夢野久作 笑う唖女 ⑤

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1 てんぷり 5827 A+ 6.0 96.7% 701.9 4233 143 71 2024/10/19

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問題文

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(かつてとのさまのおたかののときに、ごきゅうそくじょになったというじゅうじょうの)

嘗《かつ》て殿様のお鷹野《たかの》の時に、御休息所になったという十畳の

(はなれざしきは、しょうじがあたらしくはりかえられ、とこのまに)

離座敷《はなれざしき》は、障子が新しく張換《はりか》えられ、床の間に

(こりゅうのしょうちくがいけられて、さびのふかいじゅうだいのきんびょうぶがにまいたて)

古流の松竹が生《い》けられて、寂《さ》びの深い重代の金屏風が二枚建て

(まわしてある。そのなかにわちがいのもんと、すみえのうまをそめだした)

まわしてある。その中に輪違いの紋と、墨絵の馬を染出《そめだ》した

(ちりめんのだいやぐがたかだかとしかれて、むかしふうのむらさきぼうの)

縮緬《ちりめん》の大夜具が高々と敷かれて、昔風の紫房の

(くくりまくらをねどこのうえに、かねふさのついたしゅぬりのたかまくらを、)

括枕《くくりまくら》を寝床の上に、金房の附いた朱塗の高枕を、

(まくらもとのかたそばにおいてあった。)

枕元の片傍《かたそば》に置いてあった。

(そのまくらもとにちかいじょりんのながひばちのうえにかかったてつびんからしゅんしゅん)

その枕元に近い如鱗《じょりん》の長火鉢の上に架かった鉄瓶からシュンシュン

(とゆげがたっていた。)

と湯気が立っていた。

(なこうどくりのはかせから、おしやんにたいするでんろくろうのこうじょうを、みぶりてまね、)

仲人栗野博士から、唖女に対する伝六郎の口上を、身振り手真似、

(こわいろいりできかされたはなよめのはつえは、たしなみもわすれて、)

声色《こわいろ》入りで聞かされた花嫁の初枝は、たしなみも忘れて、

(こえをたてながらわらいいった。そうして、)

声を立てながら笑い入った。そうして、

(「まあまあだいじにしてやんなさい。いしゃのにんきというものはこんなことから)

「まあまあ大事にしてやんなさい。医者の人気というものはコンな事から

(たつものじゃけにそのうちにわたしがけんちょうへてつづきをしてこうろびょうにんのしゅうようじょへ)

立つものじゃけに……そのうちに私が県庁へ手続きをして行路病人の収容所へ

(いれてあげるけに」)

入れて上げるけに……」

(というはかせのはなしをきいてはつえはすっかりあんしんしたらしく、りょうてをついてあたまを)

という博士の話を聞いて初枝はスッカリ安心したらしく、両手を突いて頭を

(さげながらほっとためいきをしてみた。しかししんろうのすみおはりょうてをきちんと)

下げながらホッとタメ息をしてみた。しかし新郎の澄夫は両手をキチンと

(ひざにおいてしなだれたまま、にんがりもせずにきんちょうしていた。)

膝に置いて頸低《しなだ》れたまま、ニンガリもせずに謹聴していた。

(それからはかせふさいのかいぞえで、とこさかずきのしきがすんで)

それから博士夫妻の介添《かいぞえ》で、床盃《とこさかずき》の式が済んで

(ふたりきりになると、さいぜんからゆううつなかおをしつづけていたすみおは、)

二人きりになると、最前から憂鬱《ゆううつ》な顔をし続けていた澄夫は、

など

(むぞうさに、ぬりまくらとはんたいがわのとこのまのほうをむいて、りょううでをくんで、)

無雑作に……、塗枕と反対側の床の間の方を向いて、両腕を組んで、

(りょうあしをちぢめたままじっとめをとじた。)

両脚を縮めたまま凝然《じっ》と眼を閉じた。

(すみおのきものをたたんで、いこうにかけたはなよめのはつえは、)

澄夫の着物を畳んで、衣桁《いこう》にかけた花嫁の初枝は、

(すきとおるようなこえで、)

透きとおるような声で、

(「おやすみあそばせ」)

「おやすみ遊ばせ」

(とはっきりいうと、いしのようにほおをこわばらせたままれいぜんとめをとじて)

とハッキリ云うと、石のように頬を固《こわ》ばらせたまま冷然と眼を閉じて

(いる、できるだけしずかに。)

いる……、出来るだけ静かに………。

(しかしすみおはうごかなかった。こきゅうをしているのか、どうかすら)

しかし澄夫は動かなかった。呼吸をしているのか、どうかすら

(わからないくらいじっとしずまりかえっていた。はつえも)

判然《わか》らない位凝然《じっ》と静まり返っていた。初枝も

(びろうどのやぐのえりをそっとひきあげて、みずみずしい)

天鵞絨《びろうど》の夜具の襟《えり》をソット引上げて、水々しい

(たかしまだのたぼをきにしいしいしろいがくと、あおいまゆをおおうた。)

高島田の髱《たぼ》を気にしいしい白い額と、青い眉を蔽うた。

(さゆのおとがしんしんとへやのなかにみちみちた。)

白湯《さゆ》の音がシンシンと部屋の中に満ち満ちた。

(しんろうーーすみおは、そのさゆのおとにみみをすましながら、)

新郎ーー澄夫は、その白湯の音に耳を澄ましながら、

(ものおきのなかにねているおしやんのことばかりをいっしんにかんがえつづけていた。)

物置の中に寝ている唖女の事ばかりを一心に考え続けていた。

(それはきょねんのはちがつのすえのことであった。)

それは去年の八月の末の事であった。

(しょちゅうきゅうかのすうじゅうにちをいなかのじたくでつぶして、やっとのことでそつぎょうろんぶんをかきあげた)

暑中休暇の数十日を田舎の自宅で潰して、やっとの事で卒業論文を書上げた

(かれは、ひるさがりのはれわたったそらのしたを、うらやまのほうへさんぽにでかけた。)

彼は、正午《ひる》下りの晴れ渡った空の下を、裏山の方へ散歩に出かけた。

(かれのりょうしんはもう、さんかげつばかりまえにろうびょうであいぜんごしてしんでいた。あとの)

彼の両親はもう、三個月ばかり前に老病で相前後して死んでいた。後の

(しごとはかれのちちのゆうじんで、せがれにあとめをゆずっていんきょしている)

医業《しごと》は彼の父の友人で、伜《せがれ》に跡目を譲って隠居している

(となりむらのとんのろうじんがきて、ひきうけてくれていたので、かれはただいっしょうけんめいにべんきょうして)

隣村の頓野老人が来て、引受けてくれていたので、彼はただ一生懸命に勉強して

(だいがくをそつぎょうするばかりであった。しかもてんせいじゅうりょうで、あたまのいい)

大学を卒業するばかりであった。しかも天性柔良《じゅうりょう》で、頭のいい

(かれは、かくきょうじゅからかわいがられていたし、じぶんじしんにもしゅせきでそつぎょうしうるじしんを)

彼は、各教授から可愛がられていたし、自分自身にも首席で卒業し得る自信を

(じゅうぶんにもっていた。そつぎょうろんぶんができあがれば、もうしんぱいなことはひとつもないと)

十分に持っていた。卒業論文が出来上れば、もう心配な事は一つも無いと

(いってよかった。)

いってよかった。

(かれはかんぜんなりょうしんのあいのなかでそだったせいであろう。ていきゅういがいにはなにひとつどうらくらしい)

彼は完全な両親の愛の中で育ったせいであろう。庭球以外には何一つ道楽らしい

(どうらくをもっていなかった。もちろんおんななんかには、こっちからおそれてちかづき)

道楽を持っていなかった。もちろん女なんかには、こっちから恐れて近附き

(えないようないわゆる、せいじんがただったので、にじゅうよんさいのだいがくそつぎょうまぎわまで、かんぜんな)

得ないような所謂、聖人型だったので、二十四歳の大学卒業間際まで、完全な

(どうていのせいかつをおくっていた。それはだいがくじだいのひとつのひみつのほこりでもあった。)

童貞の生活を送っていた。それは大学時代の一つの秘密の誇りでもあった。

(だかららいねんにちかづいてきたけっこんにたいするかれのきたいは、かれのきわめてけんこうな、どちら)

だから来年に近附いて来た結婚に対する彼の期待は、彼の極めて健康な、どちら

(かといえばしぼうぶとりのぜんしんにみちみちていた。たんぼみちで)

かといえば脂肪肥《ぶと》りの全身に満ち満ちていた。田圃《たんぼ》道で

(すれちがいさまにおじぎをしていくむらのむすめのかみのけのしゅうきをかいでも、かれははげしい)

スレ違いさまにお辞儀をして行く村の娘の髪毛の臭気を嗅いでも、彼は烈しい

(いんすぴれーしょんみたようなものにうたれてめがくらくらとするくらいであった。)

インスピレーションみたようなものに打たれて眼がクラクラとする位であった。

(だから、そんなものにであうのをおそれたかれはこのときにも、わざと)

だから、そんなものに出会うのを恐れた彼はこの時にも、わざと

(わきみちへはずれて、かれのいえのはいごのやまかげにもりあがったちんじゅのもりのなかへ)

傍道《わきみち》へ外れて、彼の家の背後の山蔭に盛上った鎮守の森の中へ

(ふらふらとあゆみいった。そのひいやりとしたひかげのこのまを)

フラフラと歩み入った。そのヒイヤリとした日蔭の木《こ》の間《ま》を

(よこぎっていく、しろいちょうのすがたをみても、または、はるかむこうのてつどうせんろをはい)

横切って行く、白い蝶の姿を見ても、又は、はるか向うの鉄道線路を匐《は》い

(のぼっていくみけねこの、しなやかなからだつきをみただけでも、)

登って行く三毛猫の、しなやかな身体附《からだつき》を見ただけでも、

(いいしれぬしんぴてきななやみにぜんしんをうずかせつつ、ちんじゅのもりのいきづまりの)

云い知れぬ神秘的な悩みに全身を疼《うず》かせつつ、鎮守の森の行詰まりの

(ほそみちを、ふるようなせみのこえにおくられながら、うらやまのほうへのぼっていった。)

細道を、降るような蝉の声に送られながら、裏山の方へ登って行った。

(たちまち、たまらないくさいきれと、こかげのあおばにむれかえるたいようの)

忽《たちま》ち、たまらない草イキレと、木蔭の青葉に蒸れ返る太陽の

(においが、おそろしいおんなのたいしゅうのようにかれをひきつつんだ。)

芳香《におい》が、おそろしい女の体臭のように彼を引包《ひきつつ》んだ。

(いけばいくほどそのあおくさい、ものぐるおしいたいようのこうきがたかまってきた。)

行けば行くほどその青臭い、物狂おしい太陽の香気が高まって来た。

(かれはちっそくしそうになった。)

彼は窒息しそうになった。

(むろんいがくせいであるかれは、そのいきぐるしくなってくるかんのうのなやみが、どこからうま)

むろん医学生である彼は、その息苦しくなって来る官能の悩みが、どこから生ま

(れてくるかをしっていた。どうじにそのなやましさからかいほうされうるある)

れて来るかを知っていた。同時にその悩ましさから解放され得る或る…………

(ゆうわくを、たまらなくきづいているのであった。だからかれは、げんざい、むれかえる)

誘惑を、たまらなく気附いているのであった。だから彼は、現在、蒸れ返る

(ようなあおばのにおいのなかで、そのゆうわくをさいこうちょうにかんじたとたんに、じぶんのふっくり)

ような青葉の芳香の中で、その誘惑を最高潮に感じたトタンに、自分のフックリ

(としろいてのこうについた。あせじみた、あまからいてのこうのひふを)

と白い手の甲に……附いた。汗じみた、甘鹹《あまから》い手の甲の皮膚を

(しっかりとてきをちらそうとこころみたがしかしそのてのこうの)

シッカリと…………て気を散らそうと試みた……が……しかしその手の甲の

(にくからわきおこるいたみすらも、いっしゅのたまらないのかくてるとなって)

肉から湧き起る痛みすらも、一種のタマラない……………のカクテルとなって

(かれのぜんしんにうずまきつたわり、くるいめぐるのであった。)

彼の全身に渦巻き伝わり、狂いめぐるのであった。

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