野菊の墓 伊藤左千夫 ⑫

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政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。

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問題文

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(それからなおおますは、ぼくがいないあとでたみこが)

それからなおお増は、僕が居ない跡で民子が

(ひじょうにははにしかられたことなどをはなした。)

非常に母に叱られたことなどを話した。

(それはあらましこうである。いじわるのあによめがなにをいうても、)

それはあらましこうである。意地悪の嫂が何を言うても、

(ははがたみこをあいすることはすこしもかわらないけれど、)

母が民子を愛することは少しも変らないけれど、

(ふたつもとしのおおいたみこをぼくのよめにすることは)

二つも年の多い民子を僕の嫁にすることは

(どうしてもいけぬということになったらしく、)

どうしてもいけぬと云うことになったらしく、

(それにはあによめもいろいろいうて、よめにしないとすれば、)

それには嫂もいろいろ言うて、嫁にしないとすれば、

(ふたりのなかはなるたけさくようなくふうをせねばならぬ。)

二人の仲はなるたけ裂く様な工夫をせねばならぬ。

(ははもあによめもそういうこころもちになっているから、)

母も嫂もそういう心持になって居るから、

(たみこにたいするしむけは、まさおのことをおもうていても)

民子に対する仕向けは、政夫のことを思うて居ても

(とうていだめであるととおまわしにふうじしていた。)

到底駄目であると遠廻しに諷示して居た。

(そこへきてたみこがあけてもくれてもくよくよして、)

そこへきて民子が明けてもくれてもくよくよして、

(ひとのめにもとまるほどであるから、)

人の眼にもとまるほどであるから、

(ときどきはものわすれをしたり、よんでもへんじがおそかったりして、)

時々は物忘れをしたり、呼んでも返辞が遅かったりして、

(ははのかんしゃくにさわったこともたびたびあった。)

母の疳癪にさわったことも度々あった。

(ぼくがいなくなってからはつかばかりたってじゅういちがつのつきはじめのころ、)

僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の月初めの頃、

(たみこもほかのものとのへでることとなって、)

民子も外の者と野へ出ることとなって、

(ははがたみこにおまえはひとあしあとになって、ざしきのまわりをぞうきんがけして)

母が民子にお前は一足跡になって、座敷のまわりを雑巾掛けして

(それからにわにひろげてあるむしろをくらへかたづけてからのへゆけといいつけた。)

それから庭に広げてあるむしろを倉へ片づけてから野へゆけと言いつけた。

(たみこはぞうきんがけをしてからうっかりわすれてしまって、)

民子は雑巾がけをしてからうっかり忘れてしまって、

など

(むしろをいれずにのへでたところ、まがわるくそのひあめがふったから、)

むしろを入れずに野へ出た処、間がわるくその日雨が降ったから、

(そのむしろじゅうまいばかりをぬらしてしまった。)

そのむしろ十枚ばかりを濡らしてしまった。

(たみこはあめがふってからきがついたけれど、もうまにあわない。)

民子は雨が降ってから気がついたけれど、もう間に合わない。

(うちへかえってさっそくははにわびたけれどはははふだんのことがむねにあるから、)

うちへ帰って早速母に詫びたけれど母はふだんの事が胸にあるから、

(「なにもじゅうまいばかりのむしろがおしいではないけれど、)

「何も十枚ばかりのむしろが惜しいではないけれど、

(いったいわたしのいいつけをおろそかにきいているからおこったことだ。)

一体私の言いつけを疎かに聞いているから起ったことだ。

(もとのたみこはそうでなかった。えてかってなかんがえごとなどしているから、)

もとの民子はそうでなかった。得手勝手な考えごとなどしているから、

(ひとのいうこともみみへはいらないのだ・・・」)

人の言うことも耳へ這入らないのだ・・・」

(というようなずいぶんいたいこごとをいった。たみこはははのまくらもとちかくへいって、)

という様な随分痛い小言を云った。民子は母の枕元近くへいって、

(どうかわたしがわるかったのですからかんにんして・・・とりょうてをついてあやまった。)

どうか私が悪かったのですから堪忍して・・・と両手をついてあやまった。

(そうするとはははまたそうなにもたにんらしくあらたまって)

そうすると母はまたそう何も他人らしく改まって

(あやまらなくともだとしかったそうで、)

あやまらなくともだと叱ったそうで、

(たみこはたまらなくなってわっとなきふした。)

民子はたまらなくなってワッと泣き伏した。

(そのままたみこがなきやんでしまえばなんのこともなくすんだであろうが、)

そのまま民子が泣きやんでしまえば何のこともなく済んだであろうが、

(たみこはとうとうひとばんじゅうなきとおしたのであくるあさはめをあかくしていた。)

民子はとうとう一晩中泣きとおしたのであくる朝は眼を赤くして居た。

(ははもよるときどきめをさましてみると、たみこはいつでも、)

母も夜時々眼をさましてみると、民子はいつでも、

(すくすくないているこえがしていたというので、)

すくすく泣いている声がしていたというので、

(こんどはははがひじょうにりっぷくして、)

今度は母が非常に立腹して、

(おますとたみことふたりよんでははがふるえごえになっていうには、)

お増と民子と二人呼んで母がふるえ声になって云うには、

(「あいたいではわたしがどんなわがままなことをいうかもしれないから)

「相対では私がどんな我儘なことを云うかも知れないから

(おますはききてになってくれ。たみこはゆうべひとばんじゅうなきとおした。)

お増はききてになってくれ。民子はゆうべ一晩中泣きとおした。

(さだめしわたしにいわれたことがむねんでたまらなかったからでしょう」)

定めし私に云われたことが無念でたまらなかったからでしょう」

(たみこはここでわたしはそうでありませんとなきごえでいうたけれど、)

民子はここで私はそうでありませんと泣声でいうたけれど、

(はははみみにもかけずに、)

母は耳にもかけずに、

(「なるほどわたしのこごともすこしいいすぎかもしれないが、)

「なるほど私の小言も少し云い過ぎかも知れないが、

(たみこだってなにもそれほどくやしがってくれなくてもよさそうなものじゃないか。)

民子だって何もそれほど口惜しがってくれなくてもよさそうなものじゃないか。

(わたしはほんとにかんがえるとなさけなくなってしまった。)

私はほんとに考えると情なくなってしまった。

(かわいがったのをおんにきせるではないが、)

かわいがったのを恩に着せるではないが、

(もとをいえばたにんだけれど、ちのみごのときから、)

もとを云えば他人だけれど、乳呑児の時から、

(たみこはしょっちゅううちへきていていまのまさおと)

民子はしょっちゅう家へきて居て今の政夫と

(ふたつのちぶさをひとつずつふくませていたくらい、)

二つの乳房を一つずつ含ませて居た位、

(おますがきてからもあのとおりで、)

お増がきてからもあの通りで、

(ふたつのものはひとつずつよっつのものはふたつずつ、)

二つのものは一つずつ四つのものは二つずつ、

(きものをこしらえてもあれにいちまいこれにいちまいと)

着物を拵えてもあれに一枚これに一枚と

(すこしもわけへだてをせないできた。)

少しも分け隔てをせないできた。

(たみこもしんのおやのようにおもってくれわたしもわがことおもって)

民子も真の親の様に思ってくれ私も吾子と思って

(よそのひとはだれだってふたりをきょうだいとおもわないものはなかったほどであるのに、)

余所の人は誰だって二人を兄弟と思わないものはなかったほどであるのに、

(あとにもさきにもいちどのこごとをあんなにくやしがって)

あとにも先にも一度の小言をあんなに悔しがって

(よなかないてくれなくともよさそうなもの。)

夜中泣いて呉れなくともよさそうなもの。

(いちかわのひとたちにきかれたらば、)

市川の人達に聞かれたらば、

(さいとうのばあがどんなひどいことをいったかとおもうだろう。)

斎藤の婆がどんなひどいことを云ったかと思うだろう。

(じゅうなんねんというあいだわがこのようにおもってきたことも)

十何年というあいだ我子の様に思ってきたことも

(ただいちどのこごとでわすれられてしまったかとおもうとわたしはくやしい。)

ただ一度の小言で忘れられてしまったかと思うと私は口惜しい。

(にんげんというものはそうしたものかしら。)

人間というものはそうしたものかしら。

(おます、よくきいてくれ、わたしがむりかたみこがむりか。なあおます」)

お増、よく聞いてくれ、私が無理か民子が無理か。なアお増」

(はははめになみだをいっぱいにためてそういった。)

母は眼に涙を一ぱいに溜めてそういった。

(たみこはみもよもあらぬさまでいきなりにおますのひざへすがりついてなきなき、)

民子は身も世もあらぬさまでいきなりにお増の膝へすがりついて泣き泣き、

(「おますや、おかあさんにもうしわけをしておくれ。)

「お増や、お母さんに申訣をしておくれ。

(わたしはそんなだいそれたりょうけんではない。)

私はそんなだいそれた了簡ではない。

(ゆんべあんなにないたはまったくわたしがわるかったから、)

ゆんべあんなに泣いたは全く私が悪かったから、

(まったくわたしがとどかなかったのだから、おますや、)

全く私がとどかなかったのだから、お増や、

(おまえがよくもうしわけをそういっておくれ・・・」)

お前がよく申訣をそういっておくれ・・・」

(それからおますが、「おかあさんのごりっぷくもごもっともですけれど、)

それからお増が、「お母さんの御立腹もごもっともですけれど、

(わたしがおもうにゃおかあさんもすこしかんちがいをしておいでなさいます。)

私が思うにャお母さんも少し勘違いをして御いでなさいます。

(おかあさんはながねんおたみさんをかわいがっておいでですから、)

お母さんは永年お民さんをかわいがって御いでですから、

(おたみさんのきだてはわかっておりましょう。)

お民さんの気だては解って居りましょう。

(わたしもこうしていちねんごやっかいになっていてみれば、)

私もこうして一年御厄介になって居てみれば、

(おたみさんはほんとやさしいおとなしいひとです。)

お民さんはほんと優しいおとなしい人です。

(おかあさんにすこしばかりしかられたって、)

お母さんに少し許り叱られたって、

(それをくやしがってないたりなんぞするようなひとではありますまい。)

それを悔しがって泣いたりなんぞする様な人ではありますまい。

(わたしがこんなことをもうしてはおかしいですが、)

私がこんなことを申してはおかしいですが、

(まさおさんとおたみさんとは、ああしてなかよくしていたのを、)

政夫さんとお民さんとは、あアして仲好くして居たのを、

(なにかのごつごうできゅうにおわかれなさったもんですから、)

何かの御都合で急にお別れなさったもんですから、

(それからというもの、おたみさんはかわいそうなほどげんきがないのです。)

それからというもの、お民さんは可哀相なほど元気がないのです。

(このはのそよぐにもためいきをつきからすのなくにもなみだぐんで、)

木の葉のそよぐにも溜息をつき烏の鳴くにも涙ぐんで、

(さわればなきそうなふうでいたところへ、)

さわれば泣きそうな風でいたところへ、

(おかあさんからすこしきつくしかられたからとめどなくないたのでしょう。)

お母さんから少しきつく叱られたから留度なく泣いたのでしょう。

(おかあさん、わたしはまったくそうおもいますわ。)

お母さん、私は全くそう思いますわ。

(おたみさんはけっしてあなたにしかられたとて)

お民さんは決してあなたに叱られたとて

(くやしがるようなひとではありません。)

悔しがるような人ではありません。

(おたみさんのようなおとなしいひとを、)

お民さんの様なおとなしい人を、

(おかあさんのようにああいってしかっては、あんまりかわいそうですわ」)

お母さんの様にあアいって叱っては、あんまり可哀相ですわ」

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