血の盃 小酒井不木 ①

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資産家の息子良雄と、貧しい家庭のあさ子は恋仲になる。
やがてあさ子の身体に、良雄が起因となる異変が起きるが、良雄はあさ子を捨ててしまう。
その頃からあさ子は不可解な行動をするようになる。

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問題文

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(いんがおうほうはぶっきょうのこんぽんをなすしそうであって、わたしたちにほんじんも、)

因果応報は仏教の根本をなす思想であって、私たち日本人も、

(でんとうてきにこのいんがおうほうのかんねんにしはいされ、わるいことをすれば、)

伝統的にこの因果応報の観念に支配され、悪いことをすれば、

(かならずそれにたいするむくいがきはしないかと、ないしんひそかに)

必ずそれに対するむくいが来はしないかと、内心ひそかに

(おそれおののくのがつねである。そうしたきょうふがいったんひとのこころにわだかまると、)

恐れ慄くのが常である。そうした恐怖が一旦人の心に蟠ると、

(なにかわるいできごとがおこるまでは、そのきょうふしんがぜんじにぼうちょうしていって、)

何か悪い出来事が起るまでは、その恐怖心が漸次に膨脹して行って、

(ついにそのきょうふしんそのものが、おそろしいできごとをみちびくにいたるものである。)

遂にその恐怖心そのものが、怖ろしい出来事を導くに至るものである。

(たにんをころしてのち、おそろしいたたりをうけるというようなれいはこらいたくさんあったが、)

他人を殺して後、怖ろしい祟を受けるというような例は古来沢山あったが、

(いずれもりょうしんのかしゃくによってしょうじたきょうふしんが、そのひとをみちびいて、)

いずれも良心の苛責によって生じた恐怖心が、その人を導いて、

(そのたたりをまねくようにしたものといってもあえてさしつかえないとおもう。)

その祟を招くようにしたものといっても敢えて差支ないと思う。

(もっとも、かようなたたりはおおくはぐうぜんのできごとのようにみえるものである。)

もっとも、かような祟は多くは偶然の出来事のように見えるものである。

(だから、てんばつとかしんばつとかいわれるのであるが、ぽあんかれーのいうように、)

だから、天罰とか神罰とか言われるのであるが、ポアンカレーの言うように、

(ぐうぜんというものは、じつはげんいんをみつけることのできぬほどふくざつな)

偶然というものは、実は原因を見つけることの出来ぬ程複雑な

(「ひつぜん」とみなすのがしとうであって、かいだんやいんがばなしのなかにあらわれるぐうぜんを、)

「必然」と見做すのが至当であって、怪談や因果噺の中にあらわれる偶然を、

(わたしはむしろ、この「ふくざつなひつぜん」としてかいしゃくしたいとおもうのである。)

私はむしろ、この「複雑な必然」として解釈したいと思うのである。

(これからきじゅつしようとするものがたりも、やはりどうようにかいしゃくさるべきせいしつの)

これから記述しようとする物語も、やはり同様に解釈さるべき性質の

(ものであろうとおもう。)

ものであろうと思う。

(これはわたしのきょうりなるあいちけんまるまるぐんまるまるむらにおこったじけんであるが、)

これは私の郷里なる愛知県〇〇郡〇〇村に起った事件であるが、

(めいじさんじゅうはちねんのことで、むらからしゅっせいしたぐんじんのたいはんがせんしし、)

明治三十八年のことで、村から出征した軍人の大半が戦死し、

(ひとびとのしんけいがきょくどにきんちょうしていたじぶんであるから、)

人々の神経が極度に緊張して居た時分であるから、

(つよくむらびとのこころをゆりうごかし、きょうりのひとびとは、)

強く村人の心を揺り動かし、郷里の人々は、

など

(いまだにせんりつなしではなすことのできぬくらいふかいいんしょうをあたえられた。)

いまだに戦慄なしで話すことの出来ぬくらい深い印象を与えられた。

(はなしはむらのそほうかひとりむすこと、びんぼうなわたうちやの)

話は村の素封家一人息子と、貧乏な綿打屋の

(こまちむすめとのこいものがたりにはじまる。おとこはきむらよしおといって、)

小町娘との恋物語に始まる。男は木村良雄といって、

(とうじとうきょうのぼうしりつだいがくにざいがくちゅう、おんなはあらかわあさこといって、)

当時東京の某私立大学に在学中、女は荒川あさ子といって、

(とうじにじゅっさいのひなにはまれにみるびじんであった。よしおとあさことは)

当時二十歳の鄙には稀に見る美人であった。良雄とあさ子とは

(いわゆるおさななじみであって、ふたりのいえは、)

所謂幼な馴染であって、二人の家は、

(ちんじゅのやしろのもりをへだてているだけであったから、ふたりはよく、)

鎮守の社の森を隔てて居るだけであったから、二人はよく、

(じんじゃのけいだいですなをいじってあそんだものである。)

神社の境内で砂をいじって遊んだものである。

(しかし、せいちょうするとともにふたりはとうぜんはなればなれになった。)

しかし、生長すると共に二人は当然はなればなれになった。

(よしおはなごやのちゅうがっこうにかようようになり、あさこはひとりぎりのちちの)

良雄は名古屋の中学校に通うようになり、あさ子は一人ぎりの父の

(かぼそいしょうばいをてつだって、まめまめしくはたらいていえにとどまった。)

かぼそい商売を手伝って、まめまめしく働いて家にとどまった。

(たまたまよしおがきゅうかにきせいしてもふたりはただ、じこうのあいさつを)

たまたま良雄が休暇に帰省しても二人はただ、時候の挨拶を

(とりかわすぐらいのものであった。ところがよしおがちゅうがくをそつぎょうして)

取りかわすぐらいのものであった。 ところが良雄が中学を卒業して

(とうきょうにゆうがくするようになってから、よしおのあさこいたいするたいどは)

東京に遊学するようになってから、良雄のあさ子に対する態度は

(いままでのようにむとんちゃくなものではなくなった。)

今迄のように無頓着なものではなくなった。

(ことによしおはとうきょうであくゆうにさそわれてゆうりにでいりすることを)

ことに良雄は東京で悪友に誘われて遊里に出入りすることを

(おぼえたのであるから、それでなくてさえ、いわゆるせいしゅんのちにもえやすい)

覚えたのであるから、それでなくてさえ、いわゆる青春の血に燃え易い

(じきのこととて、うぶなあさこのうつくしいすがたが、)

時期のこととて、初心なあさ子の美しい姿が、

(どんなにかれのこころをうごかしたかはそうぞうするにかたくなかった。)

どんなに彼の心を動かしたかは想像するに難くなかった。

(そうして、よしおのじょうねつのちからがはげしくて、あさこをせいふくしたのか、)

そうして、良雄の情熱の力がはげしくて、あさ子を征服したのか、

(あるいはあさこもそれとなくよしおにおもいをよせていたのか、)

或はあさ子もそれとなく良雄に思いを寄せて居たのか、

(ふたりはついにひとめをしのぶなかとなったのである。)

二人は遂に人目をしのぶ仲となったのである。

(いまからおもえばよしおのこいにははじめからふじゅんなぶんしがたくさんふくまれておったのにはんし、)

今から思えば良雄の恋には始めから不純な分子が沢山含まれて居ったのに反し、

(あさこのこいはじゅんけつそのものであった。さればこそ、そのじゅんけつなこい、ひとたび)

あさ子の恋は純潔そのものであった。さればこそ、その純潔な恋、一たび

(はたんをきたしたとき、あさこのいちねんはてっていてきによしおにたたるにいたったのである。)

破綻を来たした時、あさ子の一念は徹底的に良雄に祟るに至ったのである。

(こいがしばしばおそろしいけつまつをもたらすものであることは、)

恋がしばしば恐ろしい結末をもたらすものであることは、

(こおうこんらいそのれいにとぼしくないが、よしおとあさこのこいなかは、)

古往今来その例に乏しくないが、良雄とあさ子との恋仲は、

(あさこのとつぜんなしつめいによって、はかなくも、よしおのほうから、むりやりに)

あさ子の突然な失明によって、果敢なくも、良雄の方から、無理やりに

(けつまつがつけられたのである。といってしまえば、どくしゃしょくんは、あさこにたいして)

結末がつけられたのである。といってしまえば、読者諸君は、あさ子に対して

(さほどふかいどうじょうのこころをだかれないであろうが、あさこのしつめいが、)

さほど深い同情の心を抱かれないであろうが、あさ子の失明が、

(じつはよしおのあくしつにかんせんしてのけっかであるとしられたならば、)

実は良雄の悪疾に感染しての結果であると知られたならば、

(しょくんはさだめし、あさこをすてたよしおをにくまれるにちがいない。)

諸君は定めし、あさ子を捨てた良雄をにくまれるにちがいない。

(ましてあさこのみになってみれば、どんなにかかなしいことだろう。)

ましてあさ子の身になってみれば、どんなにか悲しいことであろう。

(うまれもつかぬめくらにされたうえ、へいりのごとくすてられては、)

生れもつかぬ盲目にされた上、弊履のごとく捨てられては、

(たつせもうかぶせもあったものではない。「おとっさん、わたしどうしよう?」)

立つ瀬も浮ぶ瀬もあったものではない。「お父っさん、わたしどうしよう?」

(かのじょはまいにち、こういっては、ないてちちおやにうったえるのであった。)

彼女は毎日、こういっては、泣いて父親に訴えるのであった。

(わがこのうつくしかったようぼうが、おそろしくもへんかしたすがたをみるさえくるしいのに、)

わが子の美しかった容貌が、怖ろしくも変化した姿を見るさえ苦しいのに、

(まして、たよりとするひとりむすめがかたわものとなって、このさきながく、)

まして、頼りとする一人娘が片輪者となって、この先長く、

(あべこべにせわをしてやらねばならなくなったことをおもうと、)

あべこべに世話をしてやらねばならなくなったことを思うと、

(ちちおやのたんしちは、たんとうをもってむねをえぐられるほどつらかった。)

父親の丹七は、短刀をもって胸を抉られるほど辛かった。

(けれども、よしおのなきちちには、かつていっぽうならぬせわになったのであるから、)

けれども、良雄の亡き父には、かつて一方ならぬ世話に逢ったのであるから、

(たんしちはよしおをうらむわけにもいかず、「あさこ、かんにんしてくれ、)

丹七は良雄をうらむ訳にもいかず、「あさ子、堪忍してくれ、

(みんなおれがわるいのだ。おれのつみのむくいがおまえにあらわれたのだ」)

みんな俺が悪いのだ。俺の罪の報いがお前にあらわれたのだ」

(と、なみだながらにたんそくするのであった。)

と、涙ながらに歎息するのであった。

(たんしちはいせのくにのうまれであって、たにんのないえんのつまとかけおちして、)

丹七は伊勢の国の生れであって、他人の内縁の妻と駈落ちして、

(ふたりでこのむらのとおえんのものをたよってるろうしてきたのであるが、)

二人でこの村の遠縁のものをたよって流浪して来たのであるが、

(そのとおえんのものはそのときしんでおらず、やむなく、よしおのちちにすがりつくと、)

その遠縁のものはその時死んで居らず、やむなく、良雄の父にすがりつくと、

(ぎきょうしんにとんだよしおのちちは、きんじょのあきちにちいさいいえをたててやって)

義侠心に富んだ良雄の父は、近所のあき地に小さい家を建ててやって

(ふたりをすまわせわたうちぎょうをはじめさせたのである。)

二人を住わせ綿打業を始めさせたのである。

(まもなくふたりのあいだにできたのがあさこであった。しかしあさこをうむとどうじに)

間もなく二人の間に出来たのがあさ子であった。然しあさ子を生むと同時に

(あさこのははははっきょうして、かわにみをなげてしんでしまった。)

あさ子の母は発狂して、川に身を投げて死んでしまった。

(たんしちはそれをてんばつだとおもいこみ、じらい、やもめぐらしをしながら、)

丹七はそれを天罰だと思い込み、爾来、やもめ暮しをしながら、

(あさこをそだててきたのであるが、こうしてふたたびあさこのみのうえに)

あさ子を育てて来たのであるが、こうして再びあさ子の身の上に

(ひうんがおちかかってきたのも、やはり、じぶんのおかしたつみの)

悲運が落ちかかって来たのも、やはり、自分の犯した罪の

(むくいであるとかんがえざるをえなかった。)

むくいであると考えざるを得なかった。

(「だいおんあるだんなさんのてまえ、よしおさんにはふそくはいえないのだ、あさこ、)

「大恩ある旦那さんの手前、良雄さんには不足はいえないのだ、あさ子、

(なにもふうんだとおもってあきらめてくれ」こういってたんしちはおがむようにして、)

何も不運だと思ってあきらめてくれ」こういって丹七は拝むようにして、

(あさこをなぐさめるのであった。あさことよしおとのこいがはじまったとき、)

あさ子を慰めるのであった。あさ子と良雄との恋が始まったとき、

(たんしちははやくもそれとかんづいたけれど、まえにのべたりゆうで、)

丹七は早くもそれと感づいたけれど、前に述べた理由で

(みてみぬふりをしていたのであった。どうせみぶんがちがうことであるから、)

見て見ぬ振りをして居たのであった。どうせ身分がちがうことであるから、

(よしおとあさことのけっこんはのぞみえないものとはおもっていたのであるが、)

良雄とあさ子との結婚は望み得ないものとは思って居たのであるが、

(あさこをかたわにしてしかも、ふりすててこころみなくなったよしおのしうちにたいしては、)

あさ子を不具にしてしかも、振り捨てて顧みなくなった良雄の仕打に対しては、

(まんざらはらがたたぬでもなかった。)

まんざら腹が立たぬでもなかった。

(たんしちとはちがい、あさこはよしおのことばをしんじて、)

丹七とはちがい、あさ子は良雄の言葉を信じて、

(よしおとけっこんすることができるものとおもっていた。)

良雄と結婚することが出来るものと思って居た。

(それだけ、すてられたときのかのじょのかなしみはおおきかったのである。)

それだけ、捨てられた時の彼女の悲しみは大きかったのである。

(そうして、よしおのあまいかずかずのことばが、たんにそのじょうよくをみたすために)

そうして、良雄の甘い数々の言葉が、単にその情慾を満すために

(はっせられたものであるとおもうと、かのじょはたってもいてもおられないほど)

発せられたものであると思うと、彼女は立っても居てもおられない程

(くやしかった。きゅうかにかえっても、もはやよしおはあさこのいえを)

くやしかった。休暇に帰っても、もはや良雄はあさ子の家を

(のぞきもしなかった。そうしてよしおのむねのなかから、)

のぞきもしなかった。そうして良雄の胸の中から、

(あさこのかげはいつのまにかかきけされてしまっていた。)

あさ子の影はいつの間にかかき消されてしまって居た。

(しかしよしおのむねにあさこのかげがうすらぐとせいはんたいにあさこのむねには、)

しかし良雄の胸にあさ子の影が薄らぐと正反対にあさ子の胸には、

(よしおをおもい、よしおをうらむのねんがいよいよのうこうになっていった。)

良雄を思い、良雄をうらむの念がいよいよ濃厚になって行った。

(それはあるふゆのよなかのことであった。ふと、たんしちがめをさましてみると、)

それはある冬の夜中のことであった。ふと、丹七が眼をさまして見ると、

(かたわらにねているはずのあさこのすがたがみえないので、)

傍に寝て居る筈のあさ子の姿が見えないので、

(はっとおもってふとんのなかにてをやるとまだあたたかい。)

はっと思って蒲団の中に手をやるとまだ暖かい。

(たぶんべんじょへでもいったのだろうとおもってしばらくまっていたが)

多分便所へでも行ったのだろうと思って暫らく待って居たが

(いっこうかえってくるようすがなかったので、「あさこ、あさこ」)

一こう帰って来る様子がなかったので、「あさ子、あさ子」

(とよんでみてもさらにへんじがない。)

と呼んで見ても更に返事がない。

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