風立ちぬ 堀辰雄 ⑨
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問題文
(そんなあるゆうぐれ、わたしはばるこんから、そしてせつこはべっどのうえから、)
そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、
(おなじように、むこうのやまのせにはいってまもないゆうひをうけて、)
同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、
(そのあたりのやまだのおかだのまつばやしだのやまはただのが、)
そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、
(なかばあざやかなあかねいろをおびながら、)
半ば鮮かな茜色を帯びながら、
(なかばまだふたしかなようなねずみいろにじょじょにおかされだしているのを、)
半ばまだ不確かなような鼠色に徐々に侵され出しているのを、
(うっとりとしてながめていた。)
うっとりとして眺めていた。
(ときどきおもいだしたようにそのもりのうえへことりたちが)
ときどき思い出したようにその森の上へ小鳥たちが
(ぼうぶつせんをえがいてとびあがった。)
抛物線を描いて飛び上った。
(ーーわたしは、このようなしょかのゆうぐれが)
ーー私は、このような初夏の夕暮が
(ほんのいっしゅんじしょうじさせているいったいのけしきは、)
ほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、
(すべてはいつもみなれたどうぐだてながら、)
すべてはいつも見馴れた道具立てながら、
(おそらくいまをおいてはこれほどのあふれるようなこうふくのかんじをもって)
恐らく今をおいてはこれほどの溢れるような幸福の感じをもって
(わたしたちじしんにすらながめえられないだろうことをかんがえていた。)
私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。
(そしてずっとあとになって、いつかこのうつくしいゆうぐれが)
そしてずっと後になって、いつかこの美しい夕暮が
(わたしのこころによみがえってくるようなことがあったら、)
私の心に蘇って来るようなことがあったら、
(わたしはこれにわたしたちのこうふくそのもののかんぜんなえを)
私はこれに私達の幸福そのものの完全な絵を
(みいだすだろうとゆめみていた。)
見出すだろうと夢みていた。
(「なにをそんなにかんがえているの?」)
「何をそんなに考えているの?」
(わたしのはいごからせつこがとうとうくちをきった。)
私の背後から節子がとうとう口を切った。
(「わたしたちがずっとあとになってね、)
「私達がずっと後になってね、
(いまのわたしたちのせいかつをおもいだすようなことがあったら)
今の私達の生活を思い出すようなことがあったら
(それがどんなにうつくしいだろうとおもっていたんだ」)
それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
(「ほんとうにそうかもしれないわね」)
「本当にそうかも知れないわね」
(かのじょはそうわたしにどういするのがさもたのしいかのようにおうじた。)
彼女はそう私に同意するのがさも愉しいかのように応じた。
(それからまたわたしたちはしばらくむごんのまま、ふたたびおなじふうけいにみいっていた。)
それからまた私達はしばらく無言のまま、再び同じ風景に見入っていた。
(が、そのうちにわたしはふいになんだか、)
が、そのうちに私は不意になんだか、
(こうやってうっとりとみいっているのがじぶんであるようなじぶんでないような、)
こうやってうっとりと見入っているのが自分であるような自分でないような、
(へんにぼうばくとした、とりとめのない、)
変に茫漠とした、取りとめのない、
(そしてそれがなんとなくくるしいようなかんじさえしてきた。)
そしてそれが何んとなく苦しいような感じさえして来た。
(そのときわたしはじぶんのはいごでふかいいきのようなものをきいたようなきがした。)
そのとき私は自分の背後で深い息のようなものを聞いたような気がした。
(が、それがまたじぶんのだったようなきもされた。)
が、それがまた自分のだったような気もされた。
(わたしはそれをたしかめでもするように、かのじょのほうをふりむいた。)
私はそれを確かめでもするように、彼女の方を振り向いた。
(「そんなにいまのーー」そういうわたしをじっとみかえしながら、)
「そんなにいまのーー」そういう私をじっと見返しながら、
(かのじょはすこししゃがれたこえでいいかけた。)
彼女はすこししゃがれた声で言いかけた。
(が、それをいいかけたなり、すこしためらっていたようだったが、)
が、それを言いかけたなり、すこし躊躇っていたようだったが、
(それからきゅうにいままでとはことなったうっちゃるようなちょうしで、)
それから急にいままでとは異ったうっちゃるような調子で、
(「そんなにいつまでもいきていられたらいいわね」といいたした。)
「そんなにいつまでも生きて居られたらいいわね」と言い足した。
(「また、そんなことを!」わあたしはいかにもじれったいようにちいさくさけんだ。)
「又、そんなことを!」私はいかにも焦れったいように小さく叫んだ。
(「ごめんなさい」かのじょはそうみじかくこたえながらわたしからかおをそむけた。)
「御免なさい」彼女はそう短く答えながら私から顔をそむけた。
(いましがたまでのなにかじぶんにもわけのわからないようなきぶんが)
いましがたまでの何か自分にもわけの分らないような気分が
(わたしにはだんだんいっしゅのいらだたしさにかわりだしたようにみえた。)
私にはだんだん一種の苛立しさに変り出したように見えた。
(わたしはそれからもういちどやまのほうへめをやったが、そのときはすでにもう)
私はそれからもう一度山の方へ目をやったが、その時は既にもう
(そのふうけいのうえにいっしゅんかんしょうじていたいようなうつくしさはきえうせていた。)
その風景の上に一瞬間生じていた異様な美しさは消え失せていた。
(そのばん、わたしがとなりのそくしつへねにいこうとしたとき、かのじょはわたしをよびとめた。)
その晩、私が隣りの側室へ寝に行こうとした時、彼女は私を呼び止めた。
(「さっきはごめんなさいね」)
「さっきは御免なさいね」
(「もういいんだよ」「わたしね、あのときほかのことをいおうとしていたんだけれど)
「もういいんだよ」「私ね、あのとき他のことを言おうとしていたんだけれど
(ーーつい、あんなことをいってしまったの」)
ーーつい、あんなことを言ってしまったの」
(「じゃ、あのときなにをいおうとしたんだい?」)
「じゃ、あのとき何を言おうとしたんだい?」
(「ーーあなたはいつかしぜんなんぞがほんとうにうつくしいとおもえるのは)
「ーーあなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは
(しんでいこうとするもののめにだけだとおっしゃったことがあるでしょう。)
死んで行こうとする者の眼にだけだと仰ったことがあるでしょう。
(ーーわたし、あのときね、それをおもいだしたの。)
ーー私、あのときね、それを思い出したの。
(なんだかあのときのうつくしさがそんなふうにおもわれて」そういいながら、)
何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」そう言いながら、
(かのじょはわたしのかおをなにかうったえたいようにみつめた。)
彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。
(そのことばにむねをつかれでもしたように、わたしはおもわずめをふせた。)
その言葉に胸を衝かれでもしたように、私は思わず目を伏せた。
(そのとき、とつぜん、わたしのあたまのなかをひとつのしそうがよぎった。)
そのとき、突然、私の頭の中を一つの思想がよぎった。
(そしてさっきからわたしをいらいらさせていた、なにかふたしかなようなきぶんが、)
そしてさっきから私を苛ら苛らさせていた、何か不確かなような気分が、
(ようやくわたしのうちではっきりとしたものになりだした。)
ようやく私の裡ではっきりとしたものになり出した。
(ーー「そうだ、おれはどうしてそいつにきがつかなかったのだろう?)
ーー「そうだ、おれはどうしてそいつに気がつかなかったのだろう?
(あのときしぜんなんぞをあんなにうつくしいとおもったのはおれじゃないのだ。)
あのとき自然なんぞをあんなに美しいと思ったのはおれじゃないのだ。
(それはおれたちだったのだ。まあいっていみれば、せつこのたましいがおれのめをとおして、)
それはおれ達だったのだ。まあ言って見れば、節子の魂がおれの眼を通して、
(そしてただおれのりゅうぎで、ゆめみていただけなのだ。)
そしてただおれの流儀で、夢みていただけなのだ。
(ーーそれだのに、せつこがじぶんのさいごのしゅんかんのことをゆめみているともしらないで、)
ーーそれだのに、節子が自分の最後の瞬間のことを夢みているとも知らないで、
(おれはおれで、かってにおれたちのながいきしたときのことなんぞ)
おれはおれで、勝手におれ達の長生きした時のことなんぞ
(かんがえていたなんてーー」)
考えていたなんてーー」
(いつしかそんなかんがえをとつおいつしだしていたわたしが、)
いつしかそんな考えをとつおいつし出していた私が、
(ようやくやっとめをあげるまで、)
ようやくやっと目を上げるまで、
(かのじょはさっきとおなじようにわたしをじっとみつめていた。)
彼女はさっきと同じように私をじっと見つめていた。
(わたしはそのめをさけるようなかっこうをしながら、)
私はその目を避けるような恰好をしながら、
(かのじょのうえにかがみかけて、そのひたいにそっとせっぷんした。)
彼女の上にかがみかけて、その額にそっと接吻した。
(わたしはこころからはずかしかった。)
私は心からはずかしかった。