風立ちぬ 堀辰雄 ㉓
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問題文
((しのかげのたに)せんきゅうひゃくさんじゅうろくねんじゅうにがつついたちkむらにて)
(死のかげの谷) 一九三六年十二月一日 K村にて
(ほとんどさんねんはんぶりでみるこのむらは、もうすっかりゆきにうまっていた。)
殆ど三年半ぶりで見るこの村は、もうすっかり雪に埋まっていた。
(いっしゅうかんばかりもまえからゆきがふりつづいていて、)
一週間ばかりも前から雪がふりつづいていて、
(けさやっとそれがやんだのだそうだ。)
けさやっとそれがやんだのだそうだ。
(すいじのせわをたのんだむらのわかいむすめとそのおとうとが、)
炊事の世話を頼んだ村の若い娘とその弟が、
(そのおとこのこのらしいちいさなそりにわたしのにもつをのせて、)
その男の子のらしい小さな橇に私の荷物を載せて、
(これからこのふゆをそこでわたしのすごそうというやまごやまで、)
これからこの冬を其処で私の過ごそうという山小屋まで、
(ひきあげていってくれた。)
引き上げて行ってくれた。
(そのそりのあとについてゆきながら、)
その橇のあとに附いてゆきながら、
(とちゅうでなんどもわたしはすべりそうになった。)
途中で何度も私は滑りそうになった。
(それほどもうたにかげのゆきはこちこちにしみついてしまっていた。)
それほどもう谷かげの雪はこちこちに凍みついてしまっていた。
(わたしのかりたこやは、そのむらからすこしきたへはいった、あるちいさなたににあって、)
私の借りた小屋は、その村からすこし北へはいった、或小さな谷にあって、
(そこいらにもふるくからがいじんたちのべっそうがあちこちにたっている、)
そこいらにも古くから外人たちの別荘があちこちに立っている、
(なんでもそれらのべっそうのいちばんはずれになっているはずだった。)
なんでもそれらの別荘の一番はずれになっている筈だった。
(そこになつをすごしにくるがいじんたちがこのたにをしょうしてしあわせのたにといっているとか。)
其処に夏を過ごしに来る外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云っているとか。
(こんなひとけのたえた、さびしいたにの、いったいどこがしあわせのたになのだろう、)
こんな人けの絶えた、淋しい谷の、一体どこが幸福の谷なのだろう、
(とわたしはいまはどれもこれもゆきにうもれたまんまみすてられている)
と私は今はどれもこれも雪に埋もれたまんま見棄てられている
(そういうべっそうをひとつひとつみすごしながら、)
そう云う別荘を一つ一つ見過ごしながら、
(そのたにをふたりのあとからおくれがちにのぼっていくうちに、)
その谷を二人のあとから遅れがちに登って行くうちに、
(ふいとそれとはせいはんたいのたにのなまえさえじぶんのくちをついてでそうになった。)
ふいとそれとは正反対の谷の名前さえ自分の口を衝いて出そうになった。
(わたしはそれをなにかためらいでもするようにちょっとひっこめかけたが、)
私はそれを何かためらいでもするようにちょっと引っ込めかけたが、
(ふたたびきをかえてとうとうくちにだした。しのかげのたに。)
再び気を変えてとうとう口に出した。死のかげの谷。
(ーーそう、よっぽどそういったほうがこのたににはにあいそうだな、)
ーーそう、よっぽどそう云った方がこの谷には似合いそうだな、
(すくなくともこんなふゆのさなか、)
少くともこんな冬のさなか、
(こういうところでさびしいやもめぐらしをしようとしているおれにとっては。)
こういうところで寂しいやもめぐらしをしようとしているおれにとっては。
(と、そんなことをかんがえかんがえ、)
と、そんな事を考え考え、
(やっとわたしのかりるいちばんさいごのこやのまえまでたどりついてみると、)
やっと私の借りる一番最後の小屋の前まで辿り着いてみると、
(もうしわけのようにちいさなべらんだのついた、)
申しわけのように小さなべランダの附いた、
(そのきはだぶきのこやのまわりには、それをとりかこんだゆきのうえに)
その木皮葺の小屋のまわりには、それを取囲んだ雪の上に
(なんだかえたいのしれないあしあとがいっぱいのこっている。)
なんだか得体の知れない足跡が一ぱい残っている。
(あねむすめがそのしめきられたこやのなかへさきにはいってあまどなどをあけているあいだ、)
姉娘がその締め切られた小屋の中へ先きにはいって雨戸などを明けている間、
(わたしはそのちいさなおとうとからこれはうさぎこれはりす、)
私はその小さな弟からこれは兎これは栗鼠、
(それからこれはきじと、それらのいようなあしあとをいちいちおしえてもらっていた。)
それからこれは雉子と、それらの異様な足跡を一々教えて貰っていた。
(それからわたしは、なかばゆきにうずもれたべらんだにたって、しゅういをながめまわした。)
それから私は、半ば雪に埋もれたべランダに立って、周囲を眺めまわした。
(わたしたちがいまあがってきたたにかげは、そこからみおろすと、)
私達がいま上って来た谷陰は、そこから見下ろすと、
(いかにもかっこうのよいこぢんまりとしたたにのいちぶぶんになっている。)
いかにも恰好のよい小ぢんまりとした谷の一部分になっている。
(ああ、いましがたれいのそりにのってひとりだけさきにかえっていった、)
ああ、いましがた例の橇に乗って一人だけ先きに帰っていった、
(あのちいさなおとうとのすがたが、はだかのきときとのあいだからみえかくれしている。)
あの小さな弟の姿が、裸の木と木との間から見え隠れしている。
(そのかわいらしいすがたがとうとうかほうのかれきばやしのなかに)
その可哀らしい姿がとうとう下方の枯木林の中に
(きえてしまうまでみおくりながら、ひとわたりそのたにまをみおわったじぶん、)
消えてしまうまで見送りながら、一わたりその谷間を見おわった時分、
(どうやらこやのなかもかたづいたらしいので、)
どうやら小屋の中も片づいたらしいので、
(わたしははじめてそのなかにはいっていった。)
私ははじめてその中にはいって行った。
(かべまですっかりすぎかわがはりつめられてあって、てんじょうもなにもないほどの、)
壁まですっかり杉皮が張りつめられてあって、天井も何もない程の、
(おもったよりもそまつなつくりだが、わるいかんじではなかった。)
思ったよりも粗末な作りだが、悪い感じではなかった。
(すぐにかいにもあがってみたが、しんだいからいすとなにからなにまでふたりぶんある)
すぐ二階にも上って見たが、寝台から椅子と何から何まで二人分ある。
(ちょうどおまえとわたしとのためのように。)
丁度お前と私とのためのように。
(そういえば、ほんとうにこういったようなやまごやで、)
そう云えば、本当にこう云ったような山小屋で、
(おまえとさしむかいのさびしさでくらすことを、むかしのわたしはどんなにゆめみていたことか!)
お前と差し向いの寂しさで暮らすことを、昔の私はどんなに夢見ていたことか!
(ゆうがた、しょくじのしたくができると、わたしはそのまますぐむらのむすめをかえらせた。)
夕方、食事の支度が出来ると、私はそのまますぐ村の娘を帰らせた。
(それからわたしはひとりでだんろのかたわらにおおきなたくしをひきよせて、)
それから私は一人で煖炉の傍に大きな卓子を引き寄せて、
(そのうえでかきものからしょくじいっさいをすることにきめた。)
その上で書きものから食事一切をすることに極めた。
(そのときひょいとあたまのうえにかかっているこよみが)
その時ひょいと頭の上に掛かっている暦が
(いまだにくがつのままになっているのにきがついて、)
いまだに九月のままになっているのに気がついて、
(それをたちあがってはがすと、)
それを立ち上がって剥がすと、
(きょうのひづけのところにしるしをつけておいてから、)
きょうの日附のところに印をつけて置いてから、
(さて、わたしはじつにいちねんぶりでこのてちょうをひらいた。)
さて、私は実に一年ぶりでこの手帳を開いた。
(じゅうにがつふつかどこかきたのほうのやまがしきりにふぶいているらしい。)
十二月二日 どこか北の方の山がしきりに吹雪いているらしい。
(きのうなどはてにとるようにみえていたあさまやまも、)
きのうなどは手に取るように見えていた浅間山も、
(きょうはすっかりゆきぐもにおおわれ、そのおくでさかんにあれているとみえ、)
きょうはすっかり雪雲におおわれ、その奥でさかんに荒れていると見え、
(このさんろくのむらまでそのまきぞえをくらって、)
この山麓の村までその巻添えを食らって、
(ときどきひがあかるくさしながら、ちらちらとたえずゆきがまっている。)
ときどき日が明るく射しながら、ちらちらと絶えず雪が舞っている。
(どうかしてふいにそんなゆきのはしがたにのうえにかかりでもすると、そのたにをへだてて、)
どうかして不意にそんな雪の端が谷の上にかかりでもすると、その谷を隔てて、
(ずっとみなみにつらなったやまやまのあたりにはくっきりとあおぞらがみえながら、)
ずっと南に連った山々のあたりにはくっきりと青空が見えながら、
(たにぜんたいがかげって、ひとしきりもうれつにふぶく。)
谷全体がかげって、ひとしきり猛烈に吹雪く。
(とおもうと、またぱあっとひがあたっている。)
と思うと、又ぱあっと日があたっている。
(そんなたにのたえずへんかするこうけいをまどのところにいってちょっとながめやっては、)
そんな谷の絶えず変化する光景を窓のところに行ってちょっと眺めやっては、
(またすぐだんろのかたわらにもどってきたりして、そのせいでか、)
又すぐ煖炉の傍に戻って来たりして、そのせいでか、
(わたしはなんとなくおちつかないきもちでいちにちじゅうをすごした。)
私はなんとなく落着かない気持で一日じゅうを過ごした。
(ひるごろ、ふろしきづつみをせおったむらのむすめがたびはだしでゆきのなかをやってきてくれた。)
昼頃、風呂敷包を背負った村の娘が足袋はだしで雪の中をやって来てくれた。
(てからかおまでしもやけのしているようなむすめだが、)
手から顔まで霜焼けのしているような娘だが、
(すなおそうで、それにむくちなのがなによりもわたしにはぐあいがよい。)
素直そうで、それに無口なのが何よりも私には工合が好い。
(またきのうのようにしょくじのよういだけさせておいて、すぐにかえらせた。)
又きのうのように食事の用意だけさせて置いて、すぐに帰らせた。
(それからわたしはもういちにちがおわってしまったかのように、だんろのかたわらからはなれないで、)
それから私はもう一日が終ってしまったかのように、煖炉の傍から離れないで、
(なにもせずにぼんやりと、たきぎがひとりでにおこるかぜに)
何もせずにぼんやりと、焚木がひとりでに起る風に
(あおられつつぱちぱちとおとをたてながらもえるのをみまもっていた。)
あおられつつぱちぱちと音を立てながら燃えるのを見守っていた。
(そのままよるになった。ひとりでつめたいしょくじをすませてしまうと、)
そのまま夜になった。一人で冷めたい食事をすませてしまうと、
(わたしのきもちもいくぶんおちついてきた。)
私の気持もいくぶん落着いてきた。
(ゆきはたいしたことにならずにやんだようだが、そのかわりかぜがではじめていた。)
雪は大した事にならずに止んだようだが、そのかわり風が出はじめていた。
(ひがすこしでもおとろえておとをしずめると、)
火が少しでも衰えて音をしずめると、
(そのひまひまに、たにのそとがわでそんなかぜがかれきばやしからおとをひきもいでいるらしいのが)
その隙々に、谷の外側でそんな風が枯木林から音を引きもいでいるらしいのが
(きゅうにちかぢかときこえてきたりした。)
急に近ぢかと聞えて来たりした。
(それからいちじかんばかりあと、わたしはなれないひにすこしのぼせたようになって、)
それから一時間ばかり後、私は馴れない火にすこしのぼせたようになって、
(がいきにあたりにこやをでた。)
外気にあたりに小屋を出た。
(そうしてしばらくまっくらなこがいをあるきまわっていたが、)
そうしてしばらく真っ暗な戸外を歩き廻っていたが、
(やっとかおがひえびえとしてきたので、ふたたびこやにはいろうとしかけながら、)
やっと顔が冷え冷えとしてきたので、再び小屋にはいろうとしかけながら、
(そのときはじめてなかからもれてくるあかりで、)
その時はじめて中から洩れてくる明りで、
(いまもなおたえずこまかいゆきがまっているのにきがついた。)
いまもなお絶えず細かい雪が舞っているのに気がついた。
(わたしはこやにはいると、すこしぬれたからだをかわかしに、ふたたびひのかたわらによっていった。)
私は小屋にはいると、すこし濡れた体を乾かしに、再び火の傍に寄って行った。
(が、そうやってまたひにあたっているうちに、)
が、そうやって又火にあたっているうちに、
(いつしかからだをかわかしていることもわすれたようにぼんやりとして、)
いつしか体を乾かしている事も忘れたようにぼんやりとして、
(じぶんのうちにあるついおくをよみがえらせていた。)
自分の裡に或る追憶を蘇らせていた。
(それはきょねんのいまごろ、わたしたちのいたやまのさなとりうむのまわりに、)
それは去年のいま頃、私達のいた山のサナトリウムのまわりに、
(ちょうどこんやのようなゆきのまっているよふけのことだった。)
丁度今夜のような雪の舞っている夜ふけのことだった。
(わたしはなんどもそのさなとりうむのいりぐちにたっては、)
私は何度もそのサナトリウムの入口に立っては、
(でんぽうでよびよせたおまえのちちのくるのをまちきれなさそうにしていた。)
電報で呼び寄せたお前の父の来るのを待ち切れなさそうにしていた。