風立ちぬ 堀辰雄 ㉕

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね1お気に入り登録1
プレイ回数992難易度(4.5) 4900打 長文
ジブリの「風立ちぬ」作成に当たり、参考とされた小説です。

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問題文

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(じゅうにがつとうかこのすうじつ、どういうものか、)

十二月十日   この数日、どういうものか、

(おまえがちっともいきいきとわたしによみがえってこない。)

お前がちっとも生き生きと私に蘇って来ない。

(そうしてときどきこうしてこどくでいるのが)

そうしてときどきこうして孤独でいるのが

(わたしにはほとんどたまらないようにおもわれる。)

私には殆どたまらないように思われる。

(あさなんぞ、だんろにいちどくみたてたまきがなかなかもえつかず、)

朝なんぞ、煖炉に一度組み立てた薪がなかなか燃えつかず、

(しまいにわたしはじれったくなって、それをあらあらしくひっかきまわそうとする。)

しまいに私は焦れったくなって、それを荒あらしく引っ掻きまわそうとする。

(そんなときだけ、ふいとじぶんのかたわらにきづかわしそうにしているおまえをかんじる。)

そんなときだけ、ふいと自分の傍らに気づかわしそうにしているお前を感じる。

(わたしはそれからようやくやっときをとりなおして、そのまきをあらたにくみかえる。)

私はそれから漸やっと気を取りなおして、その薪をあらたに組み変える。

(またごごなど、すこしむらでもあるいてこようとおもって、たにをおりてゆくと、)

又午後など、すこし村でも歩いて来ようと思って、谷を下りてゆくと、

(このごろはゆきどけがしているゆえ、みちがとてもわるく、すぐくつがどろでおもくなり、)

この頃は雪解けがしている故、道がとても悪く、すぐ靴が泥で重くなり、

(あるきにくくてしようがないので、たいていとちゅうからひっかえしてきてしまう。)

歩きにくくてしようがないので、大抵途中から引っ返して来てしまう。

(そうしてまだゆきのしみついている、たにまでさしかかると、)

そうしてまだ雪の凍みついている、谷までさしかかると、

(おもわずほっとしながら、しかしこんどはこれからじぶんのこやまでずっと)

思わずほっとしながら、しかしこん度はこれから自分の小屋までずっと

(いきのきれるようなのぼりみちになる。)

息の切れるような上り道になる。

(そこでわたしはともすればめいりそうなじぶんのこころをひきたてようとして、)

そこで私はともすれば滅入りそうな自分の心を引き立てようとして、

(「たとひわれしのかげのたにをあゆむともわざはひをおそれじ、)

「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも禍害をおそれじ、

(なんぢわれとともにいませばなりーー」と、そんなうろおぼえにおぼえている)

なんぢ我とともに在せばなりーー」と、そんなうろ覚えに覚えている

(しへんのもんくなんぞまでおもいだしてじぶんじしんにいってきかせるが、)

詩篇の文句なんぞまで思い出して自分自身に云ってきかせるが、

(そんなもんくもわたしにはただくうきょにかんぜられるばかりだった。)

そんな文句も私にはただ空虚に感ぜられるばかりだった。

(じゅうにがつじゅうににちゆうがた、すいしゃのみちにそったれいのちいさなきょうかいのまえを)

十二月十二日   夕方、水車の道に沿った例の小さな教会の前を

など

(わたしがととおりかかると、そこのこづかいらしいおとこがせつでいのうえに)

私が通りかかると、そこの小使らしい男が雪泥の上に

(たんねんにせきたんがらをまいていた。)

丹念に石炭殻を撒いていた。

(わたしはそのおとこのかたわらにいって、ふゆでもずっとこのきょうかいはあいているのですか、)

私はその男の傍に行って、冬でもずっとこの教会は開いているのですか、

(となんということもなしにきいてみた。)

と何んという事もなしに訊いて見た。

(「ことしはもうにさんにちうちにしめますそうで」)

「今年はもう二三日うちに締めますそうで」

(とそのこづかいはちょっとせきたんがらをまくてをやすめながらこたえた。)

とその小使はちょっと石炭殻を撒く手を休めながら答えた。

(「きょねんはずっとふゆじゅうあいておりましたが、)

「去年はずっと冬じゅう開いて居りましたが、

(ことしはしんぷさまがまつもとのほうへおいでになりますので」)

今年は神父様が松本の方へおいでになりますので」

(「そんなふゆでもこのむらにしんじゃはあるんですか?」とわたしはぶしつけにきいた。)

「そんな冬でもこの村に信者はあるんですか?」と私は無躾に訊いた。

(「ほとんどいらっしゃいませんが。)

「殆ど入らっしゃいませんが。

(たいてい、しんぷさまおひとりでまいにちのおみさをなさいます」)

大抵、神父様お一人で毎日のおミサをなさいます」

(わたしたちがそんなたちばなしをしだしているところへ、)

私達がそんな立ち話をし出しているところへ、

(ちょうどがいしゅつさきからそのどいつじんだとかいうしんぷがかえってきた。)

丁度外出先からそのドイツじんだとかいう神父が帰って来た。

(こんどはわたしがそのにほんごをまだじゅうぶんりかいしない、)

こん度は私がその日本語をまだ充分理解しない、

(しかしひとなつこそうなしんぷにつかまって、なにかときかれるばんになった。)

しかし人なつこそうな神父に掴まって、何かと訊かれる番になった。

(そうしてしまいにはなにかききちがえでもしたらしく、)

そうしてしまいには何か聞き違えでもしたらしく、

(あしたのにちようのみさにはぜひこい、とわたしはしきりにすすめられた。)

明日の日曜の弥撒には是非来い、と私はしきりに勧められた。

(じゅうにがつじゅうさんにち、にちようびあさのくじごろ、わたしはなにをもとめるでもなしに)

十二月十三日、日曜日   朝の九時頃、私は何を求めるでもなしに

(そのきょうかいへいった。ちいさなろうそくのひのともったさいだんのまえで、)

その教会へ行った。小さな蝋燭の火のともった祭壇の前で、

(もうしんぷがひとりのじょさいとともにみさをはじめていた。)

もう神父が一人の助祭と共に弥撒をはじめていた。

(しんじゃでもなんでもないわたしは、どうしてよいかわからず、)

信者でもなんでもない私は、どうして好いか分からず、

(ただ、おとをたてないようにして、)

唯、音を立てないようにして、

(いちばんうしろのほうにあったむぎわらでできたいすにそのままそっとこしをおろした。)

一番後ろの方にあった藁わらで出来た椅子にそのままそっと腰を下ろした。

(が、やっとうちのうすぐらさにめがなれてくると、)

が、やっと内のうす暗さに目が馴れてくると、

(それまでだれもいないものとばかりおもっていたしんじゃせきの、)

それまで誰もいないものとばかり思っていた信者席の、

(いちばんぜんれつの、はしらのかげにひとりくろずくめのなりをしたちゅうねんのふじんが)

一番前列の、柱のかげに一人黒ずくめのなりをした中年の婦人が

(うずくまっているのがめにはいってきた。)

うずくまっているのが目に入ってきた。

(そうしてそのふじんがさっきからずっとひざまずきつづけているらしいのにきがつくと、)

そうしてその婦人がさっきからずっと跪き続けているらしいのに気がつくと、

(わたしはきゅうにそのかいどうのなかのいかにもさむざむとしているのをみにしみてかんじた。)

私は急にその会堂のなかのいかにも寒々としているのを身にしみて感じた。

(それからもこいちじかんばかりみさはつづいていた。そのおわりかけるころ、)

それからも小一時間ばかり弥撒は続いていた。その終りかける頃、

(そのふじんがふいとはんかちをとりだしてかおにあてがったのをわたしはみとめた。)

その婦人がふいとハンカチを取りだして顔にあてがったのを私は認めた。

(しかしそれはなんのためだか、わたしにはわからなかった。)

しかしそれは何んのためだか、私には分からなかった。

(そのうちにやっとみさがすんだらしく、しんぷはしんじゃせきのほうへはふりむかずに、)

そのうちに漸っと弥撒が済んだらしく、神父は信者席の方へは振り向かずに、

(そのままわきにあったしょうしつのなかへいちどひっこんでいった。)

そのまま脇にあった小室の中へ一度引っ込んで行った。

(そのふじんはなおもまだじっとみうごきもせずにいた。)

その婦人はなおもまだじっと身動きもせずにいた。

(が、そのあいだに、わたしだけはそっときょうかいからぬけだした。)

が、その間に、私だけはそっと教会から抜け出した。

(それはうすぐもったひだった。わたしはそれからゆきどけのしたむらのなかを、)

それはうす曇った日だった。私はそれから雪解けのした村の中を、

(いつまでもなにかみたされないようなきもちで、あてもなくさまよっていた。)

いつまでも何か充たされないような気持で、あてもなくさ迷っていた。

(むかし、おまえとよくえをかきにいった、)

昔、お前とよく絵を描きにいった、

(まんなかにいっぽんのしらかばのくっきりとたったはらへもいってみて、)

真ん中に一本の白樺のくっきりと立った原へも行って見て、

(まだそのねもとだけゆきののこっているしらかばのきになつかしそうにてをかけながら、)

まだその根もとだけ雪の残っている白樺の木に懐しそうに手をかけながら、

(そのゆびさきがこごえそうになるまで、たっていた。)

その指先きが凍えそうになるまで、立っていた。

(しかし、わたしにはそのころのおまえのすがたさえほとんどよみがえってこなかった。)

しかし、私にはその頃のお前の姿さえ殆ど蘇って来なかった。

(ーーとうとうわたしはそこもたちさって、なんともいうにいわれぬさびしいおもいで、)

ーーとうとう私は其処も立ち去って、何んともいうにいわれぬ寂しい思いで、

(かれきのあいだをぬけながら、いっきにたにをのぼって、こやにもどってきた。)

枯木の間を抜けながら、一気に谷を昇って、小屋に戻って来た。

(そうしてはあはあといきをきらしながら、おもわずべらんだのゆかいたに)

そうしてはあはあと息を切らしながら、思わずベランダの床板に

(こしをおろしていると、そのときふいとそんなむしゃくしゃしたわたしに)

腰を下ろしていると、そのとき不意とそんなむしゃくしゃした私に

(よりそってくるおまえがかんじられた。)

寄り添ってくるお前が感じられた。

(が、わたしはそれにもしらんかおをして、ぼんやりとほおずえをついていた。)

が、私はそれにも知らん顔をして、ぼんやりと頬杖をついていた。

(そのくせ、そういうおまえをこれまでになくいきいきと)

その癖、そういうお前をこれまでになく生き生きと

(ーーまるでおまえのてがわたしのかたにさわっていはしまいかとおもわれるくらい、)

ーーまるでお前の手が私の肩にさわっていはしまいかと思われる位、

(いきいきとかんじながらーー)

生き生きと感じながらーー

(「もうおしょくじのしたくができておりますが」)

「もうお食事の支度が出来て居りますが」

(こやのなかから、もうさっきからわたしのかえりをまっていたらしいむらのむすめが、)

小屋の中から、もうさっきから私の帰りを待っていたらしい村の娘が、

(そうわたしをしょくじによんだ。わたしはふっとうつつにかえりながら、)

そう私を食事に呼んだ。私はふっとうつつに返りながら、

(このままもうすこしそっとしておいてくれたらよかりそうなものを、)

このままもう少しそっとして置いて呉れたら好かりそうなものを、

(といつになくうかないかおつきをしてこやのなかにはいっていった。)

といつになく浮かない顔つきをして小屋の中にはいって行った。

(そうしてむすめにはひとこともくちをきかずに、いつものようなひとりきりのしょくじにむかった。)

そうして娘には一言も口をきかずに、いつものような一人きりの食事に向った。

(ゆうがたちかく、わたしはなんだか)

夕方近く、私はなんだか

(まだいらいらしたようなきぶんのままそのむすめをかえしてしまったが、)

まだ苛苛したような気分のままその娘を帰してしまったが、

(それからしばらくするとそのことをいくぶんこうかいしだしながら、)

それから暫らくするとその事をいくぶん後悔し出しながら、

(ふたたびなんということもなしにべらんだにでていった。)

再びなんと云う事もなしにベランダに出て行った。

(そうしてまたさっきのように(しかしこんどはおまえなしにーー))

そうしてまたさっきのように(しかしこん度はお前なしにーー)

(ぼんやりとまだだいぶゆきののこっているたにまをみおろしていると、)

ぼんやりとまだ大ぶ雪の残っている谷間を見下ろしていると、

(ゆっくりかれきのあいだをぬけぬけだれだかそのたにじゅうをとみこうみしながら、)

ゆっくり枯木の間を抜け抜け誰だかその谷じゅうをと見こう見しながら、

(だんだんこっちのほうへのぼってくるのがみとめられた。)

だんだんこっちの方へ登って来るのが認められた。

(どこへきたのだろうとおもいながらみつづけていると、)

何処へ来たのだろうと思いながら見続けていると、

(それはわたしのこやをさがしているらしいしんぷだった。)

それは私の小屋を捜しているらしい神父だった。

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