかかわらず、
(ねむけというものはすこしもおそってこなかった。おもしをつりさげたような)
睡気というものは少しも襲って来なかった。重石をつり下げたような
(ようぶのどんつうばかりでなく、ようぶはぬけるようにだるくひえ、かたは)
腰部の鈍痛ばかりでなく、腰部は抜けるようにだるく冷え、肩は
(うごかすたびごとにめりめりおとがするかとおもうほどかたくこり、あたまのしんは)
動かすたびごとにめりめり音がするかと思うほど固く凝り、頭の心(しん)は
(たえまなくぎりぎりといたんで、そこからやりどころのないひあいとかんしゃくとが)
絶え間なくぎりぎりと痛んで、そこからやりどころのない悲哀と疳癪とが
(こんこんとわいてでた。もうかがみはみまいとおもうほどかおはげっそりと)
こんこんとわいて出た。もう鏡は見まいと思うほど顔はげっそりと
(にくがこけて、めのまわりのあおぐろいかさは、さらぬだにおおきいめを)
肉がこけて、目のまわりの青黒い暈は、さらぬだに大きい目を
(ことさらにぎらぎらとおおきくみせた。かがみをみまいとおもいながら、)
ことさらにぎらぎらと大きく見せた。鏡を見まいと思いながら、
(ようこはおりあるごとにおびのあいだからかいちゅうかがみをだしてじぶんのかおをみつめないでは)
葉子はおりあるごとに帯の間から懐中鏡を出して自分の顔を見つめないでは
(いられなかった。)
いられなかった。