夢野久作 笑う唖女 ⑦《終》
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問題文
(かれはきわめてちゅういぶかくそろそろとやぐをぬけだした。まくらもとのしょうじをすこしずつ)
彼は極めて注意深くソロソロと夜具を脱け出した。枕元の障子をすこしずつ
(すこしずつおとをたてないようにあけてろうかにでて、あしおとをぬすみぬすみ)
すこしずつ音を立てないように開けて廊下に出て、足音を窃《ぬす》み窃み
(わたりどのづたいにおもやのようすをうかがった。)
渡殿《わたりどの》伝いに母屋《おもや》の様子を窺った。
(いえじゅうがしんかんとねしずまってきゅうじにんのあしおともとだえている。かってのほうのあかりもきえて)
家中が森閑と寝静まって給仕人の足音も途絶えている。勝手の方の灯も消えて
(しまって、ただおくざしきにねているらしいでんろくろうのねごとともうたともつかぬ)
しまって、ただ奥座敷に寝ているらしい伝六郎の寝言とも歌とも附かぬ
(ぐうだらなぼけごえがきこえているそのこえをききききかれはまっくらななかろうかを)
グウダラな呆《ぼ》け声が聞えている……その声を聞き聞き彼は真暗な中廊下を
(ぬけて、げんかんわきのやっきょくのとびらをひらいた。)
抜けて、玄関脇の薬局の扉を開いた。
(やっきょくのさんぽうがらすまどのそとはゆきのようにかがやいていた。にしにかたむいていちだんとさえかえった)
薬局の三方硝子窓の外は雪のように輝やいていた。西に傾いて一段と冴え返った
(まんげつにまぶしくてらされたはたんきょうのはなが、なまりいろのかげをだいちいちめんに)
満月に眩しく照らされた巴旦杏《はたんきょう》の花が、鉛色の影を大地一面に
(ただよわしていた。)
漂《ただよ》わしていた。
(ちゅうおうのちょうやくだいのまえにたったかれはこうこつとしてそのしろいひかりにみとれていた。)
中央の調薬台の前に立った彼は恍惚としてその白い光りに見惚れていた。
(そうしてきょうまでにかれがみたりきいたりしたいくたのいわゆるせいこうしゃ、すなわち)
そうして今日までに彼が見たり聞いたりした幾多の所謂成功者、すなわち
(りっしでんちゅうのひとびとがいかにざんにんな、ちもなみだもないひきょうなほうほうをもってじゃくしゃを)
立志伝中の人々が……如何に残忍な、血も涙も無い卑怯な方法をもって弱者を
(じゅうりんし、ふみころしてきたかをれんそうし、そうきしつづけていた。)
蹂躙し、踏殺して来たかを聯想し、想起し続けていた。
(おれもそのひとりにならなければならぬ。いないな。もっともっとつよいにんげんに)
……俺もその一人にならなければならぬ。否々。もっともっと強い人間に
(ならねばならぬ。たっといおれじしんのいっしょうがいこれだけのずのうと、ちしきと)
ならねばならぬ。貴い俺自身の一生涯……これだけの頭脳と、智識と……
(このわかいちと、にくと、ゆたかなじょうちょとをあのみぐるしい、さびしいはいぶつどうぜんの)
この若い血と、肉と、豊かな情緒とをあの見苦しい、淋《さび》しい廃物同然の
(おしやんのいっしょうとつりかえにしてたまるものかこれはとうぜんのことなのだ、)
唖女の一生と釣換《つりか》えにしてたまるものか……これは当然の事なのだ、
(てんちしぜんのりほうなのだ。ちっともはずるところはない。とがめられる)
天地自然の理法なのだ。ちっとも恥ずるところはない。咎《とが》められる
(ところもない。ただたにんにみとがめられさえしなければ)
ところもない。ただ他人に見咎められさえしなければ……
(うたがわれさえしなければいいのだ。ちっともかまわない。なんでもないことなのだ。)
疑われさえしなければいいのだ。ちっとも構わない。何でもない事なのだ。
(そんなことをかんがえまわしているうちに、いつのまにか、ゆきのひかりにつつまれたような)
そんな事を考えまわしているうちに、いつの間にか、雪の光りに包まれたような
(さむさをかんじはじめたので、かれははっとしてわれにかえった。)
寒さを感じ初めたので、彼はハッとして吾に帰った。
(あたまのしんはねむくてたまらないのに、いしきだけはしゃんしゃんとさえかえっている)
頭のシンは睡むくてたまらないのに、意識だけはシャンシャンと冴え返っている
(ようなきもちでかれは、しょうめんのくすりとだなのひきだしからちいさなかぷせるをいっこ)
ような気持で彼は、正面の薬戸棚の抽出《ひきだし》から小さなカプセルを一個
(とりだした。それからつきあたりのくすりとだなのがらすどをひらいて、きょうひるま、とんのろうじんが)
取出した。それから突当りの薬戸棚の硝子戸を開いて、きょう昼間、頓野老人が
(もちだしたくろがきのひやくばこをいまいちどとりだして、ちょうごうだなのうえにおいた。そのなかから、)
持出した黒柿の秘薬箱を今一度取出して、調合棚の上に置いた。その中から、
(やはりきょうとんのろうじんがあつかったえんさんもるひねのこびんをつまみだして、)
やはり今日頓野老人が扱った塩酸モルヒネの小瓶を抓《つま》み出して、
(そのなかのしろいふんまつのしょうりょうを、つきのひかりにすかしながらかぷせるにおとしこんだが、)
その中の白い粉末の小量を、月の光りに透かしながらカプセルに落し込んだが、
(おおすぎるとおもったらしくまた、そのなかのごくびりょうをこびんのなかへおとしかえしてから)
多過ぎると思ったらしく又、その中の極微量を小瓶の中へ落し返してから
(かぷせるのふたをしっかりとおおうた。それからなにもかももとどおりに)
カプセルの蓋をシッカリと蔽《おお》うた。それから何もかもモト通りに
(なおして、くすりとだなのがらすどをぴったりととじた。)
直して、薬戸棚の硝子戸をピッタリと閉じた。
(そのときにかれのはいごの、あけはなしにしてきたろうかのくらやみでかすかな、ふかいためいきが)
その時に彼の背後の、開放しにして来た廊下の暗闇で微かな、深い溜息が
(きこえたようにおもったので、かれははっとばかりかたくなった。あわててかぷせるを)
聞こえたように思ったので、彼はハッとばかり固くなった。慌ててカプセルを
(みぎてににぎりこんだまま、ゆびさきばしりにろうかにでてみたが、しかしそこにはなんの)
右手に握り込んだまま、指先走りに廊下に出てみたが、しかしそこには何の
(ひとかげもなく、まっくらななかろうかのむこうの、しめわすれてきたわたりどのの)
人影も無く、真暗な中廊下の向うの、閉め忘れて来た渡殿《わたりどの》の
(いりぐちのかたがわに、はくとうのはながしらじらとつきあかりにみえたので、こんどはかれじしんが)
入口の片側に、白桃の花が白々と月あかりに見えたので、今度は彼自身が
(おもわず、ふかいためいきをさせられた。)
思わず、深いタメ息をさせられた。
(かれはかれじしんをゆうきづけるかのようにたったひとりでびしょうした。ゆうゆうとやっきょくに)
彼は彼自身を勇気付けるかのようにタッタ一人で微笑した。悠々と薬局に
(かえって、こがたのびーかーをとりあげるとじょうすいをろくぶんめほどみたした。えんさんもるひねいり)
帰って、小型のビーカーを取上ると常水を六分目程満たした。塩酸モルヒネ入り
(のかぷせるといっしょにひだりてにもって、やっきょくようのすりっぱをつまさぐった。)
のカプセルと一所に左手に持って、薬局用のスリッパを爪探《つまさぐ》った。
(やっきょくのよこのとびらのかけがねをはずして、かってぐちのそとがわにでた。)
薬局の横の扉の掛金を外して、勝手口の外側に出た。
(のきしたのくらがりづたいにあしおとをぬすみぬすみ、だいどころのかどにとりつけたあたらしい)
軒下の暗がり伝いに足音を窃《ぬす》み窃み、台所の角に取付けた新しい
(こーるたぬりのあまどいをめぐって、うらてのふろばと、なやのものおきの)
コールタ塗の雨樋《あまどい》をめぐって、裏手の風呂場と、納屋の物置の
(ひさしあいのしたにきた。)
廂合《ひさしあ》いの下に来た。
(そこではにしへかたむいたつきが、かなりふかいくらがりをつくって、すぐよこてのしろびかりする)
そこでは西へ傾いた月が、かなり深い暗がりを作って、直ぐ横手の白光りする
(どぞうのかべを、ましかくにくぎっていた。)
土蔵の壁を、真四角に区切っていた。
(かれはぜったいにおとをたてないようにまだまひしているであろうおしやんの)
彼は絶対に音を立てないように……まだ痲酔《まひ》しているであろう唖女の
(めをさまさないように、ようじんしいしいなやのとびらのかけがねをはずした。)
眼を醒まさないように、用心しいしい納屋の扉の掛金を外した。
(するとなやのなかのくらがりで、とつぜんにがさがさとわらのおとがしはじめた。)
……すると……納屋の中の暗がりで、突然にガサガサと藁の音がし初めた。
(たまらないこじきくさいいしゅうがむうとおそいかかってきた。とおもうまもなく)
たまらない乞食臭い異臭がムウと襲いかかって来た。……と思う間もなく
(けもののようにかみをふりみだしたかいぶつたくましい、おしやんが)
獣のように髪を振乱した怪物……逞ましい、……………唖女が
(とびだしてきて、いきなりかれにだきついた。こころからうれしそうにわらった。)
飛出して来て、イキナリ彼に抱き付いた。心から嬉しそうに笑った。
(「きいきいきいききききき」)
「キイキイキイ……キキキキキ……」
(そのもずさながらのこえはつきよのたてものと、そのしゅういをめぐるかじゅえんに)
その鵙《もず》さながらの声は月夜の建物と、その周囲をめぐる果樹園に
(ひびきわたってきえうせた。)
響き渡って消え失せた。
(かれはいっさいがはめつしたようにおもった。めもくらむほどむねがどきんどきんとした。)
彼は一切が破滅したように思った。眼も眩むほど胸がドキンドキンとした。
(ぜんしんにぞーっとなまあせをかきながらいまいちど、しずかにさゆうをふりかえってみたが、)
全身にゾーッと生汗を掻きながら今一度、静かに左右を振返ってみたが、
(そのかれのおびえたしせんは、たったいまとおってきただいどころのかどの、あたらしいくろいあまどいのところへ)
その彼の怯えた視線は、タッタ今通って来た台所の角の、新しい黒い雨樋の処へ
(ぴたりとすいよせられた。どうじにかれのぜんしんけいがすいしょうのようにぎょうこしてしまった。)
ピタリと吸い寄せられた。同時に彼の全神経が水晶のように凝固してしまった。
(そこにははなれざしきから、かれのこうどうをつけてきたらしいはなよめのはつえの、さえ)
そこには離座敷から、彼の行動を跟《つ》けて来たらしい花嫁の初枝の、冴え
(かえったかおがのぞいていた。さくやのままのこいげしょうと、くちべにのくっきりとした、)
返った顔が覗いていた。昨夜のままの濃化粧と、口紅のクッキリとした、
(たかしまだのきんもとゆいのなまめかしい、くろいおおきなひとみをいっぱいにみ)
高島田の金元結《きんもとゆい》の艶めかしい、黒い大きな瞳を一パイに見
(ひらいたにんぎょうのようなうりざねがおが、つきのひかりにうきぼりされたまま、)
開いた人形のような瓜実顔《うりざねがお》が、月の光りに浮彫りされたまま、
(はんぶんいじょうあまどいのかげからのぞきだして、かれのすがたをいっしんにぎょうししているのであった。)
半分以上雨樋の蔭から覗き出して、彼の姿を一心に凝視しているのであった。
(かれはそれをつきのひかりにてらしだされたはたんきょうのはなのげんかくかとおもった。)
彼はソレを月の光りに照し出された巴旦杏の花の幻覚かと思った。
(みぎてでさゆうのめをぐいぐいとつよくこすっていまいちどよくみなおした。)
右手で左右の眼をグイグイと強くコスッて今一度よく見直した。
(それは、たしかにはなよめのはつえのかおにそういなかった。びんのほつれけがに)
それは、たしかに花嫁の初枝の顔に相違なかった。鬢《びん》のホツレ毛が二
(さんぼん、よこほおにみだれかかっているのが、かたむいたつきのひかりではっきりとみえた。その)
三本、横頬に乱れかかっているのが、傾いた月の光りでハッキリと見えた。その
(ふたつのくろいひとみが、まともにこちらをぎょうししたままおおきく、ゆっくりとふたつばかり)
二つの黒い瞳が、マトモに此方を凝視したまま大きく、ユックリと二つばかり
(またたいたのがみえた。どうじに、そのまっしろいほおからおおつぶのなみだのたまが、きらりきらりと)
瞬いたのが見えた。同時に、その真白い頬から大粒の涙の球が、キラリキラリと
(つきのひかりをおびて、つちのうえにしたたりおちるのがみえた。)
月の光りを帯びて、土の上に滴《した》たり落ちるのが見えた。
(かれは、かれのあしもとのだいちが、そのなみだのおちていくほうこうにぐんぐんと)
彼は、彼の足元の大地が、その涙の落ちて行く方向にグングンと
(かたむいていくようにかんじた。もっているびーかーをとりおとしそうになった。)
傾いて行くように感じた。持っているビーカーを取落しそうになった。
(そのときにかれにとりすがっているおどろおどろしいすがたが、)
その時に彼に取縋《とりすが》っているオドロオドロしい姿が、
(どろだらけのひだりてをあげて、はつえのかおをさした。かちほこるようにわらった。)
泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝誇るように笑った。
(「けけけけえべえべえべきききき」)
「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」
(にんぎょうのようなたかしまだのかおが、しずかにあまどいのかげからはなれた。ながながとじめんに)
人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の蔭から離れた。長々と地面に
(ひきずったもえたつようなひぢりめんのながじゅばんのすそに、)
引擦った燃立つような緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゅばん》の裾に、
(しろいすねと、しろいすあしがかわるがわるつきのひかりをはんしゃしいしい、)
白い脛と、白い素足が交《かわ》る交る月の光りを反射しいしい、
(かれのめのまえにちかづいてきた。)
彼の眼の前に近付いて来た。
(かれはかぷせるをじぶんのくちにいれた。びーかーのみずをそのなかにゆらめく)
彼はカプセルを自分の口に入れた。ビーカーの水を……その中にゆらめく
(つきのひかりをぎょうししつつおもいきってがぶがぶとのんだ。)
月の光りを凝視しつつ……思い切ってガブガブと飲んだ。