ちいさこべ 山本周五郎 ⑤
リメイクで漫画化もされている。
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問題文
(かのじょはじゅうはちになる。ちちおやのへいろくはさかんのてまとりだったが、)
彼女は十八になる。父親の平六は左官の手間取だったが、
(おりつがななつのとしにしごとさきではしごからおち、)
おりつが七つの年に仕事先で梯子から落ち、
(せぼねをくじいてねついたまま、まるはちねんもやんでしんだ。)
背骨を挫いて寝ついたまま、まる八年も病んで死んだ。
(そのあいだ、ははおやのおいくはあらゆることをしてかせいだ。)
そのあいだ、母親のおいくはあらゆることをして稼いだ。
(にんぷまでやったそうで、へいろくがしんだあとは、かのじょもまたすっかりよわっていた。)
人夫までやったそうで、平六が死んだあとは、彼女もまたすっかり弱っていた。
(それをしげじのははがきいて、かってしごとのてつだいにやとったのであるが、)
それを茂次の母が聞いて、勝手仕事の手伝いに雇ったのであるが、
(そのちょっとまえに、おりつはちゃやぼうこうにでていた。)
そのちょっとまえに、おりつは茶屋奉公に出ていた。
(いやくだいがたまっていて、ふつうのないしょくなどではかたづかなかったからであろう、)
医薬代が溜まっていて、ふつうの内職などでは片づかなかったからであろう、
(あさくさなみきまちの「てんかわ」という、かなりおおきなりょうりぢゃやへすみこみではいった。)
浅草並木町の「天川」という、かなり大きな料理茶屋へ住込みではいった。
(しげじはずっとまえからおりつをしっていた。)
茂次はずっとまえからおりつを知っていた。
(ちいさいころはやせたこがらなからだつきで、いろがあさぐろく、めがおおきかった。)
小さいころは痩せた小柄な躯つきで、色があさぐろく、眼が大きかった。
(たぐいまれなかちきで、おとこのことよくつかみあいのけんかをし、)
たぐい稀な勝ち気で、男の子とよくつかみあいの喧嘩をし、
(おおくのばあいおりつがかった。)
多くの場合おりつが勝った。
(まけてもなくことなどはない、)
負けても泣くことなどはない、
(なみだをこぼしながらはをくいしばっている、というふうであった。)
涙をこぼしながら歯をくいしばっている、というふうであった。
(すみやのうらのおにっこ。などと、きんじょのおとこのこたちはからかったものである。)
炭屋の裏の鬼っ子。 などと、近所の男の子たちはからかったものである。
(けれども、よわいこやびんぼうないえのこなどは、)
けれども、弱い子や貧乏な家の子などは、
(よくかばってやり、めんどうをみてやるので、ちょうないのおやたちのひょうばんはよかった。)
よく庇ってやり、面倒をみてやるので、町内の親たちの評判はよかった。
(すっかりおんならしくなったな。としげじはおもった。)
すっかり女らしくなったな。と茂次は思った。
(じゅうはちというとしより、いまのおりつはふたつほどふけてみえる。)
十八という年より、いまのおりつは二つほどふけてみえる。
(こがらなからだつきや、あさぐろいはだや、)
小柄な躯つきや、あさぐろい肌や、
(めのおおきなところはむかしのままのようであるが、)
眼の大きなところは昔のままのようであるが、
(ぜんたいにじゅうなんなまるみとつやがあらわれているし、)
ぜんたいに柔軟なまるみと艶があらわれているし、
(なにげないみのこなしやめもとなどに、いきいきとしたいろけがかんじられた。)
なにげない身のこなしや眼もとなどに、いきいきとしたいろけが感じられた。
(「あら」とおりつがきゅうにいった、「きいていらっしゃらないんですか」)
「あら」とおりつが急に云った、「聞いていらっしゃらないんですか」
(しげじはめをそらしながら、「きいたよ」といった。)
茂次は眼をそらしながら、「聞いたよ」と云った。
(「わけはわかったが、むりだ」とかれはぶっきらぼうにつづけた、)
「わけはわかったが、むりだ」と彼はぶっきらぼうに続けた、
(「おれはこのとおりはだかになっちまったし、)
「おれはこのとおり裸になっちまったし、
(うちをやりなおすだけでていっぱいだ、)
うちをやり直すだけで手いっぱいだ、
(おめえだってこをもったこともないのに、)
おめえだって子を持ったこともないのに、
(あれだけのものをそだてるなんてむりなはなしだ」)
あれだけの者を育てるなんてむりなはなしだ」
(「だってそんなにてはかかりゃしませんよ、)
「だってそんなに手はかかりゃしませんよ、
(げんにきょうまでやってこられたんですもの」)
現に今日までやってこられたんですもの」
(「これまではな」としげじはさえぎった、)
「これまではな」と茂次は遮った、
(「しかしこれからはにんずうがふえる、おれやしょくにんたちのせわをするだけだって、)
「しかしこれからは人数がふえる、おれや職人たちの世話をするだけだって、
(おめえひとりじゃあてがたりなくなるぜ」)
おめえ一人じゃあ手がたりなくなるぜ」
(「じゃあ、どうしたらいいんですか」)
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
(「おれにはわからねえ、まちやくにでもはなせばなんとかしてくれるだろう」)
「おれにはわからねえ、町役にでも話せばなんとかしてくれるだろう」
(としげじはむっとしたくちぶりでいった、「こういうことはおかみのしごとだ、)
と茂次はむっとした口ぶりで云った、「こういうことはお上の仕事だ、
(そのためにこっちはたかいうんじょうをはらってるんだから」)
そのためにこっちは高い運上を払ってるんだから」
(おりつはくちびるをかんだ。)
おりつは唇を噛かんだ。
(「わかりました」とやがておりつはいった、)
「わかりました」とやがておりつは云った、
(「ではそうしますけれど、はなしがきまるまでまってくださいますか」)
「ではそうしますけれど、話がきまるまで待って下さいますか」
(「いいよ」としげじはうなずいた。)
「いいよ」と茂次は頷いた。
(おりつはたちあがって、なにかいおうとしたが、くちをつぐんだ。)
おりつは立ちあがって、なにか云おうとしたが、口をつぐんだ。
(「なんだ」としげじがきいた。)
「なんだ」と茂次が訊いた。
(「なんでもありません」とおりつはくびをふり、かおをそむけながらでていった。)
「なんでもありません」とおりつは首を振り、顔をそむけながら出ていった。
(それからしごにち、しげじはしごとのてじゅんをつけるのにおわれた。)
それから四五日、茂次は仕事の手順をつけるのに追われた。
(かれはだいろくをつれてきばの「わしち」をたずね、ふしんばをまわった。)
彼は大六を伴れて木場の「和七」を訪ね、普請場をまわった。
(ひとつはかんだみょうじんしたのさかどいや、ひとつはいわつきまちのごふくや、)
一つは神田明神下の酒問屋、一つは岩附町の呉服屋、
(ほかのひとつはにほんばしよしかわちょうの「うおまん」というりょうりぢゃやで、)
他の一つは日本橋吉川町の「魚万」という料理茶屋で、
(これらをみのはち、ふじぞうのふたりでやっていた。)
これらを巳之八、藤造の二人でやっていた。
(どちらもだいとめはえぬきのしょくにんであり、)
どちらも大留はえぬきの職人であり、
(つかっているだいくもずっとだいとめのいきのかかっているものばかりであった。)
使っている大工もずっと大留の息のかかっている者ばかりであった。
(しかしさかん、やねや、たてぐやなどは、おおきなかじのあとはしごとがおおいから、)
しかし左官、屋根屋、建具屋などは、大きな火事のあとは仕事が多いから、
(ぎんでたたかなければなかなかおもうようにうごかない。)
銀でたたかなければなかなか思うように動かない。
(かわごえのしごとではいったものや、うけおったふしんのてつけなども、)
川越の仕事ではいったものや、請負った普請の手付なども、
(たちまちそこをつくことはわかっていた。)
たちまち底をつくことはわかっていた。
(「どうします」とちょうばのすけじろうがにどばかりきいた、)
「どうします」と帳場の助二郎が二度ばかり訊いた、
(「いまのうちにてをうっておきたいんですが、たかなわへうかがっちゃあいけませんか」)
「いまのうちに手を打っておきたいんですが、高輪へ伺っちゃあいけませんか」
(「たかなわもあべかわちょうもだめだ」としげじはくびをふった、)
「高輪もあべ川町もだめだ」と茂次は首を振った、
(「おれがなんとかするからいい」)
「おれがなんとかするからいい」
(だいろくがそばにいてきいた、「なんとかするってどうするんです」)
大六がそばにいて訊いた、「なんとかするってどうするんです」
(「みていりゃあわかる、おめえたちにめいわくはかけねえ」)
「見ていりゃあわかる、おめえたちに迷惑はかけねえ」
(あるひ、そのたかなわのいきちが、あべかわちょうのかねろくとそろってきた。)
或る日、その高輪の伊吉が、あべ川町の兼六とそろって来た。
(ゆうはんにかかるまえで、しげじがゆからかえってみると、)
夕飯にかかるまえで、茂次が湯から帰ってみると、
(だいろくとすけじろうがふたりのあいてをしていた。)
大六と助二郎が二人の相手をしていた。
(しげじはふたりにあいさつをしながら、たとうとするだいろくとすけじろうに)
茂次は二人に挨拶をしながら、立とうとする大六と助二郎に
(「おまえたちもいてくれ」といい、ふたりはまたすわった。)
「おまえたちもいてくれ」と云い、二人はまた坐った。
(「としやくだからあっしがはなそう」とたかなわのいきちがくちをきった、)
「年役だからあっしが話そう」と高輪の伊吉が口を切った、
(「しごとのこともあるが、それはあとにして、)
「仕事のこともあるが、それはあとにして、
(まずなくなったひとのそうしきについてそうだんなんだが」)
まず亡くなった人の葬式について相談なんだが」
(「そいつはかわごえでいったはずです」としげじはさえぎった、)
「そいつは川越で云った筈です」と茂次は遮った、
(「わたしはくどいことはきらいだが、もういちどいいます、)
「私は諄いことは嫌いだが、もういちど云います、
(そうしきはとうぶんだしませんし、どうかわたしのことはうっちゃっといてください」)
葬式は当分だしませんし、どうか私のことはうっちゃっといて下さい」
(「そうはいかねえ」といきちがいった、)
「そうはいかねえ」と伊吉が云った、
(「おまえさんのしょうぶんはわかっているし、)
「おまえさんの性分はわかってるし、
(なにかこうとめどをおさえているんだろうが、)
なにかこうとめどを押えているんだろうが、
(せけんにはせけんのしきたりがある、おまえさんがかまうなといったって、)
世間には世間のしきたりがある、おまえさんが構うなと云ったって、
(そうかとひっこんでいられるものじゃあねえ、)
そうかと引込んでいられるものじゃあねえ、
(せけんにたいするぎりだけでもそれじゃあすまねえ」)
世間に対する義理だけでもそれじゃあ済まねえ」
(そしてだいとめとじぶんたちとのかんけい、とうりょうなかまのつきあい、)
そして大留と自分たちとの関係、棟梁なかまのつきあい、
(などについてせつめいしようとした。)
などについて説明しようとした。
(だがしげじはまた、「そういうことはききたくない」とさえぎった。)
だが茂次はまた、「そういうことは聞きたくない」と遮った。
(「わたしのほうでたのむんだから、)
「私のほうで頼むんだから、
(おじさんやあべかわちょうがぎりをくにすることはないでしょう」としげじはいった、)
おじさんやあべ川町が義理を苦にすることはないでしょう」と茂次は云った、
(「せけんでもしかげぐちなんかきくものがあったらはっきりそういってやってください、)
「世間でもし蔭口なんかきく者があったらはっきりそう云ってやって下さい、
(わたしはじぶんがいいこになろうなんてちっともおもってやしないんだから」)
私は自分がいい子になろうなんてちっとも思ってやしないんだから」
(かねろくがいきちをおさえた。いきちのかおいろがかわったのである。)
兼六が伊吉を抑えた。伊吉の顔色が変ったのである。
(すけじろうとだいろくもおどろいて、しげじをたしなめにかかったが、)
助二郎と大六もおどろいて、茂次をたしなめにかかったが、
(ぎゃくにしげじはふたりにむかっていった。)
逆に茂次は二人に向って云った。
(「いまおれのいったことをおぼえててくれ、おれたちはだれにもたよらねえ、)
「いまおれの云ったことを覚えててくれ、おれたちは誰にも頼らねえ、
(このうでいっぽんでだいとめをたてなおすんだ、おれたちだけでだ、わかったか」)
この腕一本で大留を立て直すんだ、おれたちだけでだ、わかったか」