風立ちぬ 堀辰雄 ⑩
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問題文
(とうとうまなつになった。それはへいちでよりも、もっともうれつなくらいであった。)
とうとう真夏になった。それは平地でよりも、もっと猛烈な位であった。
(うらのぞうきばやしでは、なにかがもえだしでもしたかのように、)
裏の雑木林では、何かが燃え出しでもしたかのように、
(せみがひねもすなきやまなかった。)
蝉がひねもす啼き止やまなかった。
(じゅしのにおいさえ、あけはなしたまどからただよってきた。)
樹脂のにおいさえ、開け放した窓から漂って来た。
(ゆうがたになると、こがいですこしでもらくなこきゅうをするために、)
夕方になると、戸外で少しでも楽な呼吸をするために、
(ばるこんまでべっどをひきださせるかんじゃたちがおおかった。)
バルコンまでベッドを引き出させる患者達が多かった。
(それらのかんじゃたちをみて、わたしたちははじめて、このころにわかに)
それらの患者達を見て、私達ははじめて、この頃にわかに
(さなとりうむのかんじゃたちのふえだしたことをしった。)
サナトリウムの患者達の増え出したことを知った。
(しかし、わたしたちはあいかわらずだれにもかまわずにふたりだけのせいかつをつづけていた。)
しかし、私達は相かわらず誰にも構わずに二人だけの生活を続けていた。
(このごろ、せつこはあつさのためにすっかりしょくよくをうしない、)
この頃、節子は暑さのためにすっかり食慾を失い、
(よるなどもよくねられないことがおおいらしかった。)
夜などもよく寝られないことが多いらしかった。
(わたしは、かのじょのひるねをまもるために、まえよりもいっそう、ろうかのあしおとや、)
私は、彼女の昼寝を守るために、前よりも一層、廊下の足音や、
(まどからとびこんでくるはちやあぶなどにきをくばりだした。)
窓から飛びこんでくる蜂や虻などに気を配り出した。
(そしてあつさのためにおもわずおおきくなる)
そして暑さのために思わず大きくなる
(わたしじしんのこきゅうにもきをもんだりした。)
私自身の呼吸にも気をもんだりした。
(そのようにびょうにんのまくらもとで、いきをつめながら、)
そのように病人の枕元で、息をつめながら、
(かのじょのねむっているのをみまもっているのは、)
彼女の眠っているのを見守っているのは、
(わたしにとってもひとつのねむりにちかいものだった。)
私にとっても一つの眠りに近いものだった。
(わたしはかのじょがねむりながらこきゅうをはやくしたりゆるくしたりするへんかを)
私は彼女が眠りながら呼吸を速くしたり弛くしたりする変化を
(くるしいほどはっきりとかんじるのだった。わたしはかのじょとしんぞうのこどうをさえともにした。)
苦しいほどはっきりと感じるのだった。私は彼女と心臓の鼓動をさえ共にした。
(ときどきかるいこきゅうこんなんがかのじょをおそうらしかった。)
ときどき軽い呼吸困難が彼女を襲うらしかった。
(そんなとき、てをすこしけいれんさせながらのどのところまでもっていって)
そんな時、手をすこし痙攣させながら咽のところまで持って行って
(それをおさえるようなてつきをする、)
それを抑えるような手つきをする、
(ーーゆめにおそわれてでもいるのではないかとおもって、)
ーー夢に魘われてでもいるのではないかと思って、
(わたしがおこしてやったものかどうかとためらっているうち、)
私が起してやったものかどうかと躊躇っているうち、
(そんなくるしげなじょうたいはやがてすぎ、あとにしかんじょうたいがやってくる。)
そんな苦しげな状態はやがて過ぎ、あとに弛緩状態がやって来る。
(そうすると、わたしもおもわずほっとしながら、)
そうすると、私も思わずほっとしながら、
(いまかのじょのいきづいているしずかなこきゅうにじぶんまでがいっしゅのかいかんさえおぼえる。)
いま彼女の息づいている静かな呼吸に自分までが一種の快感さえ覚える。
(ーーそうしてかのじょがめをさますと、わたしはそっとかのじょのかみにせっぷんをしてやる。)
ーーそうして彼女が目を醒さますと、私はそっと彼女の髪に接吻をしてやる。
(かのじょはまだだるそうなめつきで、わたしをみるのだった。)
彼女はまだ倦そうな目つきで、私を見るのだった。
(「あなた、そこにいたの?」)
「あなた、そこにいたの?」
(「ああ、ぼくもここですこしうつらうつらしていたんだ」)
「ああ、僕もここで少しうつらうつらしていたんだ」
(そんなばんなど、じぶんもいつまでもねつかれずにいるようなことがあると、)
そんな晩など、自分もいつまでも寝つかれずにいるようなことがあると、
(わたしはそれがくせにでもなったように、じぶんでもしらずに、)
私はそれが癖にでもなったように、自分でも知らずに、
(てをのどにちかづけながらそれをおさえるようなてつきをまねたりしている。)
手を咽に近づけながらそれを抑えるような手つきを真似たりしている。
(そしてそれにきがついたあとで、)
そしてそれに気がついたあとで、
(それからやっとわたしはほんとうのこきゅうこんなんをかんじたりする。)
それからやっと私は本当の呼吸困難を感じたりする。
(が、それはわたしにはむしろこころよいものでさえあった。)
が、それは私にはむしろ快いものでさえあった。
(「このごろなんだかおかおいろがわるいようよ」)
「この頃なんだかお顔色が悪いようよ」
(あるひ、かのじょはいつもよりしげしげとみながらいうのだった。)
或る日、彼女はいつもよりしげしげと見ながら言うのだった。
(「どうかなすったのじゃない?」)
「どうかなすったのじゃない?」
(「なんでもないよ」そういわれるのはわたしのきにいった。)
「なんでもないよ」そう言われるのは私の気に入った。
(「ぼくはいつだってこうじゃないか?」)
「僕はいつだってこうじゃないか?」
(「あんまりびょうにんのそばにばかりいないで、)
「あんまり病人の側にばかり居ないで、
(すこしはさんぽくらいなすっていらっしゃらない?」)
少しは散歩くらいなすっていらっしゃらない?」
(「このあついのに、さんぽなんかできるもんか。)
「この暑いのに、散歩なんか出来るもんか。
(ーーよるはよるで、まっくらだしさ。ーーそれにまいにち、)
ーー夜は夜で、真っ暗だしさ。ーーそれに毎日、
(びょういんのなかをずいぶんいったりきたりしているんだからなあ」)
病院の中をずいぶん往ったり来たりしているんだからなあ」
(わたしはそんなかいわをそれいじょうにすすめないために、)
私はそんな会話をそれ以上にすすめないために、
(まいにちろうかなどでであったりする、ほかのかんじゃたちのはなしをもちだすのだった。)
毎日廊下などで出逢ったりする、他の患者達の話を持ち出すのだった。
(よくばるこんのへりにひとかたまりになりながら、)
よくバルコンの縁に一塊りになりながら、
(そらをけいばじょうに、うごいているくもをいろいろそれににたどうぶつに)
空を競馬場に、動いている雲をいろいろそれに似た動物に
(みたてあったりしているねんしょうのかんじゃたちのことや、)
見立て合ったりしている年少の患者達のことや、
(いつもつきそいかんごふのうでにすがって、あてもなしにろうかをおうふくしている、)
いつも附添看護婦の腕にすがって、あてもなしに廊下を往復している、
(ひどいしんけいすいじゃくの、ぶきみなくらいせのたかいかんじゃのことなどを)
ひどい神経衰弱の、無気味なくらい背の高い患者のことなどを
(はなしてきかせたりした。)
話して聞かせたりした。
(しかし、わたしはまだいちどもそのかおはみたことがないが、)
しかし、私はまだ一度もその顔は見たことがないが、
(いつもそのへやのまえをとおるごとに、きみのわるい、)
いつもその部屋の前を通るごとに、気味のわるい、
(なんだかぞっとするようなせきをみみにするれいのだいじゅうななごうしつのかんじゃのことだけは、)
なんだかぞっとするような咳を耳にする例の第十七号室の患者のことだけは、
(つとめてさけるようにしていた。おそらくそれがこのさなとりうむじゅうで、)
つとめて避けるようにしていた。恐らくそれがこのサナトリウム中で、
(いちばんじゅうしょうのかんじゃなのだろうとおもいながら。)
一番重症の患者なのだろうと思いながら。
(はちがつもようやくすえちかくなったのに、まだずっとねぐるしいようなばんがつづいていた。)
八月も漸く末近くなったのに、まだずっと寝苦しいような晩が続いていた。
(そんなあるばん、わたしたちがなかなかねつかれずにいると、)
そんな或る晩、私達がなかなか寝つかれずにいると、
((もうとっくにしゅうしんじかんのくじはすぎていた。))
(もうとっくに就寝時間の九時は過ぎていた。)
(ずっとむこうのしたのびょうとうがなんとなくそうぞうしくなりだした。)
ずっと向うの下の病棟が何んとなく騒々しくなり出した。
(それにときどきろうかをこばしりにしていくようなあしおとや、)
それにときどき廊下を小走りにして行くような足音や、
(おさえつけたようなかんごふのちいさなさけびや、きぐのするどくぶつかるおとがまじった。)
抑えつけたような看護婦の小さな叫びや、器具の鋭くぶつかる音がまじった。
(わたしはしばらくふあんそうにみみをかたむけていた。)
私はしばらく不安そうに耳を傾けていた。
(それがやっとしずまったかとおもうと、それとそっくりなちんもくのざわめきが、)
それがやっと鎮まったかと思うと、それとそっくりな沈黙のざわめきが、
(ほとんどどうじに、あっちのびょうとうにもこっちのびょうとうにもおこりだした。)
殆ど同時に、あっちの病棟にもこっちの病棟にも起り出した、
(そしてしまいにはわたしたちのすぐしたのほうからもきこえてきた。)
そしてしまいには私達のすぐ下の方からも聞えて来た。
(わたしは、いま、さなとりうむのなかをあらしのようにあばれまわっているものの)
私は、今、サナトリウムの中を嵐のように暴れ廻っているものの
(なんであるかぐらいはしっていた。)
何んであるかぐらいは知っていた。
(わたしはそのあいだになんどもみみをそばだてては、)
私はその間に何度も耳をそば立てては、
(さっきからあかりはけしてあるものの、まだおなじようにねつかれずに)
さっきからあかりは消してあるものの、まだ同じように寝つかれずに
(いるらしいりんしつのびょうにんのようすをうかがった。)
いるらしい隣室の病人の様子を窺った。
(びょうにんはねがえりさえうたずに、じっとしているらしかった。)
病人は寝返りさえ打たずに、じっとしているらしかった。
(わたしもいきぐるしいほどじっとしながら、)
私も息苦しいほどじっとしながら、
(そんなあらしがひとりでにおとろえてくるのをまちつづけていた。)
そんな嵐がひとりでに衰えて来るのを待ち続けていた。
(まよなかになってからやっとそれがおとろえだすようにみえたので、)
真夜中になってからやっとそれが衰え出すように見えたので、
(わたしはおもわずほっとしながらすこしまどろみかけたが、)
私は思わずほっとしながら少しまどろみかけたが、
(とつぜん、りんしつでびょうにんがそれまでむりにおさえつけていたような)
突然、隣室で病人がそれまで無理に抑えつけていたような
(しんけいてきなせきをふたつみっつつよくしたので、ふいとめをさました。)
神経的な咳を二つ三つ強くしたので、ふいと目を覚ました。