雨あがる 山本周五郎 ③
寺尾聰、宮崎美子、主演で映画化。
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問題文
(いへえはやどのしゅじんふうふとならんですわった。)
伊兵衛は宿の主人夫婦と並んで坐った。
(おとこたちもそれぞれにせきをとった。)
男たちもそれぞれに席を取った。
(ろにかけたおおきななべには、かんどくりがしちはちほんもたっていて、)
炉にかけた大きな鍋には、燗徳利が七八本も立っていて、
(ぜんがはこばれると、やどのじょちゅうがそれをみんなのぜんにくばった。)
膳が運ばれると、宿の女中がそれをみんなの膳に配った。
(そしてにぎやかなしゅえんがはじまった。)
そして賑やかな酒宴が始まった。
(「どうです、こうずらりっとさかながならんで、)
「どうです、こうずらりっと肴が並んで、
(どっしりとこうちょこをもったかたちなんてえものは、)
どっしりとこう猪口を持ったかたちなんてえものは、
(ごうせいなものじゃありませんか、くぼうさまにでもなったようなこころもちですぜ」)
豪勢なものじゃありませんか、公方様にでもなったような心もちですぜ」
(「あんまりきどんなさんな、うしろへひっくりかえるとあぶねえから」)
「あんまり気取んなさんな、うしろへひっくり返ると危ねえから」
(いへえはしりさがりのめでかれらをながめながら、)
伊兵衛は尻下りの眼でかれらを眺めながら、
(いかにもうれしそうにぐいぐいのんでいた。)
いかにも嬉しそうにぐいぐい飲んでいた。
(ひさしくうえていたところで、みんなたちまちによい、)
久しく飢えていたところで、みんなたちまちに酔い、
(ぼろしゃみせんがもちだされ、うたがはじまり、おどりだすものもでてきた。)
ぼろ三味線が持ち出され、唄が始まり、踊りだす者も出て来た。
(「まるでゆめみてえだなあ」かがみとぎのぶへいというおとこがつくづくといった、)
「まるで夢みてえだなあ」鏡研ぎの武平という男がつくづくと云った、
(「こんなことがねんにいっぺん、いやさんねんにいっぺんでもいい、)
「こんな事が年に一遍、いや三年に一遍でもいい、
(こういうたのしみがあるとわかっていたら、)
こういう楽しみがあるとわかっていたら、
(たいてえなくろうはがまんしていけるんだがなあ」)
たいてえな苦労はがまんしていけるんだがなあ」
(そしてためいきをつくのが、がやがやさわぎのなかからぽつんときこえた。)
そして溜息をつくのが、がやがや騒ぎのなかからぽつんと聞えた。
(いへえはちょっとめをつむり、それからどこかをさされでもしたように、)
伊兵衛はちょっと眼をつむり、それからどこかを刺されでもしたように、
(ぎゅっとまゆをしかめながらさけをあおった。)
ぎゅっと眉をしかめながら酒をあおった。
(こういうところへあのおんながかえってきた。)
こういうところへあの女が帰って来た。
(いつもはやはんすぎになるのに、きゃくがとれなかったものかどうか、)
いつもは夜半過ぎになるのに、客が取れなかったものかどうか、
(あおざめたようなとがったかおでどまへはいってきて、)
蒼ざめたような尖った顔で土間へ入って来て、
(このありさまをみるとあっけにとられ、)
このありさまを見るとあっけにとられ、
(ぬれたかみをふこうとしたてをそのまま、ぼうだちになった。)
濡れた髪を拭こうとした手をそのまま、棒立ちになった。
(これをはじめにみつけたのはげんさんのにょうぼうである。)
これを初めにみつけたのは源さんの女房である。
(こどもがたびたびあめだまなどをもらうので、なかではおんなとしたしくしていたが、)
子供がたびたび飴玉などを貰うので、なかでは女と親しくしていたが、
(そのときはよって、ひるまのできごとをついわすれたとみえ、)
そのときは酔って、昼間の出来事をつい忘れたとみえ、
(「おやおろくさんのねえさんおかえんなさい、)
「おやおろくさんの姐さんお帰んなさい、
(いまみさわさんのだんなのおふるまいでこのとおりなんですよ、)
いま三沢さんの旦那のおふるまいでこのとおりなんですよ、
(さあねえさんもはやくあがって」)
さあ姐さんも早くあがって」
(こういいかけたとき、せっきょうぶしのじいさんがとびあがってさけんだ。)
こう云いかけたとき、説教節の爺さんがとびあがって叫んだ。
(「おうかえったなよたかあま、あがってこい、)
「おう帰ったな夜鷹あま、あがって来い、
(めしをかえしてやるからここへきやあがれ」)
飯を返してやるから此処へ来やあがれ」
(ちゅうふうぎみでたしょうはしたがもつれるけれど、そのこえはすばらしくたかく、)
中風ぎみで多少は舌がもつれるけれど、その声はすばらしく高く、
(めはぎらぎらしていたし、からだぜんたいがふるえた。みんなはだまった。)
眼はぎらぎらしていたし、躯ぜんたいが震えた。みんなは黙った。
(うたもしゃみせんもぴたりとやめて、いっさいにおんなのほうへふりむいた。)
唄も三味線もぴたりと止めて、一斉に女のほうへ振向いた。
(「ひとをぬすっとだなんてぬかしゃがって」じいさんはしにそうなこえでつづけた、)
「人を盗人だなんてぬかしゃがって」爺さんは死にそうな声で続けた、
(「てめえはなにさまだ、よくもこのとしよりのことを、さあきやがれ、)
「てめえはなに様だ、よくもこの年寄のことを、さあ来やがれ、
(おらこのとおりくわずにとっておいたんだ、)
おらこのとおり食わずに取って置いたんだ、
(ざまあみやがれ、もってけつかれ」)
ざまあみやがれ、持ってけつかれ」
(「まあまってください、そういわないで、まあとにかく」)
「まあ待って下さい、そう云わないで、まあとにかく」
(いへえがたってじいさんをなだめた、)
伊兵衛が立って爺さんをなだめた、
(「ひとにはまちがいということがありますからね、あのひともかなしいんですよ、)
「人には間違いということがありますからね、あの人も悲しいんですよ、
(にんげんはみんなおたがいにかなしいんですから、もうかんべんしてなかなおりをしましょう」)
人間はみんなお互いに悲しいんですから、もう勘弁して仲直りをしましょう」
(かれはしどろもどろなことをいって、どまにいるおんなのほうへよびかけた。)
彼はしどろもどろなことを云って、土間にいる女のほうへ呼びかけた。
(「あなたもどうぞ、なんでもないんですから、)
「貴女もどうぞ、なんでもないんですから、
(どうぞこっちへきてすわってください、なにもありませんけれど、)
どうぞこっちへ来て坐って下さい、なにも有りませんけれど、
(みなさんときもちよくひとくちやってください、すべておたがいなんですから」)
みなさんと気持よくひと口やって下さい、すべてお互いなんですから」
(「おいでなさいよ」やどのしゅふもくちをそえた。)
「おいでなさいよ」宿の主婦も口を添えた。
(「だんながああおっしゃるんだから、ここへきてごちそうにおなんなさいな」)
「旦那がああ仰しゃるんだから、此処へ来て御馳走におなんなさいな」
(つづいてみんながすすめた。)
続いてみんながすすめた。
(さけのきげんばかりでなく、このひとたちはよろこびやたのしみを)
酒のきげんばかりでなく、この人たちは喜びや楽しみを
(どくせんすることができないのである。)
独占することができないのである。
(たがなおしのげんさんのにょうぼうがたってゆき、てをとっておんなをつれてきた。)
タガ直しの源さんの女房が立ってゆき、手を取って女をつれて来た。
(かのじょはつんとすましたかおですわり、ぎりでのんでやるんだというふうに、)
彼女はつんとすました顔で坐り、義理で飲んでやるんだというふうに、
(だまってそりかえってさかずきをとった。)
黙って反りかえって盃を取った。
(「さあにぎやかにやりましょう」いへえはおおきなこえでいった、)
「さあ賑やかにやりましょう」伊兵衛は大きな声で云った、
(「てんがびっくりしてこのあめをしまいこむように、さあひとつ、みんなで・・・」)
「天がびっくりしてこの雨をしまいこむように、さあひとつ、みんなで・・・」
(そしてまたさわぎがはじまると、いへえはようやくゆうきがでたようすで、)
そしてまた騒ぎが始まると、伊兵衛はようやく勇気が出たようすで、
(じぶんのまえにあるぜんをもってたち、つまのいるさんじょうへはいっていった。)
自分の前にある膳を持って立ち、妻のいる三帖へ入っていった。
(おたよはあしのちんばなこづくえにむかって、てづくりのちょうめんににっきをかいていた。)
おたよは脚のちんばな小机に向って、手作りの帳面に日記を書いていた。
(ながいほうろうのねんげつ、それだけがたのしみのように、)
ながい放浪の年月、それだけが楽しみのように、
(かかさずつけてきたにっきである。)
欠かさずつけて来た日記である。
(うすぐらいあんどんのひかりをそばへよせて、まえかがみにつくえへむかっているつまのすがたをみると、)
うす暗い行燈の光りを側へ寄せて、前かがみに机へ向っている妻の姿を見ると、
(いへえはぜんをおいてそこへすわり、きちんとひざをそろえておじぎをした。)
伊兵衛は膳を置いてそこへ坐り、きちんと膝を揃えておじぎをした。
(「すみません、かんべんしてください」おたよはしずかにふりかえった。)
「済みません、勘弁して下さい」 おたよは静かに振返った。
(くちびるにはびしょうをうかべているが、めはあきらかにおこっていた。)
唇には微笑をうかべているが、眼は明らかに怒っていた。
(「かけじあいをなさいましたのね」)
「賭け試合をなさいましたのね」
(「しょうじきにいいます、かけじあいをしました」)
「正直に云います、賭け試合をしました」
(いへえはまたおじぎをした。)
伊兵衛はまたおじぎをした。
(「どうにもやりきれなかったもんだから、あんなことをきくとかなしくって、)
「どうにもやりきれなかったもんだから、あんなことを聞くと悲しくって、
(どうしたってしらんかおをしてはいられませんからねえ、)
どうしたって知らん顔をしてはいられませんからねえ、
(とにかくみんなこまっているし、あめはやまないし、)
とにかくみんな困っているし、雨はやまないし、
(どんなきもちかとおもうと、もうじっとしていられなかったんです」)
どんな気持かと思うと、もうじっとしていられなかったんです」
(「かけじあいはもうけっしてなさらないやくそくでしたわ」)
「賭け試合はもう決してなさらない約束でしたわ」
(「そうです、もちろんです、)
「そうです、もちろんです、
(しかしこれはじぶんのこうふくのためじゃないんですからね、)
しかしこれは自分の口腹のためじゃないんですからね、
(わたしは、ええわたしもそれはすこしはのんだですけれども、)
私は、ええ私もそれは少しは飲んだですけれども、
(すこしよりはいくらかおおいかもしれませんけれども、)
少しよりは幾らか多いかもしれませんけれども、
(みんなあんなによろこんでいるんだし」)
みんなあんなに喜んでいるんだし」
(そしてもういちどかれはおじぎをした。)
そしてもういちど彼はおじぎをした。
(「このとおりです、かんべんしてください、もうけっしてしませんから、)
「このとおりです、勘弁して下さい、もう決してしませんから、
(そしてどうかこれを、・・・かんべんするしょうこに、ひとはし、)
そしてどうかこれを、・・・勘弁する証拠に、ひと箸、
(ほんのひとはしでいいですから」)
ほんのひと箸でいいですから」
(おたよはかなしそうにびしょうしながら、ふでをおいてたちあがった。)
おたよは悲しそうに微笑しながら、筆をおいて立ちあがった。