風立ちぬ 堀辰雄 ④
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問題文
(「それがどうもらいらっくじゃないかもしれないわ」と)
「それがどうもライラックじゃないかも知れないわ」と
(わたしのかたにかるくてをかけたまま、かのじょはすこしきのどくそうにこたえた。)
私の肩に軽く手をかけたまま、彼女はすこし気の毒そうに答えた。
(「ふんーーじゃ、いままでうそをおしえていたんだね?」)
「ふんーーじゃ、いままで嘘を教えていたんだね?」
(「うそなんかつきやしなけれど、そういってひとからちょうだいしたの。)
「嘘なんか衝きやしないけれど、そういって人から頂戴したの。
(ーーだけど、あんまりよいはなじゃないんですもの」)
ーーだけど、あんまり好い花じゃないんですもの」
(「なあんだ、もういまにもはながさきそうになってから、)
「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、
(そんなことをはくじょうするなんて!)
そんなことを白状するなんて!
(じゃあ、どうせあいつもーー」)
じゃあ、どうせあいつもーー」
(わたしはそのとなりにあるしげみのほうをゆびさしながら、)
私はその隣りにある茂みの方を指さしながら、
(「あいつはなんていったっけなあ?」)
「あいつは何んていったっけなあ?」
(「えにしだ?」とかのじょはそれをひきとった。)
「金雀児?」と彼女はそれを引き取った。
(わたしたちはこんどはそっちのしげみのまえにうつっていった。)
私達は今度はそっちの茂みの前に移っていった。
(「このえにしだはほんものよ。)
「この金雀児は本物よ。
(ほら、きいろいのとしろいのと、つぼみがにしゅるいあるでしょう?)
ほら、黄いろいのと白いのと、莟が二種類あるでしょう?
(こっちのしろいの、それあめずらしいのですってーーおとうさまのごじまんよ」)
こっちの白いの、それあ珍らしいのですってーーお父様の御自慢よ」
(そんなたあいのないことをいいあいながら、)
そんな他愛のないことを言い合いながら、
(そのあいだじゅうせつこはわたしのかたからてをはずさずに、)
その間じゅう節子は私の肩から手をはずさずに、
(しかしつかれたというよりも、うっとりとしたようになって、)
しかし疲れたというよりも、うっとりとしたようになって、
(わたしにもたれかかっていた。)
私にもたれかかっていた。
(それからわたしたちはしばらくそのままだまりあっていた。)
それから私達はしばらくそのまま黙り合っていた。
(そうすることがこういうはなさきにおうようなじんせいをそのまますこしでも)
そうすることがこういう花咲き匂うような人生をそのまま少しでも
(ひきとめておくことができでもするかのように。)
引き留めて置くことが出来でもするかのように。
(ときおりやわらかなかぜがむこうのいけがきのあいだから)
ときおり軟らかな風が向うの生墻の間から
(おさえつけられていたこきゅうかなんぞのようにおしだされて、)
抑えつけられていた呼吸かなんぞのように押し出されて、
(わたしたちのまえにしているしげみにまでたっし、そのはをわずかにもちあげながら、)
私達の前にしている茂みにまで達し、その葉を僅かに持ち上げながら、
(それからそこにそういうわたしたちだけを)
それから其処にそういう私達だけを
(そっくりかんぜんにのこしたまんまとおりすぎていった。)
そっくり完全に残したまんま通り過ぎていった。
(とつぜん、かのじょがわたしのかたにかけていたじぶんのてのなかにそのかおをうめた。)
突然、彼女が私の肩にかけていた自分の手の中にその顔を埋めた。
(わたしはかのじょのしんぞうがいつもよりかたかくうっているのにきがついた。)
私は彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。
(「つかれたの?」わたしはやさしくかのじょにきいた。)
「疲れたの?」私はやさしく彼女に訊いた。
(「いいえ」とかのじょはこごえにこたえたが、わたしはますますわたしのかたに)
「いいえ」と彼女は小声に答えたが、私はますます私の肩に
(かのじょのゆるやかなおもみのかかってくるのをかんじた。)
彼女のゆるやかな重みのかかって来るのを感じた。
(「わたしがこんなによわくって、あなたになんだかおきのどくでーー」)
「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒でーー」
(かのじょはそうささやいたのを、わたしはきいたというよりも、)
彼女はそう囁いたのを、私は聞いたというよりも、
(むしろそんなきがしたくらいのものだった。)
むしろそんな気がした位のものだった。
(「おまえのそういうひよわなのが、そうでないよりわたしにはもっとおまえを)
「お前のそういうひよわなのが、そうでないより私にはもっとお前を
(いとしいものにさせているのだということが、どうしてわからないのだろうなあ」)
いとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ」
(とわたしはもどかしそうにこころのうちでかのじょによびかけながら、)
と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、
(しかしひょうめんはわざとなんにもききとれなかったようなようすをしながら、)
しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしながら、
(そのままじっとみうごきもしないでいると、)
そのままじっと身動きもしないでいると、
(かのじょはきゅうにわたしからそれをそらせるようにしてかおをもたげ、)
彼女は急に私からそれを反らせるようにして顔をもたげ、
(だんだんわたしのかたからてさえもはなしていきながら、)
だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、
(「どうして、わたし、このごろこんなにきがよわくなったのかしら?)
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら?
(こないだうちは、どんなにびょうきのひどいときだってなんともおもわなかったくせに」)
こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に」
(と、ごくひくいこえで、ひとりごとでもいうようにくちごもった。)
と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。
(ちんもくがそんなことばをきづかわしげにひきのばしていた。)
沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。
(そのうちかのじょがきゅうにかおをあげて、わたしをじっとみつめたかとおもうと、)
そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、
(それをふたたびふせながら、いくらかうわずったようなちゅうおんでいった。)
それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。
(「わたし、なんだかきゅうにいきたくなったのねーー」)
「私、なんだか急に生きたくなったのねーー」
(それからかのじょはきこえるかきこえないくらいのこごえでいいたした。)
それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。
(「あなたのおかげでーー」)
「あなたのお蔭でーー」
(それは、わたしたちがはじめてであったもうにねんまえにもなるなつのころ、)
それは、私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、
(ふいにわたしのくちをついてでた、そしてそれからわたしが)
不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が
(なんということもなしにくちずさむことをこのんでいた、)
何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、
(ーかぜたちぬ、いざいきめやも。ー)
ー風立ちぬ、いざ生きめやも。ー
(というしくが、それきりずっとわすれていたのに、またひょっくりと)
という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと
(わたしたちによみがえってきたほどの、ーーいわばじんせいにさきだった、)
私達に蘇ってきたほどの、ーー云わば人生に先立った、
(じんせいそのものよりかもっといきいきと、もっとせつないまでに)
人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに
(たのしいひびであった。)
愉しい日々であった。
(わたしたちはそのげつまつにやつがたけさんろくのさなとりうむにいくためのじゅんびをしだしていた。)
私達はその月末に八ヶ岳山麓のサナトリウムに行くための準備をし出していた。
(わたしは、ちょっとしたしりあいになっている、そのさなとりうむのいんちょうが)
私は、一寸した識合いになっている、そのサナトリウムの院長が
(ときどきじょうきょうするきかいをとらえて、そこへでかけるまでに)
ときどき上京する機会を捉えて、其処へ出かけるまでに
(いちどせつこのびょうじょうをみてもらうことにした。)
一度節子の病状を診て貰うことにした。
(あるひ、やっとのことでこうがいにあるせつこのいえまでそのいんちょうにきてもらって、)
或る日、やっとのことで郊外にある節子の家までその院長に来て貰って、
(さいしょのしんさつをうけたあと、「なあにたいしたことはないでしょう。)
最初の診察を受けた後、「なあに大したことはないでしょう。
(まあ、いちにねんやまへきてしんぼうなさるんですなあ」と)
まあ、一二年山へ来て辛抱なさるんですなあ」と
(びょうにんたちにいいのこしていそがしそうにかえってゆくいんちょうを、わたしはえきまでみおくっていった。)
病人達に言い残して忙しそうに帰ってゆく院長を、私は駅まで見送って行った。
(わたしはかれからじぶんにだけでも、もっとせいかくなかのじょのびょうたいを)
私は彼から自分にだけでも、もっと正確な彼女の病態を
(きかしておいてもらいたかったのだった。)
聞かしておいて貰いたかったのだった。
(「しかし、こんなことはびょうにんにはいわぬようにしたまえ。ちちおやにはそのうち)
「しかし、こんなことは病人には言わぬようにしたまえ。父親にはそのうち
(ぼくからもよくはなそうとおもうがね」いんちょうはそんなまえおきをしながら、)
僕からもよく話そうと思うがね」院長はそんな前置きをしながら、
(すこしきむずかしいかおつきをしてせつこのようだいをかなりこまかにわたしにせつめいしてくれた。)
少し気むずかしい顔つきをして節子の容態をかなり細かに私に説明して呉れた。
(それからそれをだまってきいていたわたしのほうをじっとみて、)
それからそれを黙って聞いていた私の方をじっと見て、
(「きみもひどくかおいろがわるいじゃないか。ついでにきみのからだも)
「君もひどく顔色が悪いじゃないか。ついでに君の身体も
(みておいてやるんだったな」とわたしをきのどくがるようにいった。)
診ておいてやるんだったな」と私を気の毒がるように言った。
(えきからわたしがかえって、ふたたびびょうしつにはいってゆくと、ちちはそのまま)
駅から私が帰って、再び病室にはいってゆくと、父はそのまま
(ねているびょうにんのかたわらにいのこって、さなとりうむへでかけるひどりなどのうちあわせを)
寝ている病人の傍に居残って、サナトリウムへ出かける日取などの打ち合わせを
(かのじょとしだしていた。なんだかうかないかおをしたまま、)
彼女とし出していた。なんだか浮かない顔をしたまま、
(わたしもそのそうだんにくわわりだした。)
私もその相談に加わり出した。
(「だがーー」ちちはやがてなにかようじでもおもいついたように、)
「だがーー」父はやがて何か用事でも思いついたように、
(たちあがりながら、「もうこのくらいによくなっているのだから、)
立ち上がりながら、「もうこの位に良くなっているのだから、
(なつなかだけでもいっていたら、よかりそうなものだがね」)
夏中だけでも行っていたら、よかりそうなものだがね」
(といかにもふしんそうにいって、びょうしつをでていった。)
といかにも不審そうに言って、病室を出ていった。
(ふたりきりになると、わたしたちはどちらからともなくふっとだまりあった。)
二人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙り合った。
(それはいかにもはるらしいゆうぐれであった。わたしはさっきからなんだか)
それはいかにも春らしい夕暮であった。私はさっきからなんだか
(ずつうがしだしているようなきがしていたが、それがだんだんくるしく)
頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しく
(なってきたので、そっとめだたぬようにたちあがると、がらすとびらのほうにちかづいて、)
なってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、硝子扉の方に近づいて、
(そのいっぽうのとびらをなかばあけはなちながら、それにもたれかかった。)
その一方の扉を半ば開け放ちながら、それにもたれかかった。
(そうしてしばらくそのままわたしは、)
そうしてしばらくそのまま私は、
(じぶんがなにをかんがえているのかもわからないくらいにぼんやりして、)
自分が何を考えているのかも分からない位にぼんやりして、
(いちめんにうっすらともやのたちこめているむこうのうえこみのあたりへ)
一面にうっすらと靄の立ちこめている向うの植込みのあたりへ
(「いいにおいがするなあ、なんのはなのにおいだろうーー」)
「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろうーー」
(とおもいながら、くうきょなめをやっていた。)
と思いながら、空虚な目をやっていた。