野菊の墓 伊藤左千夫 ⑨
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問題文
(「なんというえいけしきでしょう。)
「何というえい景色でしょう。
(まさおさんうたとかはいくとかいうものをやったら、)
政夫さん歌とか俳句とかいうものをやったら、
(こんなときにおもしろいことがいえるでしょうね。)
こんなときに面白いことが云えるでしょうね。
(わたしらようなむひつでもこんなときにはしんぱいもなにもわすれますもの。)
私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も忘れますもの。
(まさおさん、あなたうたをおやんなさいよ」)
政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」
(「ぼくはじつはすこしやっているけど、むずかしくてよういにできないのさ。)
「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。
(やまばたのそばのはなにつきがよくて、こおろぎがなくなどはじつにえいですなあ。)
山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。
(たみさん、これからふたりでうたをやりましょうか」)
民さん、これから二人で歌をやりましょうか」
(おたがいにひとつのしんぱいをもつみとなったふたりは、)
お互に一つの心配を持つ身となった二人は、
(うちにおもうことがおおくてかえってはなしはすくない。)
内に思うことが多くてかえって話は少ない。
(なんとなくおぼつかないふたりのゆくすえ、ここですこしくはなしをしたかったのだ。)
何となく覚束ない二人の行末、ここで少しく話をしたかったのだ。
(たみこはもちろんのこと、ぼくよりもいっそうはなしたかったにそういないが、)
民子は勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、
(としのいたらぬのとういたこころのないふたりは、)
年の至らぬのと浮いた心のない二人は、
(なかなかさしむかいでそんなはなしはできなかった。)
なかなか差向いでそんな話は出来なかった。
(しばらくはむごんでぼんやりじかんをすごすうちに、)
しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、
(いちれつのがんがふたりをうながすかのようにそらちかくないてとおる。)
一列の雁が二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。
(ようやくたんぼへおりていちょうのきがみえたときに、)
ようやく田んぼへ降りて銀杏の木が見えた時に、
(ふたりはまたおなじようにいっしゅのかんじょうがむねにわいた。)
二人はまた同じ様に一種の感情が胸に湧いた。
(それはほかでもない、なんとなくうちにはいりづらいというこころもちである。)
それは外でもない、何となく家に這入りづらいと言う心持である。
(はいりづらいわけはないとおもうても、どうしてもはいりづらい。)
這入りづらい訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。
(ちゅうちょするひまもない、たちまちもんぜんちかくきてしまった。)
躊躇する暇もない、たちまち門前近く来てしまった。
(「まさおさん・・・あなたさきになってください。)
「政夫さん・・・あなた先になって下さい。
(わたしきまりわるくてしょうがないわ」)
私極りわるくてしょうがないわ」
(「よしとそれじゃぼくがさきになろう」)
「よしとそれじゃ僕が先になろう」
(ぼくはすこぶるゆうきをこしことにへいきなふうをよそおうてもんをはいった。)
僕は頗る勇気を鼓し殊に平気な風を装うて門を這入った。
(うちのひとたちはいまゆうはんさいちゅうでさかんにはなしがわいているらしい。)
家の人達は今夕飯最中で盛んに話が湧いているらしい。
(にわばのあまどはいまだひらいたなりにつきがのきくちまでさしこんでいる。)
庭場の雨戸は未だ開いたなりに月が軒口までさし込んでいる。
(ぼくがせきばらいをひとつやってにわばへはいると、)
僕が咳払いを一ツやって庭場へ這入ると、
(だいどころのはなしはにわかにやんでしまった。)
台所の話はにわかに止んでしまった。
(たみこはゆびのさきでぼくのかたをついた。)
民子は指の先で僕の肩をついた。
(ぼくもしょうちしているのだ、いまごぜんかいぎでふたりのうわさがいかにさかんであったか。)
僕も承知しているのだ、今御膳会議で二人の噂が如何に盛んであったか。
(よいまつりではありじゅうさんやではあるので、)
宵祭ではあり十三夜ではあるので、
(うちじゅうおもてざしきへそろうたとき、ははもおくからおきてきた。)
家中表座敷へ揃うた時、母も奥から起きてきた。
(はははひととおりふたりのあまりおそかったことを)
母は一通り二人の余り遅かったことを
(とがめてふかくはいわなかったけれど、つねとはまったくちがっていた。)
咎めて深くは言わなかったけれど、常とは全く違っていた。
(なにかおもっているらしく、すこしもうちとけない。)
何か思っているらしく、少しも打解けない。
(これまではくちにはこごとをいうても、しんちゅうにうたがわなかったのだが、)
これまでは口には小言を言うても、心中に疑わなかったのだが、
(こんやはくちにはあまりいわないが、こころではじゅうぶんにふたりにうたがいをおこしたにちがいない。)
今夜は口には余り言わないが、心では十分に二人に疑いを起したに違いない。
(たみこはいよいよちいさくなってざしきなかへはでない。)
民子はいよいよ小さくなって座敷なかへは出ない。
(ぼくはやまからとってきた、あけびやえびづるやを)
僕は山から採ってきた、あけびやえびづるやを
(たくさんざしきじゅうへならべたてて、)
沢山座敷じゅうへ並べ立てて、
(あんにぼくがこんなことをしていたからおそくなったのだ)
暗に僕がこんな事をして居たから遅くなったのだ
(とのいをしめしむごんのべんかいをやってもなんのききめもない。)
との意を示し無言の弁解をやっても何のききめもない。
(だれひとりそれをそうとみるものはない。)
誰一人それをそうと見るものはない。
(こんやはなんのはなしにもぼくらふたりはのけものにされるしまつで、)
今夜は何の話にも僕等二人は除けものにされる始末で、
(もはやふたりはまったくつみあるものともくけつされてしまったのである。)
もはや二人は全く罪あるものと黙決されてしまったのである。
(「おかあさんがあんまりあますぎる。)
「お母さんがあんまり甘過ぎる。
(ああしているふたりをいっしょにやまばたへやるとはめのないにもほどがある。)
あアして居る二人を一所に山畑へやるとは目のないにもほどがある。
(はたでいくらしんぱいしてもおかあさんがあれではだめだ」)
はたでいくら心配してもお母さんがあれでは駄目だ」
(これがだいどころかいぎのけっていであったらしい。)
これが台所会議の決定であったらしい。
(ははのほうでもいつまでこどもとおもっていたがあやまりで、)
母の方でもいつまで児供と思っていたが誤りで、
(じぶんがわるかったというようなかんがえにこんやはなったのであろう。)
自分が悪かったという様な考えに今夜はなったのであろう。
(いまさらふたりをしかってみてもしかたがない。)
今更二人を叱って見ても仕方がない。
(なにまさおをがっこうへやってしまいさえせばしさいはないと)
なに政夫を学校へ遣ってしまいさえせば仔細はないと
(ははのこころはちゃんときまっているらしく、)
母の心はちゃんときまって居るらしく、
(「まさや、おまえはなじゅういちがつへはいってすぐがっこうへやるつもりであったけれど、)
「政や、お前はナ十一月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、
(そうしてぶらぶらしてもためにならないから、)
そうしてぶらぶらして居ても為にならないから、
(おまつりがおわったら、もうがっこうへゆくがよい。)
お祭が終ったら、もう学校へゆくがよい。
(じゅうしちにちにゆくとしろ・・・えいか、そのつもりでこじたくしておけ」)
十七日にゆくとしろ・・・えいか、そのつもりで小支度して置け」
(がっこうへゆくはもとよりぼくのねがい、)
学校へゆくはもとより僕の願い、
(とおかやはつかはやくともおそくともそれにしさいはないが、)
十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、
(このばあいしかもこんやいいわたしがあってみると、)
この場合しかも今夜言渡しがあって見ると、
(ふたりはすでにつみをおかしたものとさだめられてのしおきであるから、)
二人は既に罪を犯したものと定められての仕置であるから、
(たみこはもちろんぼくにとってもすこぶるこころぐるしいところがある。)
民子は勿論僕に取ってもすこぶる心苦しい処がある。
(じっさいふたりはそれほどにだらくしたわけでないから、)
実際二人はそれほどに堕落した訣でないから、
(あたまからそうときめられては、いささかみょうなこころもちがする。)
頭からそうときめられては、いささか妙な心持がする。
(さりとてべんかいのできることでもなし、)
さりとて弁解の出来ることでもなし、
(またつよいことをいえるしかくもじつはないのである。)
また強いことを言える資格も実は無いのである。
(これがいっかげつまえであったらば、それはおかあさんごむりだ、)
これが一ヶ月前であったらば、それはお母さん御無理だ、
(がっこうへいくのはのぞみであるけど、とがをきせられてのしおきに)
学校へ行くのは望みであるけど、科を着せられての仕置に
(がっこうへゆけとはあんまりでしょう・・・などとすぐだだをいうのであるが、)
学校へゆけとはあんまりでしょう・・・などと直ぐだだを言うのであるが、
(こんやはそんなわがままをいえるほどむじゃきではない。)
今夜はそんな我儘を言えるほど無邪気ではない。
(まったくのところ、こいにおちいってしまっている。)
全くの処、恋に陥ってしまっている。
(あれほどかわいがられたひとりのははにかくしだてをする、)
あれほど可愛がられた一人の母に隠立てをする、
(なんとなくへだてをつくってこころのありたけをいいえぬまでになっている。)
何となく隔てを作って心のありたけを言い得ぬまでになっている。
(おのずからひとまえをはばかり、)
おのずから人前を憚り、
(ひとまえではことさらにふたりがうとうとしくとりなすようになっている。)
人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。
(かくまでわたくしごころがちょうじてきてどうしてりっぱなくちがきけよう。)
かくまで私心が長じてきてどうして立派な口がきけよう。
(ぼくたただひとこと、「はあ・・・」)
僕はただひとこと、「はア・・・」
(とこたえたきりなんにもいわず、ははのいいつけにもうじゅうするほかはなかった。)
と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。
(「ぼくはがっこうへいってしまえばそれでよいけど、)
「僕は学校へ往ってしまえばそれでよいけど、
(たみさんはあとでどうなるだろうか」)
民さんは跡でどうなるだろうか」
(ふとそうおもって、そっとたみこのほうをみると、)
ふとそう思って、そっと民子の方を見ると、
(おますがえだまめをあさってるうしろに)
お増が枝豆をあさってる後に、
(たみこはうつむいてひざのうえにたすきをこねくりつつちんもくしている。)
民子はうつむいて膝の上に襷をこねくりつつ沈黙している。
(いかにもげんきのないふうでよるのせいかかおいろもあおじろくみえた。)
如何にも元気のない風で夜のせいか顔色も青白く見えた。