風立ちぬ 堀辰雄 ⑧

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね3お気に入り登録
プレイ回数1247難易度(4.5) 4691打 長文
ジブリの「風立ちぬ」作成に当たり、参考とされた小説です。

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問題文

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(わたしはすぐ、かのじょがなにかうちあけにくいようなことを)

私はすぐ、彼女が何か打ち明けにくいようなことを

(むりにいいだそうとしているらしいのをさとった。)

無理に言い出そうとしているらしいのを覚った。

(そんなばあいのいつものように、かのじょのいまのこえもすこししゃがれていた。)

そんな場合のいつものように、彼女のいまの声もすこししゃがれていた。

(こんどはわたしが、かのじょのほうをふりむきながら、)

今度は私が、彼女の方を振り向きながら、

(それをいわせないように、くちへゆびをあてるばんだった。ーー)

それを言わせないように、口へ指をあてる番だった。ーー

(やがてかんごふちょうがせかせかしたしんせつそうなようすをしてはいってきた。)

やがて看護婦長がせかせかした親切そうな様子をしてはいって来た。

(こうしてかんごふちょうは、まいあさ、びょうしつからびょうしつへと)

こうして看護婦長は、毎朝、病室から病室へと

(かんじゃたちをひとりひとりみまうのである。)

患者達を一人一人見舞うのである。

(「ゆうべはよくおやすみになれましたか?」)

「ゆうべはよくお休みになれましたか?」

(かんごふちょうはかいかつそうなこえでたずねた。)

看護婦長は快活そうな声で尋ねた。

(びょうにんはなにもいわないで、すなおにうなずいた。)

病人は何も言わないで、素直にうなずいた。

(こういうやまのさなとりうむのせいかつなどは、)

こういう山のサナトリウムの生活などは、

(ふつうのひとびとがもういきどまりだとしんじているところからはじまっているような、)

普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、

(とくしゅなにんげんせいをおのずからおびてくるものだ。)

特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。

(ーーわたしがじぶんのうちにそういうみしらないようなにんげんせいを)

ーー私が自分の裡にそういう見知らないような人間性を

(ぼんやりといしきしはじめたのは、)

ぼんやりと意識しはじめたのは、

(にゅういんごまもなくわたしがいんちょうにしんさつしつによばれていって、)

入院後間もなく私が院長に診察室に呼ばれて行って、

(せつこのれんとげんでとられたしっかんぶのしゃしんをみせられたときからだった。)

節子のレントゲンで撮られた疾患部の写真を見せられた時からだった。

(いんちょうはわたしをまどぎわにつれていって、わたしにもみよいように、)

院長は私を窓ぎわに連れて行って、私にも見よいように、

(そのしゃしんのげんばんをひにすかせながら、いちいちそれにせつめいをくわえていった。)

その写真の原板を日に透かせながら、一々それに説明を加えて行った。

など

(みぎのむねにはすうほんのしろじろとしたろっこつがくっきりとみとめられたが、)

右の胸には数本の白々とした肋骨がくっきりと認められたが、

(ひだりのむねにはそれらがほとんどなにもみえないくらい、おおきな、)

左の胸にはそれらが殆んど何も見えない位、大きな、

(まるでくらいふしぎなはなのような、びょうそうができていた。)

まるで暗い不思議な花のような、病竈ができていた。

(「おもったよりもびょうそうがひろがっているなあ。)

「思ったよりも病竈が拡がっているなあ。

(ーーこんなにひどくなってしまっているとはおもわなかったね。)

ーーこんなにひどくなってしまって居るとは思わなかったね。

(ーーこれじゃ、いま、びょういんちゅうでもにばんめぐらいにじゅうしょうかもしれんよーー」)

ーーこれじゃ、いま、病院中でも二番目ぐらいに重症かも知れんよーー」

(そんないんちょうのことばがじぶんのみみのなかでがあがあするようなきがしながら、)

そんな院長の言葉が自分の耳の中でがあがあするような気がしながら、

(わたしはなんだかしこうりょくをうしなってしまったものみたいに、)

私はなんだか思考力を失ってしまった者みたいに、

(いましがたみてきたあのくらいふしぎなはなのようなえいぞうを)

いましがた見て来たあの暗い不思議な花のような影像を

(それらのことばとはすこしもかんけいがないもののように、)

それらの言葉とは少しも関係がないもののように、

(それだけをあざやかにいしきのしきみにのぼらせながら、しんさつしつからかえってきた。)

それだけを鮮かに意識の閾に上らせながら、診察室から帰って来た。

(じぶんとすれちがうはくいのかんごふだの、もうあちこちのばるこんで)

自分とすれちがう白衣の看護婦だの、もうあちこちのバルコンで

(にっこうよくをしだしているらたいのかんじゃたちだの、びょうとうのざわめきだの、)

日光浴をしだしている裸体の患者達だの、病棟のざわめきだの、

(それからことりのさえずりだのが、そういうわたしのまえを)

それから小鳥のさえずりだのが、そういう私の前を

(なんのれんらくもなしにすぎた。わたしはとうとういちばんはずれのびょうとうにはいり、)

何んの連絡もなしに過ぎた。私はとうとう一番はずれの病棟にはいり、

(わたしたちのびょうしつのあるにかいへつうじるかいだんをのぼろうとしてきかいてきにあしをゆるめたしゅんかん、)

私達の病室のある二階へ通じる階段を昇ろうとして機械的に足を弛めた瞬間、

(そのかいだんのひとつてまえにあるびょうしつのなかから、いような、)

その階段の一つ手前にある病室の中から、異様な、

(ついぞそんなのはまだきいたこともないようなきみのわるいからぜきが)

ついぞそんなのはまだ聞いたこともないような気味のわるい空咳が

(つづけさまにもれてくるのをみみにした。)

続けさまに洩れて来るのを耳にした。

(「おや、こんなところにもかんじゃがいたのかなあ」とおもいながら、)

「おや、こんなところにも患者がいたのかなあ」と思いながら、

(わたしはそのどあについているなんばーじゅうななというすうじを、)

私はそのドアについている No.17 という数字を、

(ただぼんやりとみつめた。)

ただぼんやりと見つめた。

(こうしてわたしたちのすこしふうがわりなあいのせいかつがはじまった。)

こうして私達のすこし風変りな愛の生活が始まった。

(せつこはにゅういんいらい、あんせいをめいじられて、ずっとねついたきりだった。)

節子は入院以来、安静を命じられて、ずっと寝ついたきりだった。

(そのために、きぶんのよいときはつとめておきるようにしていた。)

そのために、気分の好いときはつとめて起きるようにしていた。

(にゅういんまえのかのじょにくらべると、かえってびょうにんらしくみえたが、)

入院前の彼女に比べると、かえって病人らしく見えたが、

(べつにびょうきそのものはあっかしたともおもえなかった。)

別に病気そのものは悪化したとも思えなかった。

(いしゃたちもまたすぐかいゆするかんじゃとして)

医者達もまた直ぐ快癒する患者として

(かのじょをいつもとりあつかっているようにみえた。)

彼女をいつも取り扱っているように見えた。

(「こうしてびょうきをいけどりにしてしまうのだ」といんちょうなどは)

「こうして病気を生捕りにしてしまうのだ」と院長などは

(じょうだんでもいうようにいったりした。)

冗談でも言うように言ったりした。

(きせつはそのあいだに、いままですこしおくれぎみだったのをとりもどすように、)

季節はその間に、いままで少し遅れ気味だったのを取り戻すように、

(きゅうそくにすすみだしていた。)

急速に進み出していた。

(はるとなつとがほとんどどうじにおしよせてきたかのようだった。)

春と夏とが殆んど同時に押し寄せて来たかのようだった。

(まいあさのように、うぐいすやかっこうのさえずりがわたしたちをめざませた。)

毎朝のように、鶯や閑古鳥のさえずりが私達を眼ざませた。

(そしてほとんどいちにちじゅう、しゅういのはやしのしんりょくがさなとりうむをしほうからおそいかかって、)

そして殆んど一日中、周囲の林の新緑がサナトリウムを四方から襲いかかって、

(びょうしつのなかまですっかりさわやかにいろづかせていた。)

病室の中まですっかり爽やかに色づかせていた。

(それらのひび、あさのうちにやまやまからわいてでていったしろいくもまでも、)

それらの日々、朝のうちに山々から湧いて出て行った白い雲までも、

(ゆうがたにはふたたびもとのやまやまへたちもどってくるかとみえた。)

夕方には再び元の山々へ立ち戻って来るかと見えた。

(わたしは、わたしたちがともにしたさいしょのひび、わたしがせつこのまくらもとに)

私は、私達が共にした最初の日々、私が節子の枕もとに

(ほとんどつききりですごしたそれらのひびのことをおもいうかべようとすると、)

殆んど附ききりで過したそれらの日々のことを思い浮べようとすると、

(それらのひびがたがいににているために、そのみりょくはなくはないたんいつさのために、)

それらの日々が互に似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、

(ほとんどどれがあとだかさきだかみわけがつかなくなるようなきがする。)

殆んどどれが後だか先きだか見分けがつかなくなるような気がする。

(というよりも、わたしたちはそれらのにたようなひびをくりかえしているうちに、)

と言うよりも、私達はそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、

(いつかまったくじかんというものからも)

いつか全く時間というものからも

(ぬけだしてしまっていたようなきさえするくらいだ。)

抜け出してしまっていたような気さえする位だ。

(そして、そういうじかんからぬけだしたようなひびにあっては、)

そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、

(わたしたちのにちじょうせいかつのどんなささいなものまで、)

私達の日常生活のどんな些細なものまで、

(そのひとつひとつがいままでとはぜんぜんことなったみりょくをもちだすのだ。)

その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。

(わたしのみぢかにあるこのなまぬるい、)

私の身近にあるこのなまぬるい、

(よいにおいのするそんざい、そのすこしはやいこきゅう、)

好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、

(わたしのてをとっているそのしなやかなて、そのほほえみ、)

私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、

(それからまたときどきとりかわすへいぼんなかいわ、)

それからまたときどき取り交わす平凡な会話、

(ーーそういったものをもしとりのぞいてしまうとしたら、)

ーーそう云ったものをもし取り除いてしまうとしたら、

(あとにはなにものこらないようなたんいつなひびだけれども、)

あとには何も残らないような単一な日々だけれども、

(ーーわれわれのじんせいなんぞというものはようそてきにはじつはこれだけなのだ、)

ーー我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、

(そして、こんなささやかなものだけで)

そして、こんなささやかなものだけで

(わたしたちがこれほどまでまんぞくしていられるのは、)

私達がこれほどまで満足していられるのは、

(ただわたしがそれをこのおんなとともにしているからなのだ、)

ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、

(ということをわたしはかくしんしていられた。)

と云うことを私は確信して居られた。

(それらのひびにおけるゆいいつのできごとといえば、)

それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、

(かのじょがときおりねつをだすことくらいだった。それはかのじょのからだをじりじり)

彼女がときおり熱を出すこと位だった。それは彼女の体をじりじり

(おとろえさせていくものにちがいなかった。)

衰えさせて行くものにちがいなかった。

(が、わたしたちはそういうひは、いつもとすこしもかわらないにっかのみりょくを、)

が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、

(もっとさいしんに、もっとかんまんに、あたかもきんだんのかじつのあじを)

もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味を

(こっそりぬすみでもするようにあじわおうとこころみたので、)

こっそりぬすみでもするように味わおうと試みたので、

(わたしたちのいくぶんしのあじのするせいのこうふくは)

私達のいくぶん死の味のする生の幸福は

(そのときはいっそうかんぜんにたもたれたほどだった。)

その時は一そう完全に保たれた程だった。

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