風立ちぬ 堀辰雄 ㉒

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね3お気に入り登録
プレイ回数1084難易度(4.4) 4255打 長文
ジブリの「風立ちぬ」作成に当たり、参考とされた小説です。

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問題文

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(じゅうにがつついたちこのごろになって、どうしたのか、)

十二月一日   この頃になって、どうしたのか、

(わたしのあかりをしたってくるががまたふえだしたようだ。)

私の明りを慕ってくる蛾がまた殖え出したようだ。

(よる、そんなががどこからともなくとんできて、)

夜、そんな蛾がどこからともなく飛んで来て、

(しめきったまどがらすにはげしくぶつかり、そのだげきでみずからきずつきながら、)

閉め切った窓硝子にはげしくぶつかり、その打撃で自ら傷つきながら、

(なおもせいをもとめてやまないように、)

なおも生を求めてやまないように、

(しにみになってがらすにあなをあけようとこころみている。)

死に身になって硝子に孔をあけようと試みている。

(わたしがそれをうるさがって、あかりをけしてべっどにはいってしまっても、)

私がそれをうるさがって、明りを消してベッドにはいってしまっても、

(まだしばらくものぐるわしいはばたきをしているが、)

まだしばらく物狂わしいはばたきをしているが、

(しだいにそれがおとろえ、ついにどこかにしがみついたきりになる。)

次第にそれが衰え、ついに何処かにしがみついたきりになる。

(そんなよくちょう、わたしはかならずそのまどのしたに、)

そんな翌朝、私はかならずその窓の下に、

(いちまいのくちばみたいになったがのしがいをみつける。)

一枚の朽ち葉みたいになった蛾の死骸を見つける。

(こんやもそんなががいっぴき、とうとうへやのなかへとびこんできて、)

今夜もそんな蛾が一匹、とうとう部屋の中へ飛び込んで来て、

(わたしのむかっているあかりのまわりをさっきからものぐるわしくくるくるとまわっている。)

私の向っている明りのまわりをさっきから物狂わしくくるくると廻っている。

(やがてばさりとおとをたててわたしのかみのうえにおちる。)

やがてばさりと音を立てて私の紙の上に落ちる。

(そしていつまでもそのままうごかずにいる。)

そしていつまでもそのまま動かずにいる。

(それからまたじぶんのいきていることを)

それからまた自分の生きていることを

(やっとおもいだしたように、きゅうにとびたつ。)

やっと思い出したように、急に飛び立つ。

(じぶんでももうなにをしているのだかわからずにいるのだとしかみえない。)

自分でももう何をしているのだか分らずにいるのだとしか見えない。

(やがてまた、わたしのかみのうえにばさりとおとをたてておちる。)

やがてまた、私の紙の上にばさりと音を立てて落ちる。

(わたしはいようなおそれからそのがをおいのけようともしないで、)

私は異様な怖れからその蛾をおいのけようともしないで、

など

(かえってさもむかんしんそうに、じぶんのかみのうえでそれがしぬままにさせておく。)

かえってさも無関心そうに、自分の紙の上でそれが死ぬままにさせて置く。

(じゅうにがついつかゆうがた、わたしたちはふたりきりでいた。)

十二月五日   夕方、私達は二人きりでいた。

(つきそいかんごふはいましがたしょくじにいった。)

附添看護婦はいましがた食事に行った。

(ふゆのひはすでにせいほうのやまのせにはいりかけていた。)

冬の日は既に西方の山の背にはいりかけていた。

(そしてそのかたむいたひざしが、)

そしてその傾いた日ざしが、

(だんだんそこびえのしだしたへやのなかをきゅうにあかるくさせだした。)

だんだん底冷えのしだした部屋の中を急に明るくさせ出した。

(わたしはびょうにんのまくらもとで、ひいたあにあしをのせながら、)

私は病人の枕もとで、ヒイタアに足を載せながら、

(てにしたほんのうえにみをかがめていた。)

手にした本の上に身を屈めていた。

(そのときびょうにんがふいに、「あら、おとうさま」とかすかにさけんだ。)

そのとき病人が不意に、「あら、お父様」とかすかに叫んだ。

(わたしはおもわずぎくりとしながらかのじょのほうへかおをあげた。)

私は思わずぎくりとしながら彼女の方へ顔を上げた。

(わたしはかのじょのめがいつになくかがやいているのをみとめた。)

私は彼女の目がいつになくかがやいているのを認めた。

(ーーしかしわたしはさりげなさそうに、)

ーーしかし私はさりげなさそうに、

(いまのちいさなさけびがみみにはいらなかったらしいようすをしながら、)

今の小さな叫びが耳にはいらなかったらしい様子をしながら、

(「いまなにかいったかい?」ときいてみた。)

「いま何か言ったかい?」と訊いて見た。

(かのじょはしばらくへんじをしないでいた。)

彼女はしばらく返事をしないでいた。

(が、そのめはいっそうかがやきだしそうにみえた。)

が、その目は一層かがやき出しそうに見えた。

(「あのひくいやまのひだりのはしに、すこうしひのあたったところがあるでしょう?」)

「あの低い山の左の端に、すこうし日のあたった所があるでしょう?」

(かのじょはやっとおもいきったようにべっどからてでそのほうをちょっとさして、)

彼女はやっと思い切ったようにベッドから手でその方をちょっと指して、

(それからなんだかいいにくそうなことばをむりにそこからひきだしでもするように、)

それから何んだか言いにくそうな言葉を無理にそこから引出しでもするように、

(そのゆびさきをこんどはじぶんのくちへあてがいながら、)

その指先きを今度は自分の口へあてがいながら、

(「あそこにおとうさまのよこがおにそっくりなかげが、いまじぶんになると、)

「あそこにお父様の横顔にそっくりな影が、いま時分になると、

(いつもできるのよ。ーーほら、ちょうどいまできているのがわからない?」)

いつも出来るのよ。ーーほら、丁度いま出来ているのが分らない?」

(そのひくいやまがかのじょのいっているやまであるらしいのは、)

その低い山が彼女の言っている山であるらしいのは、

(そのゆびさきをたどりながらわたしにもすぐわかったが、)

その指先きを辿りながら私にもすぐ分ったが、

(ただそこいらへんにはななめなひのひかりが)

唯そこいらへんには斜めな日の光が

(くっきりとうきたたせているやまひだしかわたしにはみとめられなかった。)

くっきりと浮き立たせている山ひだしか私には認められなかった。

(「もうきえていくわ・・・ああ、まだひたいのところだけのこっているーー」)

「もう消えて行くわ・・・ああ、まだ額のところだけ残っているーー」

(そのときやっとわたしはそのちちのひたいらしいやまひだをみとめることができた。)

そのときやっと私はその父の額らしい山襞を認めることが出来た。

(それはちちのがっしりとしたひたいをわたしにもおもいださせた。)

それは父のがっしりとした額を私にも思い出させた。

(「こんなかげにまで、こいつはこころのうちでちちをもとめていたのだろうか?)

「こんな影にまで、こいつは心の裡で父を求めていたのだろうか?

(ああ、こいつはまだぜんしんでちちをかんじている、ちちをよんでいるーー」)

ああ、こいつはまだ全身で父を感じている、父を呼んでいるーー」

(が、いっしゅんかんのあとには、くらやみがそのひくいやまをすっかりみたしてしまった。)

が、一瞬間の後には、暗やみがその低い山をすっかり満たしてしまった。

(そしてすべてのかげはきえてしまった。)

そしてすべての影は消えてしまった。

(「おまえ、いえへかえりたいのだろう?」)

「お前、家へ帰りたいのだろう?」

(わたしはついとこころにうかんださいしょのことばをおもわずもくちにだした。)

私はついと心に浮んだ最初の言葉を思わずも口に出した。

(そのあとですぐわたしはふあんそうにせつこのめをもとめた。)

そのあとですぐ私は不安そうに節子の目を求めた。

(かのじょはほとんどすげないようなめつきでわたしをみつめかえしていたが、)

彼女は殆どすげないような目つきで私を見つめ返していたが、

(きゅうにそのめをそらせながら、)

急にその目を反らせながら、

(「ええ、なんだかかえりたくなっちゃったわ」)

「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」

(ときこえるかきこえないくらいな、かすれたこえでいった。)

と聞えるか聞えない位な、かすれた声で言った。

(わたしはくちびるをかんだまま、めだたないようにべっどのそばをはなれて、)

私はくちびるを噛んだまま、目立たないようにベッドの側を離れて、

(まどぎわのほうへあゆみよった。)

窓ぎわの方へ歩み寄った。

(わたしのはいごでかのじょがすこしふるえごえでいった。)

私の背後で彼女が少しふるえ声で言った。

(「ごめんなさいね。だけど、いまちょっとのあいだだけだわ。)

「御免なさいね。だけど、いま一寸の間だけだわ。

(こんなきもち、じきになおるわ」)

こんな気持、じきに直るわ」

(わたしはまどのところにりょうてをくんだまま、ことばもなくたっていた。)

私は窓のところに両手を組んだまま、言葉もなく立っていた。

(やまやまのふもとにはもうくらやみがかたまっていた。)

山々の麓にはもう暗やみが塊まっていた。

(しかしさんちょうにはまだかすかにひかりがただよっていた。)

しかし山頂にはまだかすかに光が漂っていた。

(とつぜんのどをしめつけられるようなきょうふがわたしをおそってきた。)

突然のどをしめつけられるような恐怖が私を襲ってきた。

(わたしはいきなりびょうにんのほうをふりむいた。かのじょはりょうてでかおをおさえていた。)

私はいきなり病人の方をふり向いた。彼女は両手で顔を押さえていた。

(きゅうになにもかもじぶんたちからうしなわれていってしまいそうな、)

急に何もかもが自分達から失われて行ってしまいそうな、

(ふあんなきもちでいっぱいになりながら、わたしはべっどにかけよって、)

不安な気持で一ぱいになりながら、私はベッドに駈けよって、

(そのてをかのじょのかおからむりによけた。)

その手を彼女の顔から無理に除けた。

(かのじょはわたしにあらがおうとしなかった。)

彼女は私に抗おうとしなかった。

(たかいほどなひたい、もうしずかなひかりさえみせているめ、)

高いほどな額、もう静かな光さえ見せている目、

(ひきしまったくちもと、ーーなにひとついつもとすこしもかわっていず、)

引きしまった口もと、ーー何一ついつもと少しも変っていず、

(いつもよりかもっともっとおかしがたいようにわたしにはおもわれた。)

いつもよりかもっともっと犯し難いように私には思われた。

(そうしてわたしはなんでもないのにそんなにおびえきっているわたしじしんを)

そうして私は何んでもないのにそんなに怯え切っている私自身を

(かえってこどものようにかんぜずにはいられなかった。)

反って子供のように感ぜずにはいられなかった。

(わたしはそれからきゅうにちからがぬけてしまったようになって、)

私はそれから急に力が抜けてしまったようになって、

(がっくりとひざをついて、べっどのへりにかおをうずめた。)

がっくりと膝を突いて、ベッドの縁に顔を埋めた。

(そうしてそのままいつまでもぴったりとそれにかおをおしつけていた。)

そうしてそのままいつまでもぴったりとそれに顔を押しつけていた。

(びょうにんのてがわたしのかみのけをかるくなでているのをかんじだしながらーー)

病人の手が私の髪の毛を軽く撫でているのを感じ出しながらーー

(へやのなかまでもううすぐらくなっていた。)

部屋の中までもう薄暗くなっていた。

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