野菊の墓 伊藤左千夫 ⑦

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政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。

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問題文

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(にしがわのやまみちから、がさがさささにさわるおとがして、)

西側の山路から、がさがさ笹にさわる音がして、

(たきぎをつけたうまをひいてほおかむりのおとこがでてきた。)

薪をつけた馬を引いて頬かむりの男が出て来た。

(よくみるといがいにもむらのつねきちである。)

よく見ると意外にも村の常吉である。

(このやつはいつかむこうのおはまに)

この奴はいつか向うのお浜に

(たみこをあそびにつれだしてくれとしきりにたのんだというやつだ。)

民子を遊びに連れだしてくれと頻りに頼んだという奴だ。

(いやなやろうがきやがったなとおもうていると、)

いやな野郎がきやがったなと思うていると、

(「やまさおさん。こんちゃどうもけっこうなおてんきですな。)

「や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。

(きょうはごふうふでわたとりかな。しゃれてますね。あははははは」)

今日は御夫婦で棉採りかな。洒落てますね。アハハハハハ」

(「おうつねさん、きょうはだちんかな。たいへんはやくごせいがでますね」)

「オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く御精が出ますね」

(「はあわれわれなんざあだちんとりでもして)

「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして

(たまにいっぱいやるよりほかにたのしみもないんですからな。)

たまに一盃やるより外に楽しみもないんですからな。

(たみこさん、いやにみせつけますね。)

民子さん、いやに見せつけますね。

(あんまりつみですぜ。あははははは」)

あんまり罪ですぜ。アハハハハハ」

(このやろうしっけいなとおもったけれど、われわれもあまりいばれるみでもなし、)

この野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、

(わらいとぼけてつねきちをやりすごした。)

笑いとぼけて常吉をやり過ごした。

(「ばかやろう、じつにいやなやつだ。さあたみさん、はじめましょう。)

「馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。

(ほんとにたみさん、げんきをおなおしよ。)

ほんとに民さん、元気をお直しよ。

(そんなにくよくよおしでないよ。ぼくはがっこうへいったてちばだもの、)

そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だもの、

(ぼんしょうがつのほかにもこようとおもえばどようのばんかけてにちようにこられるさ・・・」)

盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ・・・」

(「ほんとにすみません。なきつらなどして。)

「ほんとに済みません。泣面などして。

など

(あのつねさんておとこ、なんといういやなひとでしょう」)

あの常さんて男、何といういやな人でしょう」

(たみこはたすきがけぼくはしゃつにかたをぬいでいっしんにとって)

民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って

(さんじかんばかりのあいだにしちぶどおりかたづけてしまった。)

三時間ばかりの間に七分通り片づけてしまった。

(もうあとはわけがないからべんとうにしようということにしてきりのかげにもどる。)

もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。

(ぼくはかねてよういのすいとうをもって、)

僕はかねて用意の水筒を持って、

(「たみさん、ぼくはみずをくんできますから、)

「民さん、僕は水を汲んで来ますから、

(るすばんをたのみます。かえりに「えびづる」や「あけび」を)

留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』を

(うんとみやげにとってきます」)

うんと土産に採って来ます」

(「わたしはひとりでいるのはいやだ。)

「私は一人で居るのはいやだ。

(まさおさん、いっしょにつれてってください。)

政夫さん、一所に連れてって下さい。

(さっきのようなひとにでもこられたらたいへんですもの」)

さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの」

(「だってたみさん、むこうのやまをひとつこしてさきですよ、しみずのあるところは。)

「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水のある所は。

(みちというようなみちもなくて、それこそいばらやすすきであしがきずだらけになりますよ。)

道という様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。

(みずがなくちゃべんとうがたべられないから、)

水がなくちゃ弁当が食べられないから、

(こまったなあ、たみさん、まっていられるでしょう」)

困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」

(「まさおさん、ごしょうだからつれていってください。)

「政夫さん、後生だから連れて行って下さい。

(あなたがあるけるみちならわたしにもあるけます。)

あなたが歩ける道なら私にも歩けます。

(ひとりでここにいるのはわたしゃどうしても・・・」)

一人でここにいるのはわたしゃどうしても・・・」

(「たみさんはやまへきたらたいへんだだっこになりましたねー。)

「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。

(それじゃいっしょにいきましょう」)

それじゃ一所に行きましょう」

(べんとうはわたのなかへかくし、きものはてんでにきてしまってでかける。)

弁当は棉の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。

(たみこはしきりに、にこにこしている。)

民子は頻りに、にこにこしている。

(はたからみたならば、ばかばかしくもみぐるしくもあろうけれど、)

端から見たならば、馬鹿馬鹿しくも見苦しくもあろうけれど、

(ほんにんどうしのみにとっては、そのらちもなきおしもんどうのうちにも)

本人同志の身にとっては、そのらちもなき押問答の内にも

(かぎりなきうれしみをかんずるのである。)

限りなき嬉しみを感ずるのである。

(たかくもないけどみちのないところをゆくのであるから、)

高くもないけど道のない所をゆくのであるから、

(ささはらをおしわけきのねにつかまり、がけをよずる。)

笹原を押分け樹の根につかまり、崖を攀ずる。

(しばしばたみこのてをとってひいてやる。)

しばしば民子の手を採って曳いてやる。

(ちかくにさんにちいらいのふたりのかんじょうでは、)

近く二三日以来の二人の感情では、

(たみこがもとめるならばぼくはどんなことでもこばまれない、)

民子が求めるならば僕はどんなことでも拒まれない、

(またぼくがもとめるならやはりどんなことでもたみこはけっしてこばみはしない。)

また僕が求めるならやはりどんなことでも民子は決して拒みはしない。

(そういうあいだがらでありつつも、)

そういう間柄でありつつも、

(あくまでおくびょうにあくまできのちいさなふたりは、)

飽くまで臆病に飽くまで気の小さなふたりは、

(かつていちどもゆういみにてなどをとったことはなかった。)

かつて一度も有意味に手などを採ったことはなかった。

(しかるにきょうはぐうぜんのことからしばしばてをとりあうにいたった。)

しかるに今日は偶然の事からしばしば手を採り合うに至った。

(このへんのいっしゅいうべからざるゆかいなかんじょうは)

このへんの一種云うべからざる愉快な感情は

(けいけんあるひとにしてはじめてかたることができる。)

経験ある人にして初めて語ることが出来る。

(「たみさん、ここまでくれば、しみずはあすこにみえます。)

「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。

(これからぼくがひとりでいってくるからここにまっていなさい。)

これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。

(ぼくがみえていたらいられるでしょう」)

僕が見えて居たら居られるでしょう」

(「ほんとにまさおさんのごやっかいですね・・・)

「ほんとに政夫さんの御厄介ですね・・・

(そんなにだだをいってはすまないから、ここでまちましょう。)

そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。

(あらあえびづるがあった」)

あらアえびづるがあった」

(ぼくはみずをくんでのかえりに、すいとうはこしにゆいつけ、)

僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、

(あたりをすこしばかりさぐって、「あけび」しごじゅうとえびづるいちもくさをとり、)

あたりを少し許り探って、『あけび』四五十とえびづる一もくさを採り、

(りんどうのはなのうつくしいのをごろっぽんみつけてかえってきた。)

竜胆の花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。

(かえりはくだりだからむぞうさにふたりでおりる。)

帰りは下りだから無造作に二人で降りる。

(はたけへでぐちでぼくはしゅんらんのおおきいのをみつけた。)

畑へ出口で僕は春蘭の大きいのを見つけた。

(「たみさん、ぼくはちょっと「あっくり」をほってゆくから、)

「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、

(この「あけび」と「えびづる」をもっていってください」)

この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」

(「「あっくり」てなにい。あらあしゅんらんじゃありませんか」)

「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」

(「たみさんはまちばもんですから、しゅんらんなどとひんのよいことおっしゃるのです。)

「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰るのです。

(やぎりのひゃくしょうなんぞは「あっくり」ともうしましてね、)

矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、

(あかぎれのくすりにいたします。はははは」)

あかぎれの薬に致します。ハハハハ」

(「あらあくちのわるいこと。まさおさんは、きょうはほんとにくちがわるくなったよ」)

「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」

(やまのべんとうといえば、とちのものはいっぱんにたのしみのひとつとしてある。)

山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。

(なにかせいりじょうのりゆうでもあるかしらんが、とにかく、)

何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、

(やまのしごとをしてやがてたべるべんとうがふしぎとうまいことはだれもいうところだ。)

山の仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいことは誰も云う所だ。

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