雨あがる 山本周五郎 ①
寺尾聰、宮崎美子、主演で映画化。
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問題文
(もういちどひめいのようなこえをあげて、それからおんなのわめきだすのがきこえた。)
もういちど悲鳴のような声をあげて、それから女の喚きだすのが聞えた。
(ーーまたあのおんなだ。)
ーーまたあの女だ。
(みさわいへえはねころんだまま、きづかわしそうにうすめをあけてつまをみた。)
三沢伊兵衛は寝ころんだまま、気づかわしそうにうす眼をあけて妻を見た。
(おたよはぬいものをつづけていた。)
おたよは縫い物を続けていた。
(ふるあわせをといてはったのを、ひとえになおしているのである。)
古袷を解いて張ったのを、単衣に直しているのである。
(ちゃいろにすすけたしょうじからのあかりで、やせのめだつほおや、)
茶色にすすけた障子からの明りで、痩せのめだつ頬や、
(とがったかたつきや、はりをもつてゆびなどが、)
尖った肩つきや、針を持つ手指などが、
(やつれたろうじょのようにいたいたしくみえる。)
やつれた老女のようにいたいたしくみえる。
(だがきちんとゆったゆたかなかみと、あざやかにあかいくちびるだけは、)
だがきちんと結った豊かな髪と、鮮やかに赤い唇だけは、
(まだむすめのようにわかわかしい。)
まだ娘のように若わかしい。
(こどもをうまないためでもあろうが、けっこんするまでのゆうふくなそだちが、)
子供を生まないためでもあろうが、結婚するまでの裕福な育ちが、
(しちねんかんのくるしいせいかつをしのいで、そこにだけかろうじてのこっているようでもあった。)
七年間の苦しい生活を凌いで、そこにだけ辛うじて残っているようでもあった。
(そとはあめがふっていた。つゆはあけたはずなのに、もうじゅうごにちもふりつづけで、)
外は雨が降っていた。梅雨はあけた筈なのに、もう十五日も降り続けで、
(きょうもあがるけしきはない。こぬかあめだからふるおとはきこえないけれども、)
今日もあがるけしきはない。こぬか雨だから降る音は聞えないけれども、
(よるもひるもたえまのないあまだれにはきがめいるばかりだった。)
夜も昼も絶え間のない雨垂れには気がめいるばかりだった。
(「どろぼうがいるんだよここには、どろぼうが」おんなのあけすけなわめきごえはたかくなった、)
「泥棒がいるんだよ此処には、泥棒が」女のあけすけな喚き声は高くなった、
(「ひとのたきかけのめしをぬすみやがった、)
「ひとの炊きかけの飯を盗みやがった、
(ちょっとあらいものをしてくるあいだにさ、)
ちょっと洗い物をして来る間にさ、
(あたしゃちゃんとなべにしるしをつけといたんだ」)
あたしゃちゃんと鍋に印を付けといたんだ」
(いへえはかたくめをつむった。めずらしいことではない。)
伊兵衛はかたく眼をつむった。珍しいことではない。
(かいどうすじのまちはずれのこういうやすやどでは、こんなさわぎがよくおこる。)
街道筋の町はずれのこういう安宿では、こんな騒ぎがよく起こる。
(きゃくのおおくはごくまずしいひとたちで、たいていがあめうりとか、)
客の多くはごく貧しい人たちで、たいていが飴売りとか、
(えんにちしょうにんとか、たびをわたるやすたびげいにんなどだから、)
縁日商人とか、旅を渡る安旅芸人などだから、
(すこしながくふりこめられでもすると、くうものにさえことかき、)
少し長く降りこめられでもすると、食う物にさえ事欠き、
(ついたにんのものにてをだす、というものもまれではなかった。)
つい他人の物に手を出す、という者も稀ではなかった。
(だがどろぼうとはひどすぎる、どろぼうとは。)
だが泥棒とはひどすぎる、泥棒とは。
(いへえはじぶんがいわれているかのように、)
伊兵衛は自分が云われているかのように、
(はずかしさとすまないようなきもちとで、むねがどきどきしはじめた。)
恥ずかしさと済まないような気持とで、胸がどきどきし始めた。
(おんなのさけびはたかくなるばかりだが、ほかにはだれのこえもしなかった。)
女の叫びは高くなるばかりだが、ほかには誰の声もしなかった。
(こちらのさんじょうのこべやからはみえないけれども、)
こちらの三帖の小部屋からは見えないけれども、
(ろのあるそのへやにはじゅうにんばかりもたいざいきゃくがいるはずである。)
炉のあるその部屋には十人ばかりも滞在客がいる筈である。
(なかにこもちのふうふづれもふたくみいて、)
なかに子持ちの夫婦づれも二た組いて、
(ちいさいほうのこどもはいちにちじゅうないたりぐずったりするのだが、)
小さいほうの子供は一日じゅう泣いたりぐずったりするのだが、
(いまはそのこさえいきをひそめているようであった。)
今はその子さえ息をひそめているようであった。
(おんなはひかげのしょうばいをするさんじゅうどしまで、)
女は日蔭のしょうばいをする三十年増で、
(ふだんからどうしゅくしゃとのおりあいがわるかった。)
ふだんから同宿者との折合いが悪かった。
(だれもあいてになるものがなく、みんながかのじょをさけていた。)
誰も相手になる者がなく、みんなが彼女を避けていた。
(もちろんけいべつではない。)
もちろん軽蔑ではない。
(じぶんがいきることでていっぱいなひとたちには、)
自分が生きることで手いっぱいな人たちには、
(しょくぎょうによってたにんをいやしめるようなしゅうかんもひまもなかった。)
職業によって他人を卑しめるような習慣も暇もなかった。
(かれらがおんなをさけるのは、かのじょのたちいがあまりにらんぼうで、)
かれらが女を避けるのは、彼女の立ち居があまりに乱暴で、
(とげとげしくって、またかしゃくのないすごいようなどくぐちをきくからであった。)
とげとげしくって、また仮借のない凄いような毒口をきくからであった。
(つまりいちもくおいているわけであるが、かのじょはそうはおもわないようすで、)
つまりいちもくおいているわけであるが、彼女はそうは思わないようすで、
(つねにあからさまなてきいをかれらにしめしていた。)
常にあからさまな敵意をかれらに示していた。
(はんつきもふりこめられて、いまみんながうえかけているのに、)
半月も降りこめられて、今みんなが飢えかけているのに、
(そんなしょうばいをしているためか、)
そんなしょうばいをしているためか、
(かのじょだけは(まずしいながら)にたきをかかさなかった。)
彼女だけは(乏しいながら)煮炊きを欠かさなかった。
(それはひごろのてきがいしんとじそんしんをおおいにまんぞくさせているようであった。)
それは日頃の敵愾心と自尊心を大いに満足させているようであった。
(「あんまりだなあ、あれは」)
「あんまりだなあ、あれは」
(いへえはこうつぶやいて、おんなのさけびがますますたかく、)
伊兵衛はこう呟いて、女の叫びがますます高く、
(とめどもなくしんらつになるのにたまりかねて、おきあがった。)
止め度もなく辛辣になるのに堪りかねて、起きあがった。
(「あれではひどい、もしほんとうにそれがそうだったとしても、)
「あれではひどい、もし本当にそれがそうだったとしても、
(あんなふうにひとのこころもちがいたむようなことをいうのはよくないとおもうな」)
あんなふうに人の心もちが痛むようなことを云うのはよくないと思うな」
(ひとりごとのようにつぶやきながら、そっとつまのかおいろをうかがった。)
独り言のように呟きながら、そっと妻の顔色をうかがった。
(かれはせたけもたかいし、かたもむねもはばひろくあつく、)
彼は背丈も高いし、肩も胸も幅ひろく厚く、
(にくのひきしまったいいからだである。)
肉のひき緊ったいい躯である。
(ふっくらとまるいかおはたいそうにゅうわで、)
ふっくらとまるい顔はたいそう柔和で、
(しりさがりのめやちいさなくちつきには、)
尻下りの眼や小さな唇つきには、
(そだちのよいしょうねんのようなせいけつさがかんじられた。)
育ちの良い少年のような清潔さが感じられた。
(「ええ、それはそうですけれど」)
「ええ、それはそうですけれど」
(おたよはぬったところをつめでこきながら、おっとのほうはみずにいった。)
おたよは縫ったところを爪でこきながら、良人のほうは見ずに云った。
(「みなさんももうすこししんせつにしてあげたらとおもいますわ、)
「みなさんももう少し親切にしてあげたらと思いますわ、
(あのかたはのけものにされているとおもって、さびしいので、)
あの方は除け者にされていると思って、淋しいので、
(ついあんなにきをおたてになるんですもの」)
ついあんなに気をお立てになるんですもの」
(「それもあるでしょうが、それにはあのおんなのひとがもうすこしなんとか」)
「それもあるでしょうが、それにはあの女の人がもう少しなんとか」
(いへえはぴくっとした。おんながついにひとのなをさしたのである。)
伊兵衛はぴくっとした。女がついに人の名をさしたのである。
(「なんとかいわないか、え、そこにいるせっきょうぶしのじじい」)
「なんとか云わないか、え、そこにいる説教節の爺い」
(おんなのこえはなにかをつきさすようだった。)
女の声はなにかを突刺すようだった。
(「しらばっくれたってだめだよ、あたしゃめしいじゃないんだ、)
「しらばっくれたってだめだよ、あたしゃ盲じゃないんだ、
(おまえがぬすんだぐらいのことははじめっからわかってるんだ、いつかだって」)
おまえが盗んだぐらいのことは初めっからわかってるんだ、いつかだって」
(いへえはとびあがった。)
伊兵衛はとびあがった。
(「いけません、あなた」おたよがとめようとしたが、)
「いけません、あなた」 おたよが止めようとしたが、
(かれはふすまをあけてでていった。)
彼は襖をあけて出ていった。