血の盃 小酒井不木 ③
その頃からあさ子は不可解な行動をするようになる。
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問題文
(よしおのはははきょうきのようにないて、ひとびとにてんじょうへあがってけんさしてくるようたのんだ。)
良雄の母は狂気のように泣いて、人々に天井へ上って検査して来るよう頼んだ。
(ひとびとももはやちゅうちょすべきじきでないので、おもやのほうからでいりのわかものを)
人々ももはや躊躇すべき時機でないので、母家の方から出入りの若者を
(さんにんよびよせててんじょうへあがらせた。さんにんのものがてんじょうへあがって)
三人呼び寄せて天井へ上らせた。三人のものが天井へ上って
(ろうそくのひによってながめたこうけいはじつにせんりつすべきものであった。)
蝋燭の灯によってながめた光景は実に戦慄すべきものであった。
(そのさんにんのものは、いまでもあのときのことをおもうとせすじがさむくなるといっている。)
その三人のものは、今でもあの時のことを思うと背筋が寒くなるといって居る。
(てんじょうにいたのはよしおばかりではなかった。)
天井に居たのは良雄ばかりではなかった。
(よしおがきぜつしてあおむきによこたわっているまうえには、やねうらのはりにほそおびをかけて、)
良雄が気絶して仰向きに横わって居る真上には、屋根裏の梁に細帯をかけて、
(かれんのあさこが、ものすごいかおをしていしをとげていたのである。)
可憐のあさ子が、物凄い顔をして縊死を遂げて居たのである。
(ひとびとはとりあえずよしおをかつぎだした。)
人々はとりあえず良雄をかつぎ出した。
(よしおはいしのてあてによってまもなくいきをふきかえしたが、たおれるひょうしに、)
良雄は医師の手当によって間もなく息を吹き返したが、たおれる拍子に、
(てにもっていたろうそくがよしおのかおにおちかかり、ひがうんわるくよしおのみぎめを)
手に持って居た蝋燭が良雄の顔に落ちかかり、灯が運悪く良雄の右の眼を
(やいてきえたので、みぎめがしきりにいたみだした。)
焼いて消えたので、右眼が頻りに痛み出した。
(はなよめはこうねつにくるしみ、はなむこはみぎめのげきれつなとうつうにくるしみ、)
花嫁は高熱に苦しみ、花婿は右眼の劇烈な疼痛に苦しみ、
(けっこんしきはさんざんなはめにおわった。ひとびとはただもう、)
結婚式はさんざんな破目に終った。人々はただもう、
(あさこのしゅうねんのおそろしさにせんりつするばかりであった。)
あさ子の執念の恐ろしさに戦慄するばかりであった。
(しかしふこうはたんにそればかりでなかった。)
然し不幸は単にそればかりでなかった。
(はなよめのようたいはそのごのうせきずいまくえんとへんじて、やくいっかげつののちへいねつにかえったが、)
花嫁の容態はその後脳脊髄膜炎と変じて、約一ヶ月の後平熱にかえったが、
(のうをおかされてはくちのようになってしまった。また、よしおのみぎめのきずは)
脳を冒されてハクチのようになってしまった。又、良雄の右眼の傷は
(いがいにもじゅうせいのえんしょうをおこし、はやくてきしゅつすればよかったものを、)
意外にも重性の炎症を起し、早くてきしゅつすればよかったものを、
(ておくれのためにこうかんせいがんえんをはっしひだりめもどうようのえんしょうにかかり、)
手遅れのために交感性眼炎を発し左眼も同様の炎症にかかり、
(ついにりょうめともしつめいするのやむなきにいたったのである。)
遂に両眼とも失明するのやむなきに至ったのである。
(じぶんでまいたたねはじぶんでからねばならない。)
自分で蒔いた種は自分で刈らねばならない。
(よしおはとうとうじぶんのりょうめをもってじぶんのつみをあがなったが、)
良雄はとうとう自分の両眼をもって自分の罪をあがなったが、
(じぶんのつみが、むこなはなよめにまでおよんだことをおもうと、)
自分の罪が、無辜な花嫁にまで及んだことを思うと、
(いまさらながらじぶんのあさこにたいするこういがこうかいされた。)
今更ながら自分のあさ子に対する行為が後悔された。
(そうしてよしおはしぜんはずかしさのためにきょうりにいられなくなり、)
そうして良雄は自然恥かしさのために郷里に居られなくなり、
(そせんでんらいのいえやしきをうりはらってははとともにさびしくなごやのこうがいに)
祖先伝来の家屋敷を売り払って母と共に寂しく名古屋の郊外に
(うつりすむことにしたのである。どうして、あさこがよしおのいえのはなれざしきの)
移り住むことにしたのである。どうして、あさ子が良雄の家の離れ座敷の
(やねうらにしのびこんだかはいまでもぎもんとされている。)
屋根裏にしのび込んだかは今でも疑問とされて居る。
(はなよめのさかずきのなかにしたたったちは、いうまでもなくいししたあさこのしたいからながれて)
花嫁の盃の中に滴った血は、いう迄もなく縊死したあさ子の死体から流れて
(てんじょうにたまったものであるが、それがちょうどはなよめのささげた)
天井にたまったものであるが、それが丁度花嫁の捧げた
(さかずきのなかにはいるということは、あまりにもいんねんのふかいぐうぜんといわねばならない。)
盃の中にはいるということは、あまりにも因縁の深い偶然といわねばならない。
(よしおはのちに、てんじょううらのたんけんにいったときのことをものがたって、)
良雄は後に、天井裏の探険に行った時のことを物語って、
(いししていたあさこのてがじぶんをまねいたのでおもわずひきよせられていったと)
縊死して居たあさ子の手が自分をまねいたので思わず引き寄せられて行ったと
(はなしたそうであるが、それはおそらくろうそくのうすぐらいひによって)
話したそうであるが、それは恐らく蝋燭のうすぐらい灯によって
(おこったさっかくであっただろうとおもう。それにしても、たおれたひょうしに、)
起った錯覚であっただろうと思う。それにしても、たおれた拍子に、
(ろうそくのひがみぎのめのうえにおちたということも、やはり、)
蝋燭の灯が右の眼の上に落ちたということも、やはり、
(たんなるぐうぜんとはおもわれない。さいごにいちごん。あさこのちちたんしちは、)
単なる偶然とは思われない。最後に一言。あさ子の父丹七は、
(あさこのそうしきをすましたよくじつ、ひょうぜんとしてしゅっぱつしたまま、)
あさ子の葬式をすました翌日、飄然として出発したまま、
(そのごかえってこないので、ひとびとは、いまでもそのせいしをしらないのである。)
その後帰って来ないので、人々は、今でもその生死を知らないのである。
(むらびとのなかには、けっこんのよる、たんしちがそれまでかんししていたあさこのがいしゅつを)
村人の中には、結婚の夜、丹七がそれ迄監視して居たあさ子の外出を
(しらぬわけはないから、こいにあさこをがいしゅつせしめたのだろうという)
知らぬ訳はないから、故意にあさ子を外出せしめたのだろうという
(うがったかいしゃくをするものもあるが、はたしてそうであったかどうかは)
穿った解釈をするものもあるが、果してそうであったかどうかは
(だれにもわかるはずがない。)
誰にもわかる筈がない。