夢野久作 笑う唖女 ①
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問題文
(「きききけえけえけえききききっ」)
「キキキ……ケエケエケエ……キキキキッ」
(けいようのできないきみょうなこえが、とつぜんにきこえてきたので、ざしきじゅうみなしんとなった。)
形容の出来ない奇妙な声が、突然に聞こえて来たので、座敷中皆シンとなった。
(それはこのうえもないめでたいざしきであった。)
それはこの上もない芽出度《めでた》い座敷であった。
(あまかわけのおくざしき。じゅうじょうとじゅうにじょうつづきのひろまにもんつき)
甘川《あまかわ》家の奥座敷。十畳と十二畳続きの広間に紋付《もんつき》
(はかまのおおぜいのおきゃくが、さけをのんでわいわいいっていた。きみょうなようきょくを)
袴《はかま》の大勢のお客が、酒を飲んでワイワイ云っていた。奇妙な謡曲を
(うたうもの、りゅうこうぶしをうたいうたいすわったままおどりだしているもの)
謡《うた》う者、流行節を唄い唄い座ったまま躍《おど》り出しているもの……
(ふあんとか、ふきつとかいうかげのみじんもさしていない、じゅんぼく)
不安とか、不吉とかいう影のミジンも映《さ》していない、醇朴《じゅんぼく》
(そのもののようないなかのひとびとのあつまりであった。それがみな、)
そのもののような田舎《いなか》の人々の集まりであった。それが皆、
(とつぜんにしんとしてしまったのであった。)
突然にシンとしてしまったのであった。
(「なんじゃったろかい。いまのこえは」)
「……何じゃったろかい。今の声は……」
(「けだものじゃろか」)
「ケダモノじゃろか」
(「とりじゃろか」)
「鳥じゃろか」
(「さるとにんげんとあいのこのような」)
「猿と人間と合の子のような……」
(「はるさきにもずはなかんはずじゃが」)
「……春先に鵙《もず》は啼《な》かん筈じゃが……」
(みな、そのこえのほうこうにかおをむけてみみをすました。ふたまのとこのまにたんゆうの)
皆、その声の方向に顔を向けて耳を澄ました。二間の床の間に探幽の
(しんのうさまと、まつとたけのさんぷくつい。そのまえにしんろうの)
神農《しんのう》様と、松と竹の三幅対《さんぷくつい》。その前に新郎の
(とうしゅあまかわすみおと、しんぷのはつえ。そのみぎのしもてにしんろうのおやがわりのそんちょうふうふ。)
当主甘川澄夫と、新婦の初枝。その右の下手に新郎の親代りの村長夫婦。
(そのむかいがわにはよめじょのじっぷで、こっとうひんぜんとやせこけた)
その向い側には嫁女《よめじょ》の実父で、骨董品然と痩《や》せこけた
(やぎひげのとんのようはくと、そのごさいのふとったろうじん。)
山羊鬚《やぎひげ》の頓野《とんの》羊伯と、その後妻の肥った老人。
(なこうどやくのぐんいしかいちょう、くりのいがくはくしふさいは、さすがにすっきりした)
仲人役の郡医師会長、栗野医学博士夫妻は、流石《さすが》にスッキリした
(ふろっくこーとにまるまげもんぷくで、にしびのいっぱいにあたった)
フロックコートに丸髷《まるまげ》紋服で、西日《にしび》の一パイに当った
(えんがわのしょうじのまえにすわっていた。そのた、むらやくばいん、ちゅうざいしょいん、)
縁側の障子《しょうじ》の前に坐っていた。その他、村役場員、駐在所員、
(くちょう、しょうぼうがしら、せいねんかいちょう、どうかんじといったような、むらでも)
区長、消防頭《がしら》、青年会長、同幹事といったような、村でも
(やかましいろうにゃくがいちだーすばかりしもざにがんばって、ところせましと)
八釜《やかま》しい老若が一ダースばかり下座《しもざ》に頑張って、所狭しと
(ならんだいなかりょうりをさかんにぱくついては、うじがみさまからかりてきたごごう、いっしょう、)
並んだ田舎料理を盛んにパク付いては、氏神様から借りて来た五合、一升、
(いっしょうごごういりのさんくみのおおさかずきをまわしている。みなそうとうよっているとはいうものの、)
一升五合入の三組の大盃を廻わしている。皆相当酔っているとはいうものの、
(まだ、ほんのじょのくちといってもいいざしきであった。)
まだ、ほんの序の口といってもいい座敷であった。
(えんがわのしょうじぎわにすわっているなこうどやくのくりのはくしふさいはさいぜんから)
縁側の障子際《しょうじぎわ》に坐っている仲人役の栗野博士夫妻は最前から
(しきりにきをもんで、しんろうしんぷにせきをはずさせようとして)
頻《しき》りに気を揉《も》んで、新郎新婦に席を外《はず》させようとして
(いたが、いなかのふうぞくになれないしんろうのすみおが、もじもじしているくせになかなか)
いたが、田舎の風/俗に慣れない新郎の澄夫が、モジモジしている癖にナカナカ
(たちそうになかった。やっとたちあがりそうなこしがまえになるとまたも、さかずきを)
立ちそうになかった。やっと立上りそうな腰構えになると又も、盃を
(ちょうだいにくるものがいるのでまたもしりをおちつけなければならなかった。)
頂戴《ちょうだい》に来る者がいるので又も尻を落付けなければならなかった。
(そうして、やっとさかずきがたえたきかいをみはからってほんきにたちあがろうとした)
そうして、やっと盃が絶えた機会を見計《みはから》って本気に立上ろうとした
(ところへ、いまいちどまえとちがったきかいなさけびごえがきこえたので、またもぺたりとこしを)
ところへ、今一度前と違った奇怪な叫び声が聞こえたので、又もペタリと腰を
(おろしたのであった。)
卸《おろ》したのであった。
(「あわあわあわえべえべえべ」)
「アワアワアワ……エベエベ……エベ……」
(「なにじゃい。あれおしやんのこえじゃないかい」)
「何じゃい。アレ唖《おし》ヤンの声じゃないかい」
(「おしやんのひにんがなにかもらいにきとるんじゃろ」)
「唖ヤンの非/人が何か貰いに来とるんじゃろ」
(「うん。おげんかんのほうがくじゃ」)
「ウン。お玄関の方角じゃ」
(「ああ、びっくりした。おれはまたいきたさるのかわをはぎよるのかとおもうた」)
「ああ、ビックリした。俺はまた生きた猿の皮を剥《は》ぎよるのかと思うた」
(「しっさるなんちこというなよ」)
「……シッ……猿ナンチ事云うなよ」
(そんなかいわをうちけすようにまっせきからひとりのきょかんがたちあがってきた。)
そんな会話を打消すように末席から一人の巨漢が立上って来た。
(「なあはなむこどん。いやさわかせんせい。はなよめごはしっかりあんたに)
「なあ花婿どん。イヤサ若先生。花嫁御《はなよめご》はシッカリあんたに
(ほれてござるばい」)
惚れて御座るばい」
(そういううちにしんろうのまえへいっしょういりのおおさかずきをさしつけたのはこのむらのじょやくで、むら)
そう云ううちに新郎の前へ一升入の大盃を差突けたのはこの村の助役で、村
(いちばんのおおざけのみのくろやまでんろくろうであった。みるからにけっしょくのいいはげあたま)
一番の大酒飲の黒山伝六郎であった。見るからに血色のいい禿頭《はげあたま》
(のおおにゅうどうで、すみおのぜんのむこうにおおあぐらをかいたむしゃぶりはどうどうたる)
の大入道で、澄夫の膳の向うに大胡座《おおあぐら》をかいた武者振は堂々たる
(ものであったが、はかまのこしいたをしりのしたにしいているので、はなよめのはつえがきがつくと)
ものであったが、袴の腰板を尻の下に敷いているので、花嫁の初枝が気が附くと
(まっかになってしたをむいた。)
真赤になって下を向いた。
(すみおはうやうやしくおおさかずきをおしいただいたが、でんろくろうが)
澄夫は恭《うやうや》しく大盃を押戴《おしいただ》いたが、伝六郎が
(ありあうあつかんをまるさんほんぶんさかさまにしたので、)
在合《ありあ》う熱燗《あつかん》を丸三本分逆様《さかさま》にしたので、
(のみなやんだらしくしたにおいてくちをふいた。)
飲み悩んだらしく下に置いて口を拭いた。
(でんろくろうはりょうひじをはってめをすえた。ざしきじゅうにひびきわたるのてんごえ)
伝六郎は両肱を張って眼を据えた。座敷中に響き渡る野天声《のてんごえ》
(をだした。)
を出した。
(「なあわかせんせい。いやさすみおせんせい。ほれとるのははなよめごばかりじゃないばい。)
「なあ若先生。イヤサ澄夫先生。惚れとるのは花嫁御ばかりじゃないばい。
(むらじゅうのむすめがそうたいにほれとる。おれでもほれとる。なあ。このむらではじめてのがくしさま)
村中の娘が総体に惚れとる。俺でも惚れとる。なあ。この村で初めての学士様
(じゃもの。しかもゆうとうのぎんどけいさまちうたらにほんにたったひとりじゃものなあ。)
じゃもの。しかも優等の銀時計様ちうたら日本にたった一人じゃもの……なあ。
(がくもんばっかりじゃない。てにすとかぺ-にすとかいうものはがっこうでもいちばんの)
学問ばっかりじゃない。テニスとかペ-ニスとかいうものは学校でも一番の
(ちゃんぽんとかちん-ぽんとかいうくらいじゃげな」)
チャンポンとかチン-ポンとかいう位じゃげな」
(なこうどのぐんいしかいちょうふさいと、とんのろうふうふと、しんろうしんぷが、はらをかかえてわらい)
仲人の郡医師会長夫妻と、頓野老夫婦と、新郎新婦が、腹を抱えて笑い
(だした。しもざのほうのわかいれんちゅうがまたつづいておおごえでげらげらわらいはじめたので、)
出した。下座の方の若い連中が又続いて大声でゲラゲラ笑い初めたので、
(でんろくろうはそのほうににゅうどうくびをねじむけてしたなめずりをした。)
伝六郎はその方に入道首を捻《ね》じ向けて舌なめずりをした。
(「なにかい。なにがおかしかい。おれのえいごがなにがおかしい。まだまだ)
「……何かい。何が可笑《おか》しかい。俺の英語が何が可笑しい。まだまだ
(しっとるぞちくしょう。なあとんのせんせい。そうじゃろがなあ。おとこぶりちうたならとーきー)
知っとるぞ畜生。なあ頓野先生。そうじゃろがなあ。男ぶりチウタならトーキー
(かつどうのろいどよりも、まっとまっとええおとこじゃしなあ。ばんつまでも)
活動のロイドよりも、まっとまっとええ男じゃしなあ。阪妻《ばんつま》でも
(りゅうのすけでもおいつかん。とーきーおよばんちうことばは、これからはじまった)
龍之介でも追付《おいつ》かん。トーキー及ばんチウ言葉は、これから初まった
(げなええ。わらうなわらうな。きさまたちはとーきーかつどうちうものをばみたことが)
ゲナ……ええ。笑うな笑うな。貴様達はトーキー活動ちうものをば見た事が
(あるか。あるめえが。このせけんしらずのやまざるどもが。きんぐこんぐのたれ)
あるか。あるめえが。この世間知らずの山猿どもが。キングコングの垂《た》れ
(かすどもが」)
粕《かす》どもが……」
(「あはははもうわかったわかった。もうとめてくれたまえでんろくくん。はらのかわが)
「アハハハ……もうわかったわかった。もう止めてくれ給え伝六君。腹の皮が
(よじきれる。あはははは」)
捩《よ》じ切れる。アハハハハ……」
(「おほほほほほほほほほ」)
「オホホホホホホホホホ」
(「まあ、そういわっしゃるな。そのさかずきをばつーっとひとつかたづけさっしゃい。なあ)
「まあ、そう云わっしゃるな。その盃をばツーッと一つ片付けさっしゃい。なあ
(わかせんせい。おれあいらんことはひとつもいいよらん。みなにいうてきかせよるとこじゃ。)
若先生。俺あ要らん事は一つも云いよらん。皆に云うて聞かせよるとこじゃ。
(なあわかせんせいはむらでたったひとりのおいしゃさまじゃ。しかしこげなやまのなかの)
なあ……若先生は村でタッタ一人のお医者様じゃ。しかしこげな山の中の
(すかんぴんむらにはすぎたがくしさまじゃ。せんだいのなかどまりせんせいもいうちゃ)
素寒貧村《すかんぴんむら》には過ぎた学士様じゃ。先代の仲伯先生も云うちゃ
(すまんが、がっこうはでちゃござらんかんぽうのせんせいじゃ。こんどのいしかいちょうのおせわで、)
済まんが、学校は出ちゃ御座らん漢方の先生じゃ。今度の医師会長のお世話で、
(となりむらのとんのせんせいのおじょうさんしかもじょがっこうをばいちばんでそつぎょうさっしゃった)
隣村の頓野先生のお嬢さん……しかも女学校をば一番で卒業さっしゃった
(さいえんすええなにがおかしいか。ばかあ。なにいさいえん?)
サイエンス……ええ……何が可笑しいか。馬鹿ア。ナニイ……サイエン?
(さいえんがほんまちうのかばかあ。へげたれえ。すのじがつくと)
サイエンが本真《ほんま》チウのか……馬鹿あ。ヘゲタレエ。スの字が附くと
(つかぬだけのちがいじゃないか。うぐいすとうぐいかますとかまなにい)
附かぬだけの違いじゃないか。ウグイスとウグイ……カマスとカマ……ナニイ
(おおちがいじゃあおおちがいじゃとも。さいえんすのほうがさいえんよりもよっぽど)
大違いじゃあ……大違いじゃとも。サイエンスの方がサイエンよりもヨッポド
(じょうとうじゃ。もんだいになるけえ。じょうとうのしょうこにこれほどのべっぴんさんが)
上等じゃ。問題になるけえ。上等の証拠にコレ程の別嬪《べっぴん》さんが
(にほんじゅうにあるとおもうか。なあいしかいちょうさん。さいえんすちうのはべっぴんさんの)
日本中に在ると思うか。なあ医師会長さん。サイエンスちうのは別嬪さんの
(ことだっしょう。せいようのおののこまちというてみたようなへえへえ。それみろ。)
事だっしょう。西洋の小野の小町というてみたような……ヘエヘエ。それみろ。
(おれのえいごはほんものじゃ。ようきいとけ。ろいどちうのはいろおとこのことぞ。はくらいのなりひら)
俺の英語は本物じゃ。よう聞いとけ。ロイドちうのは色男の事ぞ。舶来の業平
(さんのことぞ。せるろいどとまちがえるな。そのにほんのなりひらさんと、)
《なりひら》さんの事ぞ。セルロイドと間違えるな。その日本の業平さんと、
(おののこまちとこのむらでけっこんさっしゃる。しんしきのびょういんをかいぎょうさっしゃる。おかげで)
小野小町とこの村で結婚さっしゃる。新式の病院を開業さっしゃる。お蔭で
(むらのものがひとりのこらずながいきする。なあこれくらいめでたいことはない)
村の者が一人残らず長生きする。なあ……これ位芽出度《めでた》い事は無い
(なあいしかいちょうさん。しんだせんせいもよろこんでござろう」)
なあ医師会長さん。死んだ先生も喜んで御座ろう」
(でんろくろうはとこのまのうえにならんでかかっているにまいのがくをみあげた。)
伝六郎は床の間の上に並んで架《か》かっている二枚の額を見上げた。
(ふるびたきんぶちのなかにきわめてへたなあぶらえのろうふうふのわふくすがたがひからびたまま)
古びた金縁の中に極めて下手な油絵の老夫婦の和服姿が乾涸《ひから》びたまま
(にこにこしていた。)
ニコニコしていた。