有島武郎 或る女119
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問題文
(つやはこんなぽつりぽつりとみじかいようこのことばをかきとりながら、)
つやはこんなぽつりぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、
(ときどきけげんなかおをしてようこをみた。ようこのくちびるはさびしくふるえて、)
時々怪訝な顔をして葉子を見た。葉子の口びるはさびしく震えて、
(めにはこぼれないていどになみだがにじみだしていた。)
目にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。
(「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなに)
「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなに
(なってしまったわたしのそばにいてくれるのは。・・・それだのに、)
なってしまったわたしのそばにいてくれるのは。・・・それだのに、
(わたしはこんなにれいらくしたすがたをあなたにみられるのがつらくって、)
わたしはこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、
(きたひはとちゅうからほかのびょういんにいってしまおうかとおもったのよ。)
来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。
(ばかだったわね」)
ばかだったわね」
(ようこはくちではなつかしそうにわらいながら、ほろほろとなみだをこぼしてしまった。)
葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
(「それをこのまくらのしたにいれておいておくれ。こんやこそはわたし)
「それをこの枕の下に入れておいておくれ。今夜こそはわたし
(ひさしぶりでやすやすとしたこころもちでねられるだろうよ、あすのしゅじゅつに)
久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、あすの手術に
(つかれないようによくねておかないといけないわね。)
疲れないようによく寝ておかないといけないわね。
(でもこんなによわっていてもしゅじゅつはできるのかしらん・・・)
でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん・・・
(もうかやをつっておくれ。そしてついでにねどこをもっとそっちに)
もう蚊帳をつっておくれ。そしてついでに寝床をもっとそっちに
(ひっぱっていって、つきのひかりがかおにあたるようにしてちょうだいな。)
引っぱって行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。
(とはねいったらひいておくれ。・・・それからちょっとあなたのてを)
戸は寝入ったら引いておくれ。・・・それからちょっとあなたの手を
(おかし。・・・あなたのてはあたたかいてね。このてはいいてだわ」)
お貸し。・・・あなたの手は温かい手ね。この手はいい手だわ」
(ようこはひとのてというものをこんなになつかしいものにおもったことはなかった。)
葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思った事はなかった。
(ちからをこめたてでそっといだいて、いつまでもやさしくそれをなでて)
力をこめた手でそっと抱いて、いつまでもやさしくそれをなでて
(いたかった。つやもいつかようこのきぶんにひきいれられて、はなを)
いたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻を
(すするまでになみだぐんでいた。)
すするまでに涙ぐんでいた。
(ようこはやがてうちひらいたしょうじからかやごしにうっとりとつきをながめながら)
葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳越しにうっとりと月をながめながら
(かんがえていた。ようこのこころはつきのひかりできよめられたかとみえた。くらちがじぶんを)
考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を
(すててにげだすためにかいたきょうげんがはからずそのすじのけんぎをうけたのか、)
捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の嫌疑を受けたのか、
(それともおそろしいばいこくのつみでかねをすらようこにおくれぬようになったのか、)
それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、
(それはどうでもよかった。よしんばめかけがいくにんあってもそれもどうでも)
それはどうでもよかった。よしんば妾が幾人あってもそれもどうでも
(よかった。ただすべてがむなしくみえるなかにくらちだけがただひとり)
よかった。ただすべてがむなしく見える中に倉地だけがただ一人
(ほんとうにいきたひとのようにようこのこころにすんでいた。)
ほんとうに生きた人のように葉子の心に住んでいた。
(たがいをだらくさせあうようなあいしかたをした、それもいまはなつかしい)
互いを堕落させ合うような愛しかたをした、それも今はなつかしい
(おもいでだった。)
思い出だった。
(きむらはおもえばおもうほどなみだぐましいふこうなおとこだった。そのおもいいった)
木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った
(こころもちはなにごともわだかまりのなくなったようこのむねのなかをしみずのように)
心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を清水のように
(ながれてとおった。)
流れて通った。
(たねんのはくがいにふくしゅうするじきがきたというように、おかまでをそそのかして、)
多年の迫害に復讐する時期が来たというように、岡までをそそのかして、
(ようこをみすててしまったとおもわれるあいこのこころもちにもようこはどうじょうができた。)
葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。
(あいこのなさけにひかされてようこをうらぎったおかのきもちはなおさら)
愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさら
(よくわかった。)
よくわかった。
(ないてもないてもなきたりないようにかわいそうなのはさだよだった。)
泣いても泣いても泣き足りないようにかわいそうなのは貞世だった。
(あいこはいまにきっとじぶんいじょうにおそろしいみちにふみまようおんなだとようこはおもった。)
愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。
(そのあいこのただひとりのいもうととして・・・もしもじぶんのいのちがなくなって)
その愛子のただ一人の妹として・・・もしも自分の命がなくなって
(しまったあとは・・・そうおもうにつけてようこはうちだをかんがえた。)
しまった後は・・・そう思うにつけて葉子は内田を考えた。
(すべてのひとはなにかのちからでながれていくべきさきにながれていくだろう。そして)
すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そして
(しまいにはだれでもじぶんとどうようにひとりぼっちになってしまうんだ。)
しまいにはだれでも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。
(・・・どのひとをみてもあわれまれる・・・ようこはそうおもいふけりながら)
・・・どの人を見てもあわれまれる・・・葉子はそう思いふけりながら
(しずかにしずかににしにまわっていくつきをみいっていた。そのつきのりんかくが)
静かに静かに西に回って行く月を見入っていた。その月の輪郭が
(だんだんぼやけてきて、そらのなかにうきただようようになると、)
だんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、
(ようこのまつげのひとつひとつにもつきのひかりがやどった。なみだがめじりからあふれて)
葉子のまつ毛の一つ一つにも月の光が宿った。涙が目じりからあふれて
(りょうほうのこめかみのところをくすぐるようにするするとながれくだった。)
両方のこめかみの所をくすぐるようにするすると流れ下った。
(くちのなかはねんえきでねばった。ゆるすべきなんぴともない。ゆるさるべき)
口の中は粘液で粘った。許すべき何人(なんぴと)もない。許さるべき
(なにごともない。ただあるがまま・・・ただいちまつのきよいかなしいしずけさ。)
何事もない。ただあるがまま・・・ただ一抹の清い悲しい静けさ。
(ようこのめはひとりでにとじていった。)
葉子の目はひとりでに閉じて行った。
(ととのったこきゅうがかるくこばなをふるわしてながれた。)
整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
(つやがとをたてにそーっとそのへやにはいったときには、ようこはびょうきを)
つやが戸を閉てにそーっとその部屋にはいった時には、葉子は病気を
(わすれはてたもののように、がたぴしととをしめるおとにもめざめずに)
忘れ果てたもののように、がたぴしと戸を締める音にも目ざめずに
(やすらけくねいっていた。)
安らけく寝入っていた。
(よんじゅうはちそのよくあさしゅじゅつだいにのぼろうとしたようこはさくやのようことは)
【四八】 その翌朝手術台にのぼろうとした葉子は昨夜の葉子とは
(べつじんのようだった。はげしいよびりんのおとによばれてつやがびょうしつにきたときには、)
別人のようだった。激しい呼び鈴の音に呼ばれてつやが病室に来た時には、
(ようこはねどこからおきあがって、したためおわったてがみのじょうぶくろを)
葉子は寝床から起き上がって、したため終わった手紙の状袋を
(ふうじているところだったが、それをつやにわたそうとするしゅんかんに)
封じている所だったが、それをつやに渡そうとする瞬間に
(いきなりいやになって、くちびるをぶるぶるふるわせながらつやのみているまえで)
いきなりいやになって、口びるをぶるぶる震わせながらつやの見ている前で
(それをずたずたにさいてしまった。それはあいこにあてたてがみだったのだ。)
それをずたずたに裂いてしまった。それは愛子にあてた手紙だったのだ。
(きょうはしゅじゅつをうけるからくじまでにぜひともたちあいにくるようにと)
きょうは手術を受けるから九時までにぜひとも立ち会いに来るようにと
(したためたのだった。いくらきじょうぶでもはらをたちわるおそろしいしゅじゅつを)
したためたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を
(としわかいしょうじょがみていられないくらいはしっていながら、ようこはなにがなしに)
年若い少女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに
(あいこにそれをみせつけてやりたくなったのだ。じぶんのうつくしいにくたいが)
愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体が
(むごたらしくきずつけられて、そこからじょうみゃくをながれているどすぐろいちが)
むごたらしく傷つけられて、そこから静脈を流れているどす黒い血が
(ながれでる、それをあいこがみているうちにきがとおくなって、そのままそこに)
流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこに
(うちたおれる、そんなことになったらどれほどこころよいだろうとようこはおもった。)
打ち倒れる、そんな事になったらどれほど快いだろうと葉子は思った。
(いくどきてくれろとでんわをかけても、なんとかこうじつをつけてこのごろ)
幾度来てくれろと電話をかけても、何とか口実をつけてこのごろ
(みもかえらなくなったあいこに、これだけのふくしゅうをしてやるのでも)
見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐をしてやるのでも
(すこしはむねがすく、そうようこはおもったのだ。しかしそのてがみを)
少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙を
(つやにわたそうとするだんになると、ようこにはおもいもかけぬちゅうちょがきた。)
つやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊躇が来た。
(もししゅじゅつちゅうにはしたないうわごとでもいってそれをあいこにきかれたら。)
もし手術中にはしたない譫言でもいってそれを愛子に聞かれたら。
(あのれいこくなあいこがおもてもそむけずにじっとあねのにくたいが)
あの冷刻な愛子が面(おもて)もそむけずにじっと姉の肉体が
(きりさいなまれるのをみつづけながら、こころのなかでぞんぶんにふくしゅうしんを)
切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心を
(まんぞくするようなことがあったら。)
満足するような事があったら。
(こんなてがみをうけとってもてんであいてにしないであいこがこなかったら・・・)
こんな手紙を受け取ってもてんで相手にしないで愛子が来なかったら・・・
(そんなことをよそうするとようこはてがみをかいたじぶんにあいそがつきてしまった。)
そんな事を予想すると葉子は手紙を書いた自分に愛想が尽きてしまった。
(つやはおそろしいまでにげきこうしたようこのかおをみやりもしえないで、)
つやは恐ろしいまでに激昂した葉子の顔を見やりもし得ないで、
(おずおずとたちもやらずにそこにかしこまっていた。ようこはそれが)
おずおずと立ちもやらずにそこにかしこまっていた。葉子はそれが
(たまらないほどしゃくにさわった。じぶんにたいしてすべてのひとが)
たまらないほど癪にさわった。自分に対してすべての人が
(ふつうのにんげんとしてまじわろうとはしない。きょうじんにでもせっするような)
普通の人間として交わろうとはしない。狂人にでも接するような
(しうちをみせる。だれもかれもそうだ。いしゃまでがそうだ。)
仕打ちを見せる。だれも彼もそうだ。医者までがそうだ。
(「もうようはないのよ。はやくあっちにおいで。おまえはわたしを)
「もう用はないのよ。早くあっちにおいで。お前はわたしを
(きちがいとでもおもっているんだろうね。)
気狂(きちが)いとでも思っているんだろうね。
(・・・はやくしゅじゅつをしてくださいってそういっておいで。)
・・・早く手術をしてくださいってそういっておいで。
(わたしはちゃんとしぬかくごをしていますからねってね」)
わたしはちゃんと死ぬ覚悟をしていますからねってね」
(ゆうべなつかしくにぎってやったつやのてのことをおもいだすと、)
ゆうべなつかしく握ってやったつやの手の事を思い出すと、
(ようこはおうとをもよおすようなふかいをかんじてこういった。)
葉子は嘔吐を催すような不快を感じてこういった。
(きたないきたないなにもかもきたない。)
きたないきたない何もかもきたない。
(つやはしょざいなげにそっとそこをたっていった。ようこはめでかみつくように)
つやは所在なげにそっとそこを立って行った。葉子は目でかみつくように
(そのうしろすがたをみおくった。)
その後ろ姿を見送った。