夢野久作 笑う唖女 ⑥

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(かれはとつぜんにめをとじ、くちびるをかみしめて、ぞうきやぶのなかを)

彼は突然に眼を閉じ、唇を噛締《かみし》めて、雑木藪《ぞうきやぶ》の中を

(めくらめっぽうにばくしんしはじめた。あたかもはいごから)

盲滅法《めくらめっぽう》に驀進《ばくしん》し初めた。あたかも背後から

(おいかけてくるなにかのおそろしいゆうわくからのがれようとするかのように、または、それが)

追かけて来る何かの怖ろしい誘惑から逃れようとするかのように、又は、それが

(とうぜん、いしのはくじゃくなかれが、せきばつとしてうけねばならぬくぎょうであるかのように、)

当然、意志の薄弱な彼が、責罰として受けねばならぬ苦行であるかのように、

(あわせぎぬいちまいのぜんしんにちくちくささるまつやたけのえだ、あらわな)

袷衣《あわせぎぬ》一枚の全身にチクチク刺さる松や竹の枝、露《あら》わな

(むこうずねからうちまたをがりがりとひっかきつきさすくさやきのとげばりのぎょうれつの)

向う脛《ずね》から内股をガリガリと引っ掻き突刺す草や木の刺針の行列の

(いたさをかまわずに、めくらめっぽうにぜんしんした。ぜんしんあせにまみれて、いきをきらした。)

痛さを構わずに、盲滅法に前進した。全身汗にまみれて、息を切らした。

(そうしてむねがくるしくなって、めがまわりそうになってきたとき、とつぜんに、まえを)

そうして胸が苦しくなって、眼がまわりそうになって来た時、突然に、前を

(さえぎるぞうきやぶのていこうをかんじなくなったので、かれはひょろひょろと)

遮《さえぎ》る雑木藪の抵抗を感じなくなったので、彼はヒョロヒョロと

(よろめいてたちどまった。)

よろめいて立佇《たちど》まった。

(かれはまだめをとじていた。はだかったむねと、あらわになったりょうあしをふく)

彼はまだ眼を閉じていた。はだかった胸と、露《あら》わになった両脚を吹く

(すずしいかぜをかんじながら、とおくちかくからまばらにきこえてくるつくつくぼうし)

涼しい風を感じながら、遠く近くから疎《まばら》に聞こえて来るツクツク法師

(のこえにみみをかたむけていた。やまじゅうのしずけさがひしひしと)

の声に耳を傾けていた。山中《やまじゅう》の静けさがヒシヒシと

(みにしみとおるのをかんじていた。)

身に泌《し》み透るのを感じていた。

(とつぜん、とりともけだものともつかぬきみょうなこえがけたたましく)

突然、鳥とも獣《けだもの》とも附かぬ奇妙な声がケタタマシク

(かれをおどろかした。)

彼を驚ろかした。

(「けけけけけけけけけ」)

「ケケケケケケケケケ……」

(かれはびっくりしてめをみひらいた。かれはやまのなかのあきちのいったんに)

彼はビックリして眼を見開いた。彼は山の中の空地の一端に

(たたずんでいたのであった。)

佇んでいたのであった。

(そこはきょだいなくすやえのきにかこまれたきゅうりょうのうえのあきちであった。このむらのむかしのなぬしの)

そこは巨大な楠や榎に囲まれた丘陵の上の空地であった。この村の昔の名主の

など

(やしきあとで、かなりにひろいへいちいちめんにひくいおざさがざわざわとはえ)

屋敷趾《あと》で、かなりに広い平地一面に低い小笹がザワザワと生え

(かぶさっている。そのむこうのかたすみにやねがくさだらけになって、しらかべが)

覆《かぶ》さっている。その向うの片隅に屋根が草だらけになって、白壁が

(ぼろぼろになったどぞうがひととまえ、くちのこっていた。)

ボロボロになった土蔵が一戸前《ひととまえ》、朽ち残っていた。

(そのそうこのにかいのれんじまどからしろいてがでていっしんにかれをさしまねいて)

その倉庫の二階の櫺子《れんじ》窓から白い手が出て一心に彼をさし招いて

(いる。そのてのかげに、すごいほどしろくぬったわかいおんなのかおと、きみのわるいほどあかいくちびる)

いる。その手の陰に、凄い程白く塗った若い女の顔と、気味の悪い程赤い唇

(と、こうごうしいくらいじゅんしんにかがやくひとみと、ひたいにみだれかかった)

と、神々《こうごう》しいくらい純真に輝く瞳と、額に乱れかかった

(おびただしいかみのけがみえた。それがまどからさしこむはげしいこうせんに)

夥《おびただ》しい髪毛が見えた。それが窓から挿《さ》し込む烈しい光線に

(しろいはをうつくしくかがややかした。)

白い歯を美しく輝やかした。

(「きききひひひけけけ」)

「……キキキ……ヒヒヒ……ケケケ……」

(そのゆうれいのようにすごいうつくしさなまめかしさ。めもくらむほどの)

その幽霊のように凄い美くしさ……なまめかしさ。眼も眩《くら》むほどの

(みわくはくちゅうのようせい。)

魅惑……白昼の妖精……。

(かれはほねのずいまでぞーっとしながらぜんごさゆうをみまわした。)

彼は骨の髄までゾーッとしながら前後左右を見まわした。

(かれのあたまのうえにはまなつのあおぞらがしーんとすみわたってせみのこえさえとだえている。)

彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶えている。

(かれをみまもっているものは、あきちのしほうをかこむきぎのみきばかりである。)

彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。

(かれはぜんしんをいしのようにかたくした。しずかにささはらをわけてどぞうのほうへちかづいた。)

彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。

(まどのかおがいまいちどうれしそうにききとわらった。すぐにてをひっこめて、)

窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、

(まどぎわからはなれて、したへおりていくけはいであった。)

窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。

(どぞうのとまえにはかんたんなひっかけわてつがひっかかって、たよりないかれえだがいっぽんさし)

土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し

(こんであるきりであった。それをひきぬくとどうじにうちがわで、おちさんをあげるおとが)

込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音が

(ことりとした。かれはめがくらんだ。こきゅうをはずませながらおもいいたどを)

コトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸を喘《はず》ませながら重い板戸を

(ごとりごとりとあけた。)

ゴトリゴトリと開けた。

(「ききききききききき」)

「キキキキキキキキキ……」

(そこまでかんがえつづけてくるとかれはねどこのなかでいっそうからだをひきちぢめた。)

そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。

(はいごにすやすやとねむっているらしいはなよめはつえのねいきをてつびんのゆげのおとと)

背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と

(いっしょにききながらなおもかんがえつづけた。)

一所に聞きながらなおも考え続けた。

(それはかれのうまれてはじめてのかしつであるとどうじに、かれのりょうしんのさいごの)

……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の

(ちめいしょうであった。)

致命傷であった。

(そのあと、そのじゅうだいなかしつのあいてであるおしやんのおはながゆくえふめいとなり、)

その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛《ゆくえ》不明となり、

(そのおはなのことばをりかいしえるたったひとりのちちおや、もんぱちが、かのじょをなくしたかなしみ)

そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女を無くした悲しみ

(のあまりにくびをくくってしんだときいたときにはかれは、しょうじきのところほっと)

の余りに首を縊《くく》って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッと

(したものであった。もはや、てんちのかんにかれのひみつをしっているものはひとりもない。)

したものであった。最早、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。

(このわずかなひみつのきおくひとつを、かれじしんがきれいにわすれてしまいさえ)

この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終《しま》いさえ

(すれば、かれはいままでとおりのかんぜんむけつのどうていぜったいむくのせいねんとしてひょうばんの)

すれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の

(びじんはつえをめとることができるのだ。)

美人……初枝を娶《めと》る事が出来るのだ。

(「おおかみさま。かみさま。どうぞこのひみつをおまもりください。このわたしのつみをおわすれ)

「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ

(ください。もうけっしてけっしてにどとこんなことをしませんから」)

下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」

(とかれはひとしれずものかげで、てをあわせたことさえあったくらい、そうしたおもいでその)

と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出その

(ものをおそれ、おののき、こうかいしていた。そうしてかれはこうふくにもいちにちいちにちと)

ものを恐れ、戦《おのの》き、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と

(ひをおくっていくうちに、もうほとんど、そうしたりょうしんのいたでをわすれ)

日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手《いたで》を忘れ

(かけていた。かれはかれじしんのしゃかいにたいするいっさいのやしんとよくぼうをなげうって、)

かけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望を擲《なげう》って、

(びじんのつまといっしょにいなかにうずもれるという、なみだぐましいほどにかんびなゆめを、)

美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、

(あんしんして、よるとなくひるとなくおいつづけているところであった。)

安心して、夜となく昼となく逐《お》い続けているところであった。

(そのかんびなゆめが、いま、むざんにもたたきやぶられてしまったのであった。)

その甘美な夢が、今、無残にもタタキ破られてしまったのであった。

(ときもときおりもおりわすれるともなくわすれて、きえるともなくきえうせていた)

時も時……折も折……忘れるともなく忘れて、消えるともなく消え失せていた

(かれのかこのかすかなひみつが、とつぜんに、なんぜん、なんまん、なんおくばいされたおそろしい)

彼の過去の微《かす》かな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい

(げんじつとなってかれのめのまえにしゅつげんし、せっぱくしてきたのであった。)

現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。

(みるもあさましいはらみおんな。ものをえいわぬろうあしゃ。それがくちにこそ)

見るも浅ましい孕《はら》み女。物を得《え》言わぬろう唖者。それが口にこそ

(いいえね、てまねにこそだしえね、せいとうなかれのつまであることをげんじつにりっしょうし、ようきゅう)

云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求

(すべくたあらわれてきたのであった。それは、ほかのにんげんたちにはぜったいにわから)

すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわから

(ない、ただかれにだけりかいされるおそろしい、ふかこうてきなふくしゅうにそういなかった。)

ない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。

(もしもかのじょがたったひとことでもものをいいえたらいないな。)

……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々《いないな》。

(ひとりでもかのじょのてまねをせいとうにりかいしえるものがいたらそうして、それだけの)

一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの

(きょうふ、ふあん、せんりつを、きょうのひにかぎってこのいえのげんかんにもちこんできたのが、)

恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、

(かのじょのいしきてきなけいかくであったら。)

彼女の意識的な計劃であったら……。

(それがさながらにあくまのちえでけいかくされたふくしゅうのようにざんこくな、)

……それがさながらに悪魔の智慧《ちえ》で計劃された復讐のように残酷な、

(てきびしいじきとばめんをえらんできたことはとてもぐうぜんとおもえない。)

手酷《てきび》しい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。

(はくちのひとつおぼえしきのいちねんで、いわずかたらずのうちにかのじょがそうした)

白/痴の一つ記憶《おぼえ》式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうした

(ところをねらって、じきをまっていたかのようにもおもえる。またはぜんぜんそうでない)

ところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでない

(かのようにもおもえる。)

かのようにも思える……。

(そうしたはんだんのふかのうなことをかんがえあわせると、そのきょうふ、ふあん、せんりつが)

……そうした判断の不可能な事を考え合せると、その恐怖、不安、戦慄が

(さらにさらにしんぴすうそうばいされてくるのであった。)

更に更に神秘数層倍されて来るのであった。

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